✐3 オーバーレイレイヤーを飾る
私のルイボスティーのグラスにはもう氷が溶けきってしまっていたのに、梢枝のグラスには丸くなった最後のひと欠けの氷がふわりと浮いていた。でも、グラスの底には両方にそっくりな水滴の輪ができていてローテーブルは久々に私以外の存在がいることに気付いたこ頃だろう。
私のスケッチブックを開くにはその水滴が気になるから、私は梢枝と一度部屋を出た。
「お母さん、お盆借りるね。あと、この布巾使っていいやつ?」
お母さんはエコバックから冷蔵庫に買ってきた野菜や冷凍食品を移していた。
「オッケー。持って行きな」
梢枝はもう私の後ろに隠れなくなった。
「七森、お盆と布巾お願い。私、お茶持っていくから」
「うん、わかった」
梢枝はとても大事なものを受け取るように何も乗っていないお盆を慎重に受け取った。私はその上に雑に布巾を放り投げた。
「あの、ママさん。お約束もなしに突然上がって、迷惑じゃなかったでしょうか?」
ママさん、って。
「梢枝ちゃん、全然よ。気のすむまでいて良いよ」
梢枝ちゃん、って、また。
「あ、あ、ありがとうございます。あと、その。さっきはなんか変なこと言ってすいません。思い返したら、私、何言ってんだって思っちゃって」
「ぜ~んぜん。梢枝ちゃんも絵を描くんだね。今日はもう、とことん描いちゃって!」
柴犬の顔が爆発的に明るくなった。絶対しっぽ振ってる。
「はい、うれしい!とことん描きます!」
おい、反省はどこに行った。
梢枝はルンルンな足取りで私の部屋に先んじて向かった。私は手の中のルイボスティーの入ったピッチャーを握り直して、梢枝の後に続いた。
ローテーブルの隅に並んだグラスを取り上げて、もってきたお盆に乗せる間に、梢枝は水滴のリングを布巾で取り除き、そのままテーブル全体を勢いよく拭った。そのせいで、梢枝のノートは私が座っていたヨギボーに突き刺さるように吹っ飛んだ。あわててそれを拾いに行った梢枝の脛をローテーブルが狙い撃ちした。鈍い音がふたつ聞こえて、一つが脛を打った音、もう一つが梢枝の短い呻きだった。
「落ち着きなさいよ。七森」
「渚ちゃん、痛いよ」
「だろうね」
「冷たいよ」
呆れて何も言えなかったが、自分の口角が上がっていることに気づいた。ベッドの端に手をついて、脛をぶつけた体制から動かない梢枝がおかしかった。ついに、柴犬が四足歩行の姿勢になったのだ。 梢枝には悪いけどよぎってしまった。お腹を抱えて笑い飛ばしてあげたいのを堪えるために、私は梢枝の脛をさすった。
「大袈裟だよ。もう平気でしょ?」
「それは、当の本人にしか分からないことだよ」
「そう、だから本人に聞いてる」
「確かに....」
そうして、二足歩行に戻ってしまった梢枝は何度か膝を曲げ伸ばししてから、小さくケンケンを踏んだ。
「よし!もう大丈夫だよ」
気合いの入った顔だったけれど、目は潤んでいた。痛かったんだな。
「ノってきたところごめんなんだけど、私、着替えて良い?制服つらくて」
「あ、うん!ごゆっくりと」
私は梢枝の返事が終わる前にもうスカートのホックを外していた。いつも通りにハンガーにかけて、カーテンレールにそのまま掛けた。クローゼットから中学のジャージを引っ張って、「深島」の刺繍を胸に、部屋着モードになった。一連の動きをご丁寧に梢枝は、また首だけ動かしておっていた。人感センサー付き扇風機。
「ここで着替えてる以上、見んなとは言わないけど、観察すんな」
梢枝は何を言われたか分からないようでキョトンとしていたが、ごめん、とだけフワフワ言った。
一時的にベッドに避難させたスケッチブックを拾って、それが大したものではないと、わざと雑にテーブルに滑らせた。
「七森、おすわり」
梢枝は二度頷くと、急足でテーブルを回り込んで、さっきと全く同じヨギボーの隣に正座した。忠犬じゃん。 私は机にシャーペンと定規を戻し、新たにもう2本濃さの違う鉛筆とコピックを握って梢の隣に戻った。ヨギボーはベッドの上にどかして私も正座になった。
「じゃあ、話してるだけだと伝えにくいから、私、描きながら話すよ」
「見たい!見たい!」
「見せるよ」
「うん!」
「七森の絵のイメージで、私なりにするね」
「うれしい!」
「だから、さっきのノート貸して」
「うん!」
ヨギボーから引き抜かれたノートは、さっきまでテーブルにあったが、私がスケッチブックを置いた時に梢枝は鞄にしまっていた。また鞄に飛びかかりそうだ。こんどはおでこをぶつけるんじゃないかと心配した。
杞憂だった。
「ここで良い?」
梢枝は水滴のリングが消えたテーブルの隅にノートを開いた。
「見えれば良いよ」
私は一番硬い鉛筆を握って、スケッチブックの白紙を捲った。梢の絵のパーツを整理して、白紙の中の居心地の良い場所をそれぞれに用意した。おおよそのイメージはすでに梢枝の絵にあるからその点は楽だった。 私は一息に、ページの真ん中より少し上から少し山なりの水平線を引いた。つづいて、砂浜と波寄せる境目に今度は逆に反った緩やかな曲線をいれた。梢枝の発見した二つの光源の位置に小さなばつ印をうって、キャラクターの頭、胴体、足、腕に分けて、だいたいの球と円柱を置いたところで、無言であったことに気づいた。
「ごめん、話しながらって難しいかも」
七森の目は柔らかいけれど、私の線の動きを刺すように視点を動かしていて、いつ出したのか分からないメモ帳に、「水平線は曲線」と書いていた。
「あ、水平線はね、七森の絵の配置だと、ちょっと広角な方が動きがあるように見えてよくなると思ったからさ。ほんの少し魚眼レンズっぽい境界にしようと思った」
「うん、まだね、女の子の絵、筒の塊なのに、前に動きがあるね」
そういうと梢枝は、メモの続きとして「躍動感が増す」と付け足した。それを見て私は、梢枝の真剣さが想定より深いことを理解して、それに本気で答えたいと思っていた。
スマホを取って、音楽アプリを開いた。
「いつも私が描く時、音楽流してるの。悪いけど今からはそうなるから」
「わかったよ」
梢枝の了承も貰ったので、私はアイリッシュ音楽の歌詞のないBGM集をシャッフル再生した。 梢枝のメモに「音楽のBGM、ケルト」の一行が足された。
「そこは、ケルトかどうかは七森次第でしょ」
「そうなの!?渚ちゃん、このBGMで描くのが良いってことだと思った!」
せっかくノってきた私を梢枝の言葉が少し引き戻した。
「私はそうってだけだよ」
「へぇ、渚ちゃん、こういう音楽が好きなんだね」
「好きっていうかさ、アイリッシュって冒険の始まり、みたいな感じするでしょ?なんか、無敵になった気になるんだよね」
「うん!ちょっと分かるよ」
分かるんだ。
梢枝のメモの「ケルト」に一度取り消し線が入ったが、改めてその下に「ケルト」と書かれた。そこやら矢印か伸ばされ「無敵」と書いていた。そういうことじゃないだろ。
軽快なアイリッシュのリズムに押されて私は曲線2本と立体が薄く並ぶページに戻っていった。 私は続けて女子高生を描きあげた。顔の書き方とか、髪の束感とかは私の絵になってしまったけれど、ポーズは梢枝の絵のままにした。もう私は、梢枝に何かを伝えるよりも、この絵の完成のために全てを研ぎ澄ます態勢になっていて、細かに濃さの違う鉛筆を持ち替えながら次のハイビスカスを左下に描き込んだ。梢枝の絵よりも一回り大きなハイビスカスになった。次にシーサー、島影、寄せる波を入れて、線絵は仕上がった。二つの光源のうち、太陽の方を意識して葉の影、キャラの服による皺、皺の奥に僅かに暗くなる影をほんのりと足した。これで下絵は終わった。コピックのマルチライナーに持ち替えて縁取りをしようとしたところで、我に返った。
「ごめん、七森。入り込みすぎた」
突然話しかけられたからなのか梢枝はビクッとして前のめりの体を起こした。
「ううん!見ててすごい楽しい!」
その言葉で少し私は救われた。ルイボスティーを注ぎ直して、一気に流し込んだ。清らかな疲労感が湧いた。
「渚ちゃん、描いてる時の集中がすごいね。私なんてしょっちゅう途中で止まって立ち上がったりしちゃうもん」
「そんなでもないよ」
伸びをしながらベッドに放ったスマホを拾い上げた。アイリッシュを止めて時計を見たら、19時を回っていた。
「え!こんな時間じゃん」
水平線を入れてから1時間半が経っていた。 梢枝のメモ帳は、握られて変なところに折り目が入っていたが、「ケルト→無敵」から先、何も書いてなかった。
マルチライナーで縁取りを済ませる頃には、もう19時半を過ぎていた。その間もアイリッシュは鳴り続けて、隣で梢枝がそのリズムに微かに頭を上下させてノっているのが分かった。メモ帳とペンは握っているけれど、それが機能を発揮することは無かった。
縁取りを終えて、塗りの前の段階になったところで、私としてもひと段落ついたから、出したまま結局まだ使っていないカラフルなコピックをガシッと掴んで立ち上がった。
「もう遅いよ。今日はこれで終わりにする」
梢枝は少し悲しい顔になった。
「そうだよね。色塗りも見たかったなぁ。でもね、私、渚ちゃんが言ってくれたこと、頭では分かったと思うんだけどね、じゃあ、それってどうやったら紙に出せるんだろうってね、ちょっと迷宮入りだったの。それをね、渚ちゃん、すぐ目の前で解決しちゃうからね、なんか、うん、ちょっと悔しくもあるんだけどね、でも、こんなに新しいことが知れたからね、まだ頑張れそうだ!って思ったよ」
相変わらずに声色は楽しそうだったけれど、お母さんと最初に話した時に似ていた。無理してないけど、頑張って話してるんだ。
「七森の最初の絵があったからだよ、ゼロからやってたら、二時間そこそこでここまで描けないから。一から十まで、いやまだ塗ってないから五かな、それって作業に近いからさ。ゼロから一まで作った七森はちゃんと頑張れてるよ」
私は柴犬の頭頂部をぐしゃぐしゃにした。 梢枝は少し持ち直した。
「うん、ありがとね、渚ちゃん」
梢枝は、その後なにか考えながらノートを鞄にしまって帰る支度をした。
「送ってくるから」
お母さんにそれだけ投げた。
「はいよ、行ってきな。ずいぶん短かったね」
「塗りの前までだから」
「そっか」
お母さんはネギを切っていた手を流してタオルで水を拭った。
「ママさん、今日は、あの、突然ですいませんでした」
梢枝の頭は会釈の角度までだった。
「いいのいいの。アート仲間がいたら渚も嬉しいから。たぶん」
アート仲間、いうな。
「梢枝ちゃん、おうちの人、大丈夫?遅くなっちゃたけど。うちの電話使ってもいいよ。」
「お気遣いなく。今日の帰りは遅くなるかも、9時くらいかも、って連絡入れてあるんで」
いつの間に。っていうか9時!?
「そう。お腹空いてるなら晩ごはん食べてく?鍋焼きうどんだけど」
「いえ、家でご飯作ってもらってると思うので」
「そうだね。今度来たときは一緒に食べようね」
「はい!いっぱい食べます!」
おしかったな。やっぱりしつけが必要だ。
空に明りはなく、誰に聞いたってこれを夜と呼ぶ暗さであったが、そこにはベタっと雲がこびりついているのと気付けたのは、幸いにも雨が止んでいることに安堵しながら見上げたからだ。一度握ったビニール傘を私が傘立てに戻したのを見て、梢枝も傘立てに傘を戻した。
「いや七森、持って帰れよ」
一拍置いてやっと気づいた梢枝は慌てて傘立てから自分の傘を引き抜いて、恥ずかしそうに笑った。
住宅街の街灯はその感覚に距離があるから、二人の並んだ影は順に後ろから前へと私たちを追い抜いていきそしてその輪郭を失っていく。灯りの柱の根元には確かにさっきまで雨だった証の水たまりが置いて行かれて、その水面に二つ目の光源が反射していた。
「ホントだ、2つだ」
こっそり呟いた。梢枝はそれを聞き取れなかったようで、歩きながら私の顔を覗き込んだが、私が良い直ししないと分かると、また体をまっすぐ起こしてリュックの紐を握っていた。
「食べたかったなぁ、鍋焼きうどん」
梢枝はもう無理も頑張ってでもなく話ができるようになっていた。
「塗り、やりたかったなぁ、しおりの絵」
私は梢枝の訛ぎみの口調を真似た。梢枝は今度はのぞき込んでこなかったので、私が覗き込んだ。梢枝は流れ去る夜の住宅地のライトの色を一つずつ観察しているように見えた。
「塗りってすごい難しいよね。見た色を絵に乗せても見た色になってくれないもん」
「そう。目に入る光の色と、紙に乗ったときの色は違う。それを見越して色を見ないといけないから」
「紙に乗った色だって光なのにね。私、塗ると別物になっちゃうのね。あんなに頑張って書いた下絵がね、一筆目の色でもう偽物になっちゃう。悲しいけどね。」
梢枝はやっと私と視線を合わせた。笑っていたが寂しそうだった。
「七森って厳美渓、知ってる?」
突然だったからか、梢枝は細くなっていた目を開いた。
「厳美渓?うん、知ってるよ」
「行ったことは?」
「もちろん。気持ちよくていいよね。あと、空飛ぶ団子、あれ面白いよね」
私はしずかにうなずいた。
「でもね、こういう景色は日本中にあるし、もっとすごい景色だって絶対にあるって私は思った。それでも厳美渓に行ってみたいって言う人、日本中にいるんだって」
「そうなんだ」
梢枝の足取りは少しゆっくりになっていた。
「なんでか分かる?」
梢枝はついに電灯の下に止まって頭を巡らせていた。しかし、次の言葉は出ないようだった。
「載ってるからだよ、観光ガイドに、大きい写真がさ」
明りを真上から受けた梢枝は、その表情筋の筋一つずつが分かるのではないかと思うほど輝いていた。私はそれより少し前で影の中から続けた。
「写真ってさ、勝っちゃうんだよ、本物に。上手であれば上手であるほど」
「そうかもしれないね」
梢枝は明りのギリギリ届きそうな私をまっすぐに見ていた。
「つまりさ」
「うん」
「本物を写した写真ですら偽物なんだもん、絵は偽物になるに決まってるよ」
「そうだよね」
梢枝はそれが悔しそうだった。
「でもね」
「うん?」
「絵は偽物だから、本物に勝てると思うよ。それは、写真よりもね」
梢枝はそれでさらに目を大きくした。悔しさは消えていなかったけど、別の側から喜びがこみあげていた。
「すごいね!やっぱりすごい!渚ちゃん!」
梢枝は暗闇の中の私に正面から駆け寄って私の手を握った。
「分かればよろしい」
また私と梢枝は並んで歩きだした。梢枝はさっきより歩くのが速かった。
新幹線の高い高架線の下で梢枝は止まった。
「今日はありがとうね。もう大丈夫、ここで」
「そう」
「やっぱり少し冷たいね」
そんなつもりはなかったけれど、そう受け取ったならすまん。
「また、遊んでくれる?」
しっぽ振ってらぁ。
「やだよ」
柴犬のしっぽが力なく下がった。ように見えた。
「冷たすぎるよ」
私はまた伝えたいことが伝わっていないと気付いて自分が嫌になった。
「いや、そのさ。七森ってびっくりするくり馬鹿っていうか、落ち着かないっていうか、考えが浅いっていうか」
列挙するたびに、梢枝は小さくなっていく。
「いや、だからさ、もう遊びじゃないよ、七森の絵は」
小さくなった梢枝は私を見上げた。高架の上を新幹線が爆音で通過していったが、私も梢枝も反応しなかった。光の線は時速300キロで東京へ抜けていった。
「だから、また一緒に描いてよ。私と」
梢枝は小さくなったまま私の目前まで一歩進んだ。リュックに紐を握ったこぶしが私の「深島」の刺繍にあたっていた。
「いいよ」
高架橋から音の残り物が降ってくるなか、梢枝は確かにそういった。
「いいよ、渚ちゃん!してあげても!」
梢枝は下から私を見上げると、見たことないくらい顔を赤くして笑顔が咲いていた。忠犬からは脱落したが、それは私の相棒に違いなかった。
「あっそ。じゃあ頼むよ。明日学校で塗りしよう」
「うん!」
「じゃあ、今日は帰りな。ハウス!」
「うん!また明日ね。渚ちゃん!」
梢枝は東北線をくぐるトンネルに消えていった。その上をゆっくりと一関に止まる普通列車が通った。あれに乗っても東京に行ける列車だ。
家に戻った私は、鍋焼きうどんを熱さに負けずに急ぎ啜った。洗い物だけして部屋に戻ると、スケッチブックと一緒に机に座った。ひと息吐いて、私はシャーペンを握った。沖縄に立つ女子高生二人が呼んでいるように見えて仕方なかったが、私はスケッチブックを閉じた。
「課題やろう」
窓を眺めて一人呟いた。また雨が降っていた。ガラスに着いた水滴はそれ一つ一つが光源になって部屋の光を跳ね返していた。
鞄から課題のワークとノートを取り出す代わりに、私はスケッチブックを鞄の中に入れた。




