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競馬界の未来を守る者

「先輩、こんなところに私を呼びつけてどうするつもりですか? もしかして愛の告白ですか?」


 新聞社の入っている雑居ビルの屋上にやってきた姫野は、相変わらずノーテンキな声で冗談を飛ばしていた。



「どうしても2人きりになりたかったんです。大事な話がありますので」


「やっぱり愛の告白じゃないですか」


「違います」


 今から柴村がする話は、そんなこととは比較にならないくらい重要な話である。それは日本競馬界の未来に深くかかわる話なのだ。



「姫野さん、寒くて長居できないので、余計な話は抜きにして話しますよ」


 昨日からカレンダーは2月に突入していた。屋上に吹く風は強く、そして冷たい。普段から牧場のある北海道での野外の仕事に慣れているから寒さには耐性があるが、長居しないことには越したことはない。それはこんな季節にストッキングを露出させて立っている姫野にとってはなおさらである。



「去年の有馬記念の日の話です。もう1ヶ月以上前になりますね。あの日、僕と姫野さんは、記者席で競馬を見ていたんです。いわば一般客に混ざって競馬を観戦する取材をしていたわけですね」


「そうでしたね。2人でずっと一緒にいましたね」


「とはいえ、文字通りずっと一緒にいたわけではないですよね? お互いに単独行動をする時間はあったわけですから」


「それはそうですね。カップルじゃないんで手を繋ぎながら歩くわけでもないですしね」


「とりわけ、姫野さんはいつも自由な人ですから、ふと目を離した隙にどこかに消えていることは一度や二度ではありませんでした。いつも意味もなくフラフラしているのが姫野さんですから」


「さすが先輩、私の特性をよく分かってますね!」


 姫野は、心から感心していると言わんばかりに、パチンと平手を合わせた。



「しかし、この有馬記念の日は、姫野さんは意味もなくフラフラしていたわけではなかったんです。ある目的があって、僕と単独行動をとっていたんです」


「目的? 先輩、何言ってるんですか? そんなことないですよ?」


 姫野はいつもの素っ頓狂な声を出す。とぼけているのだ。



「姫野さんはまず、第1レースの直前、僕の元から離れ、騎手の控え室の方まで行ったんです。そこは一般人は立ち入り禁止の場所だけど、姫野さんには記者証がありますからね。そこで、姫野さんはロッカールームにまで忍び込み、原西騎手のロッカールームに、手紙と睡眠薬を仕込んだんです」


 例の、ダービー前日の椋原騎手の悪事を告発するワープロ打ちの手紙である。あれは姫野が作成し、睡眠薬とともに原西騎手のロッカーに入れたのだ。



「手紙の内容については、姫野さんに説明する必要はないですよね。作成した張本人ですから。姫野さんは、とても取材上手な記者です。とりわけ飲み会の場で、競馬関係者の人から『ここだけの話』を聞き出す能力に長けています。おそらくお酒に酔った椋原騎手が、姫野さんに対して、口を滑らせてしまったのでしょうね」


「飲み会の場ではないです。椋原の家です。椋原はものすごく女癖が悪くて、女性記者をよく自分の家に誘うんです。あの日も、俺の家でしかできないとっておきの特ダネがあるから、と言って、私を家に誘いました。私は大事な話-椋原が原西騎手に睡眠薬を盛った話だけを聞いて、間一髪逃げ出したんですけどね」


 「手紙と睡眠薬」というフレーズを聞いて、柴村が全てを知っていることを悟ったのか、姫野は誤魔化すことをやめた。



「椋原に渡された飲み物には口をつけるな、というのは、若い女性記者の間では定説ですよ。あいつは女性に睡眠薬を飲ませて、無理やり行為に及ぼうとするんです。私はそのことを知っていたので、椋原が出した飲み物は、飲むふりだけして決して口を付けませんでした」


「なるほど。とすると、椋原騎手が原西騎手に飲ませた睡眠薬というものも、女性を襲うために持っていたデートレイプドラッグということですか。とんでもない野郎ですね」


「そうです。本当にとんでもない野郎なんですよ。女の敵ですよ」


「かといって、椋原騎手に部屋に連れ込まれて襲われそうになったことの恨みを晴らすために、姫野さんは原西騎手に手紙と睡眠薬を渡したわけではないですよね」


「ええ。そうですね」


 姫野の動機は、仕返しや復讐ではない。確固とした「目的」に基づくものなのだ。



「姫野さんは、手紙に、同封した睡眠薬は椋原騎手が原西騎手盛ったものと同じものである、と書きました。睡眠薬を同封した目的は、あくまでも、椋原騎手が使った睡眠薬が何かを原西騎手に教えるため、という体裁をとったんです。しかし、実際には、睡眠薬は全く別の種類のものでした。椋原騎手が原西騎手に使った睡眠薬は即効性のもので、その場で飲ませた相手の気を失わせてしまうようなものでした」


 デートレイプドラッグというのはそういうものだ。



「他方で、姫野さんが手紙に同封した睡眠薬は、遅効性のものなんです。すぐには効かず、また、効力も突然気を失わせる、というよりは、ジワジワと徐々に強い眠気を与えるものなんです」


「先輩の言う通りです。エスタゾラム、という不眠症、特に、一旦入眠しても夜中に目が覚めてしまう方向けに処方される睡眠薬です。効果のピークは使用から約5時間後です」


 姫野が原西騎手のロッカーに睡眠薬を入れたのは10時頃、そして、有馬記念の出走は15時半頃だから、ちょうど約5時間後である。姫野の「目的」とは辻褄が合う。



「姫野さんには、ある重大な『目的』がありました。とはいえ、その『目的』のために椋原騎手に睡眠薬を飲ませることまでには躊躇を覚えたんです。姫野さんは、椋原騎手に対する個人的な恨みを持っていたわけではないですから。他方で、以前椋原騎手に睡眠薬を飲まされ、ダービー騎手の座を奪われた原西騎手には、その資格があると考えました。そこで、椋原騎手に睡眠薬を飲ませるかどうかを原西騎手の選択に委ねることにしたんです。ロッカーに入れた手紙と睡眠薬はそのためのものでした」


 原西騎手の選択に委ねるため、姫野は、手紙で、椋原騎手に睡眠薬を飲ませるよう命じなかった。手紙は、単に椋原騎手の罪を告発し、「参考」としてそのときに椋原騎手が「使用した」睡眠薬が同封されていただけなのである。



「結果、姫野さんの願い通り、原西騎手は椋原騎手に対して睡眠薬を使用しました」


 原西騎手は、ラストランでのクレイメルタの騎乗を果たすために、椋原騎手に睡眠薬を盛ったのだ。



「原西騎手は、椋原騎手に対して、有馬記念に出場しないで欲しい、と願っていました。そのため、飲ませてすぐに睡眠薬が作用し、椋原騎手が有馬記念の前のレースに騎乗できなくなって欲しいと考えてたはずです。原西騎手がダービーの鞍上を降ろされたときも、その理由は、原西騎手が寝坊したことによって、ダービー以前のレースで騎乗を飛ばしてしまったことですから」


 原西騎手の経験から言えば、仮に有馬記念の発走の時点で椋原騎手がピンピンしていたとしても、有馬記念の前に予定されていたいずれかのレースで椋原騎手が騎乗予定をすっぽかすようなことがあれば、江ノ島調教師や深川オーナーの反感を買い、椋原騎手は有馬記念での騎乗を許されないはずだった。原西騎手は、まさにダービーの日に自分の身に降りかかったことと同じことが椋原騎手にも起こることを祈っていたに違いない。



「しかし、姫野さんの『目的』は、原西騎手のものとは全く違っていたんです。姫野さんの『目的』を達するためには、むしろ椋原騎手に有馬記念に出てもらわなければいけなかったんです」


 ですから、と柴村は続ける。



「姫野さんは、遅効性の睡眠薬を選んだんです。原西騎手がそれを使うであろう時間から逆算し、ちょうど有馬記念の時間に椋原騎手に気絶しない程度の眠気を与えるようなものを。そして、姫野さんは、有馬記念の直前、眠っている椋原騎手を探して、起こしたんです。誰にも気付かれずに眠っていては有馬記念の出場機会は当然に逃すことになりますからね」


 椋原騎手の話によれば、椋原騎手は、有馬記念の直前、誰の目にも触れない旧売店のベンチで眠ってしまっていたところ、姫野に起こされたとのことだった。


 椋原騎手は、姫野がたまたま通りかかったと言っていたが、そうではなく、姫野はわざわざ椋原騎手を探していたのである。その証拠に、有馬記念の直前、記者席から姿を消していた姫野は、戻ってきたとき、柴村たちに対して「トイレが混んでいた」と嘘をついているのである。姫野が、有馬記念の直前に、わざわざ競馬関係者のみ立ち入り可能なところに行き、目立たない場所にいた椋原騎手を発見して起こしたという話は、姫野にとって隠したい事実なのだ。



「そして、願い通り、睡眠薬で頭がボーッとした状態の椋原騎手に有馬記念で騎乗させることにより、姫野さんの「目的」が実現したんです。それは-」



 姫野が本件を仕組んだのは、すべてこの「目的」のためだ。




「それは、クレイメルタを予後不良にすることです」



 姫野のターゲットは、鞍上の椋原騎手ではなく、クレイメルタだったのだ。




「姫野さんは、どうしても引退前にクレイメルタを殺さなければいけないと考えていたんです。そのために、ラストランの有馬記念で、クレイメルタに重大な事故を起こそうとした。それが今回の事件の真相なんです。そうですよね? 姫野さん?」


 姫野は、いつものノーテンキな声でなく、低く重たい声で答えた。



「さすが先輩です」




 柴村は、ポケットから4つ折りの紙を取り出した。ちょうど今日、柴村宛に届いたものである。

 姫野がクレイメルタを殺すために今回の事件を仕組んだ、という全体像は、去年の年末、病室で椋原騎手から話を聞いたことにより、頭に浮かんでいた。その動機も、なんとなく推測できた。

 もっとも、決定的な証拠が手元になかったため、今日まで姫野を追及するまではできなかった。今柴村が開いているこの紙に書いてあるデータこそが、柴村が必要としていた「決定的な証拠」なのである。



「これは偶然なんですが、クレイメルタが予後不良と診断されたとき、安楽死させられる寸前のクレイメルタに僕は会いに行き、そこでクレイメルタのたてがみを数本もらっていたんです。クレイメルタは僕も大好きな馬だったので、個人的に宝物にするつもりでした。そのたてがみが、まさかこんな方法で役に立つことになるとは思ってもみなかったんですけど」


 柴村は、開いた紙を、姫野に向かって突きつけた。


 格子状の表の中にびっしりと細かく数値が書かれている。



「これはクレイメルタのたてがみを使ったクレイメルタの遺伝子検査のデータです。最初に競走馬として登録する際に、競走馬はみんな遺伝子検査しをています。そこでの検査の目的は、その競走馬の両親が、登録されようとする両親と一致しているかどうかをチェックするためのものです」


 競馬法によって、すべての競走馬の血統登録が義務付けられている。そのための方法として以前は血液型検査が行われていたが、2000年代からは遺伝子検査が行われている。これによってほぼ正確に血統を把握することができる。競馬は「ブラッド・スポーツ」とも言われるように血統がとても重要だ。



「もっとも、今回の僕の検査目的は全く別のものでした。ですので、検査事項も全く違います。検査依頼を受け付けてくれる機関を探すのにも骨が折れましたよ。最新鋭の知見と技術を要する検査ですからね。検査には1ヶ月も要しました」


 吹く風もいつの間にかやみ、屋上は静寂に包まれていた。


 柴村はその静寂を少しだけ弄んだ後、今まで「遠い国の話」だと思っていた話をゆっくりと始めた。



「僕が依頼した検査は、遺伝子ドーピングの有無の検査です」



 遺伝子ドーピング。


 それは遺伝子操作によるドーピングであり、赤血球を増やす遺伝子や成長ホルモン遺伝子を体内に導入することによって運動能力を上げる方法である。



「結果、クレイメルタから遺伝子ドーピングがされた形跡が発見されました。クレイメルタの圧倒的な走力は、遺伝子操作によってもたらされたものだったのです」


 それは柴村の予想通りであると同時に、柴村を大きく落胆させる結果であった。クレイメルタは「特別な馬」ではなかったのである。遺伝子ドーピングによって強化されただけの「並みの馬」だったのだ。



「遺伝子ドーピングが従来の薬物ドーピングとは違う点が、大きく2つあると思います。1つは、薬物ドーピングと違い、検査によって陽性陰性を判明させることが難しいということです」


 ドーピング検査が厳重に行われているJRAレースにおいて、一度もクレイメルタが失格とならなかったことも不思議ではない。クレイメルタからは「禁止薬物」は検出されないのである。



「そして、薬物ドーピングとのもう1つの違いは、遺伝子ドーピングの場合、ドーピングの結果は、遺伝子を通じて、子どもにも受け継がれてしまうことです」


 ゆえに「ブラッド・スポーツ」である競馬においては、絶対に遺伝子ドーピングが行われてはいけないのだ。



「競馬において、血統というものは脈々と受け継がれているものです。それには300年を超える歴史があり、現存するサラブレッドの血統を辿ると、すべてがダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアンの3大始祖のいずれかに辿り着きます。日本競馬に焦点を絞っても、ノーザンテースト、ヘニーヒューズ、ミスタープロスペクター、キングマンボ、そしてサンデーサイレンスやディープインパクトといった名種牡馬たち、さらにメジロオーロラ、スカーレットブーケ、エアグルーヴといった名繁殖牝馬たちが存在して、試行錯誤の配合が繰り返されてきたんです」


 現在のサラブレッドたちは、決してなんとなく偶然産まれてそこにいるわけではない。それは数百年にわたる先人たちの知恵と努力の結晶としてここに存在しているのだ。



「ですから、ドーピングという穢れた方法によって、血統地図を塗り替えることはあってはならないのです」


 それは、競馬というスポーツそのものの否定であり、競馬を殺すに等しい。



「ですから、姫野さんはクレイメルタを殺すことにしたんですよね。競馬の未来を守るために」



 姫野はゆっくりと頷いた。



「先輩の言う通りです。遺伝子ドーピングというのは、殊競馬というスポーツにおいては絶対にあってはないことでした。しかし、その禁断の果実に、私のお父さんは手を出してしまったのです。私は、クレイメルタがダービーを制覇した夜、お父さんからそのことを聞きました」


 クレイメルタの馬体が急激に良化したのは、きさらぎ賞と皐月賞との間、すなわち、グラスファームでの短期放牧の間である。ゆえに、遺伝子ドーピングが行われたのだとすると、このタイミングしかないと柴村は考えていた。柴村の推理通り、クレイメルタに遺伝子ドーピングを実施することを決めたのは、勝彦氏だったのである。



「うちの牧場の有力牝馬であるサクラフローラの種付け相手として、プラメルを選んだのは、私のお父さんです。私のお父さんは、昔フランスの現地でプラメルが勝ったレースを見ていたらしく、それで、日本人にはあまり注目されていないフラメルの血に興味を持ったみたいです。そして、お父さんは、自信満々にサクラフローラとプラメルの産駒の宣伝を始めました」


「それで深川オーナーがその産駒に目を付けたわけですね。そして、3億1000万円もの高値で落札したんですね」


「そうです。深川さんはお父さんの飲み友達でしたが、それだけの関係ではありませんでした。昔からグラスファームを支援していて、何十億というお金を融資してくれていたんです。最近グラスファームの経営は低調で、ほとんど赤字の状態で回しているようなものでしたから、お父さんは深川さんに強い恩義を感じていて、絶対に裏切ってはならないと考えていたんです」


「つまり、深川オーナーのために、クレイメルタに遺伝子ドーピングを施したということなんですね」


「それが深川オーナーのためなのか、グラスファームのためなのかは断じることはできませんが、そういう話です。深川オーナーがお父さんの話を信頼し、3億1000万円も支払った産駒で、鳴かず飛ばずの成績のまま終わらせるわけにはいかないと、お父さんは考えたんです。そんなことになってしまえば、今後深川オーナーに見放されるかもしれませんし、借金を返すように迫られるかもしれません。そうしたら、うちの牧場は一巻の終わりです。ですので、お父さんは、クレイメルタの遺伝子を操作し、ダービーが勝てる馬にしたんです」


 昔、深川オーナーに取材したときに、ダービー馬を所有することが夢だと語っていたことを思い出した。勝彦氏は、禁断の方法によって、深川オーナーの夢を叶え、ご機嫌取りをしたのだ。



「クレイメルタがダービーを勝った夜、お父さんから遺伝子ドーピングについて告白された私は、お父さんに、早急にその事実を公表するように求めました。しかし、お父さんはそれを拒絶しました。そんなことを公表したら、深川オーナーとの関係は最悪なものになってしまいますから」


 そもそも公表しないからこそ、遺伝子ドーピングを行えるのである。



「グラスファームの置かれている状況については、娘の私もよく分かってましたから、お父さんを厳しく追及することもできませんでした。他方、私は、せめて引退後にクレイメルタを種牡馬にはしないように頼んだんです。クレイメルタを種牡馬にしてしまえば、大変なことになってしまいます。クレイメルタはダービ馬ですから、種牡馬としては最高ランクの評価です。初年度から何百頭もの牝馬と種付けされてしまうことでしょう」


 しかもクレイメルタはただのダービー馬ではない。その後も、G1を連勝していたのである。美しい馬体に目を移しても種牡馬としての優秀さは明らかであり、種牡馬となれば、日本の名繁殖牝馬たちの種付け相手にも選ばれたに違いないのだ。



「私は、遺伝子ドーピングによって日本の血統地図が塗り替えられるのはどうしても許せませんでした。同じく競馬に携わる人間として、お父さんも同じ気持ちを持っているのだと、私は信じていました。お父さんは一度はクレイメルタを種牡馬にしないことを私に誓いました。しかし、有馬記念での引退レースが決まる直前にクレイメルタの種付け権の大型のシンジケートを組むことを画策し、色々な人に声をかけて根回しを始めていたんです」


 引退前からクレイメルタに種付け権にシンジケート計画があることについては、噂レベルでは報じられていたが、本当だったらしい。

 とはいえ、必ずしも勝彦氏を責めることはできない、と柴村は思う。引退後にその馬をどうするかというのは、結局、その馬のオーナーが決めることなのだ。オーナーの経済的利益が大きく関わっている以上、牧場が口出しできることは限られている。



「引退と同時にクレイメルタについて大きなお金が動くことになっていたので、私に考えられる選択肢は2つでした。一つはクレイメルタの遺伝子ドーピングの存在を世間に公表すること、そして、もう一つがクレイメルタが引退する有馬記念でクレイメルタを殺すこと、だったんです」


「姫野さんは後者を選んだんですね」


「そうです。今後の抑止も踏まえれば、私は競馬界のために、遺伝子ドーピングの存在を公表すべきでした。しかし、そうすることにより、私のお父さんは犯罪者となってしまいます。グラスファームも破産せざるを得なくなるでしょう。ですから、私は、卑怯な手段を選んでしまったのです。独善的で自分に都合のよい手段を」


「姫野さんは、後者の手段が、正しくない方法だと自覚をしていた。レース中に事故を起こさせれば、鞍上の騎手は大怪我を負う可能性がありますし、本来罪のないはずのクレイメルタだって命を落とすことになってしまいます。ですから、姫野さんは、それを積極的に実現しようとしなかったんですね」


「先輩の言うとおりです。私は、有馬記念で事故が起こればいいな、というくらいの気持ちでいました。もしそうならなかったらならなかったで、そのときは覚悟を決めて、堂々と遺伝子ドーピングの事実を公表すればよいと考えてましたから」


「ですから、姫野さんの計画は、およそ『計画』と言えるような厳密ものではなかったんですね。手紙と睡眠薬をロッカーに入れたところで、原西騎手が椋原騎手に睡眠薬を盛るとは限らないですから、そこには、原西騎手が睡眠薬を盛ればいいな、という1つ目の未必の故意があり、睡眠薬を飲んだ椋原騎手がレース中に事故を起こすとは限りないわけですから、椋原騎手が事故を起こせばいいな、という2つ目の未必の故意があった。その2つの未必の故意が偶然実現してしまったことから、今回の事故が起きてしまったというわけですね」


 今回の事故は必然的に起こったものではなかったのである。事故が起こらない可能性も十分にあったのだ。とはいえ、事故が起こる可能性は一体何%あったのかと考えてみても、実際に起こってしまった以上は、それ以外の結末はなかったとしか言いようがない。

 まさに競馬の予想と似ている。勝ち馬が勝つ可能性は100%ではないものの、結末だけ見れば、その勝ち馬が勝つ以外の結末はないことと。



「先輩、よく真相に辿り着きましたね。実は兼業で探偵でもやられてるのですか?」


「まさか。記者としての地道な取材の賜物ですよ」


 柴村が本件を推理できたのは、推理に必要なピースをたまたま柴村がすべて持っていたからである。柴村は姫野の後輩であり、さらに勝彦氏からも椋原騎手からも原西騎手からも話を聞ける立場にあった。そして、何より決定的な証拠であるクレイメルタのたてがみを偶然保持していたのだ。


 柴村同様に本件の真相に辿り着ける者は、おそらく他には誰もいないだろう。




「先輩、どうしますか? 私を刑事告発しますか?」


 姫野は、今まで見せたことがないような真剣な眼差しで柴村の目をじっと見つめる。


 屋上に来る前から、柴村の結論は決まっていた。



「まさかそんなことするわけないじゃないですか。姫野さんは日本競馬界を救ったヒーロー、いや、ヒロインなんです。表彰するならまだしも、刑事告発だなんてとんでもない」


「いいんですか?」


 これは決して柴村の独断ではない。おそらく真相を知ったところで、椋原騎手も原西騎手も同じように姫野を責めることはしなかっただろう。



「もちろんです。しかも、我が社は今、人材不足に喘いでいるんです。優秀な後輩記者をそう容易く手放すわけにはいきませんしね」


 柴村が笑いかけると、姫野の肩の力も抜けたようで、いつものおちゃらけた後輩に戻った。



「先輩、今、私を表彰したいだとか、私を優秀な後輩だと言いましたよね?」


「え?」


「とすると、4月の査定では私の給料はアップすると考えてよいですか?」


「そんなことより、姫野さん、そんな薄着でいつまでもこんな寒いところにいると風邪引いてしまいますよ。早く記者室に戻って明日のレースの馬柱とにらめっこしましょうね」


 「はーい」と気の抜けた返事をすると、姫野は、急に寒さに気付いたように、肩を抱きながら小走りで屋上の出口へと向かった。





(了)


 菱川の趣味が全開の本作を最後までお読みいただきありがとうございました。


 構想段階では2万字程度で終わるかな、と思っていたのですが、実際に書き出すと、色々と背景事情の説明が必要で、到底2万字では収まらず、菱川が思う「短編」のラインである3万字を優に超えてしまいました。反省はしていますが、文字数が多い分、濃い作品になったのではないかな、と自負しています。



 競馬をテーマにしたミステリーを書くくらいだから、よほどの競馬好きなんだろう、と思われるかもしれませんが、実は大したことはありません。

 というのも、競馬に興味を持ってからまだ半年くらいしか経ってませんし、しかも、競馬に興味を持ったきっかけが、競馬をコンセプトにしたコンカフェ(コンセプトカフェの略。メイド喫茶のようなもの)にハマったからというしょうもない理由なのです。

 にわか知識しかないため、執筆には相当苦労しました。3作前の「潜水館の殺人」が約3万字を1日で書き切ったこともあり、本作も土日を費やせば完結できるかなと軽く考えていたのですが、結局次の木曜日までかかってしまいました。めちゃくちゃググりましたし、血統の本なんかも読みました。それでもおそらく調査に不足があったり、事実と異なる記述は多々あると思います。気付いた方は優しくご指摘いただけると幸いです。



 本作ですが、菱川的には、処女作の「フィクション殺人事件」と同じくらいに純度の高いミステリーだと思っています。ミステリーの定義は色々あるとは思いますが、菱川的には、本作がまさに典型的な「ミステリー」です。

 SF設定や叙述トリックには頼らず、また本格のようにゲーム性を追求するわけでもなく、登場人物の行動描写と心理描写だけで読者を騙し、説得するというガチンコのミステリーでした。


 しかも型として、


 最初に事件が起こる→主人公が事件について調査→犯人を当てる→さらに真犯人を当てる


 という、シンプルな「二重底」構造を取れたことも、書いていて、自分ミステリー書いているな、と感じたところです。


 どんでん返し、というほどの派手さはなかったとは思いますが、椋原騎手を狙った犯行→クレイメルタを狙った犯行、という、いずれも「ダービーへの執念」が引き起こした綺麗なコントラストのオチを2種類示せたことに個人的には大満足しています。ストーリーの大半がクレイメルタのことについて語られているにもかかわらず、1段目のオチで実は椋原騎手を狙ったものだった、と判明したときには、きっと読者の方はがっかりされたと思うので、2段目のオチでクレイメルタを直接のターゲットだとわかるくだりに関しては自画自賛したいところです。


 もっとも、元々2万字くらいのサクッとした作品にする予定だったことから、「推理の過程」という部分では不十分かなという反省もしています。もう少し時間があったら練れたのかもしれませんが、姫野さんを犯人と特定するくだりはまだしも、原西騎手を犯人と特定するくだりには推理としては説得力がないな、と我ながら反省しています。今後精進します。



 さて、本作は、開き直ってなろうウケを一切狙わず、貴重なミステリーファンの方か貴重な競馬ファンの方に読んでもらえればいいかな、くらいの気持ちで書きましたが、次回あたりからそろそろなろうウケを狙っていきたいと考えています。



 異世界系でミステリーを書こうとそれなりに構想を練っていたのですが、ハイファンとミステリーの食い合わせが悪すぎて迷走中なので、一旦、もう少し菱川が書きやすい作品を書きます。



 次回作の構想はできていて、「論理パズルの殺意」という連作短編になります。


 川渡りゲームや悪魔と手鏡問題など、有名な論理パズルの世界を舞台に、キャラクター同士の殺し合いを書きます。ゲーム性抜群な斬新な作品になるかと思います。



 最後に、毎度の宣伝になりますが、菱川クラスの底辺作家にはあまり読者が付いていないので、たくさんの方に見てもらえるという機会はほとんどなく、数少ない方が積極的にブックマークをつけてくださったり、積極的に評価をしてくださったりすることによって、なんとか届けたい方に届くことになっております。

 ですので、厚かましいお願いで恐縮ですが、最低評価でもなんでもよいので、ptを下さると大変ありがたいです。なろうウケを積極的に狙っていないとはいえ、4万字も書いて誰にも読んでもらえないと結構凹みます。ぜひ人助けのつもりでよろしくお願いいたします。



 それでは、引き続き菱川あいずをよろしくお願いします。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 各々の「ダービーへの執念」について語るところとか特に面白かったです! [一言] これからも頑張ってください!
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