第42話:腐敗宰相
ほとんど眠れないまま夜が明けた。
ひんやりとしたジュノアの指先の感触がまだ残っている。
翠玉の涙。その言葉が眠れぬ夜の間ずっと頭を巡っていた。
それを求めエルフ族が暮らすアウロラの森へ向かう。どのような場所なのかはシルフィアさんから少し聞き及んだだけだ。実際に何が待ち受けているかもまだ分からない。
それでも、今の自分には動き続けることしかできない。
(ジュノア、死なせないよ)
海里は立ち上がり、まだ薄暗い窓の外を見た。
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リグリア王国の端に位置する監獄塔。その地下深く、陽光の遮られた石牢には血の匂いが染みついていた。
錆びついた鉄格子と湿った石壁に囲まれた空間に一人の男がいた。
リグリア王国宰相イディウス。
毒々しい紫と深緑が混じり合うローブを纏い、くすんだ赤髪の下に覗く顔には一片の慈悲も見当たらない。
彼は拘束されて身動きの取れない賊に向け、無造作に鞭を振るっていた。
自らが生じさせた死臭に近い血の匂いに彼はわずかに眉をひそめる。懐から取り出した絹の布には高価な香油が染み込ませてあった。その芳香を吸い込み充満する血生臭さを自らの世界から遮断する。
鞭を握らぬ方の手でローブの裾を静かに持ち上げた。返り血の一滴さえも嫌うその仕草は泥を避けるようであり同時に、悶絶する賊を言葉の通じぬ汚物と断じる冷酷さを物語っていた。
イディウスに嬲られる賊たちは、ルカンの襲撃を生き延び、討伐隊に協力したことで減刑の余地ありと見なされた者たちだった。
だが、リグリア王国の実権を握るイディウスの前ではその事実は無価値に等しい。『操魔』ディランが家族同然の者たちだけを逃がした理由がここにあった。
無事な討伐隊の面々は、仲間を蝕むルカンの毒への対応に忙殺されており、生き残った賊が蹂躙されていることを知る由もない。
イディウスが抵抗できぬ者を嬲る理由は、民衆への苛立ちを吐き出すためだけではなかった。宰相の地位にあってなお彼の神経は摩耗していた。
原因は輪廻教団の七元徳が一人『信仰』の鏡花にある。協力関係という欺瞞の裏で、あの女の底知れぬ瞳に射すくめられるたび、得体の知れない悪寒が背筋を走るのだ。
十年前、騎士団の一つが壊滅した代替戦力として教団を迎え入れた。地位を盤石にするため、この十年間、教団に便宜を図り続けてきた。だが、対等であったはずの力関係は鏡花が現れたことで上下関係へと塗り替えられた。
彼女はリグリアにある何かを探している。その正体を彼は知らない。
ただ、彼女が目的を果たせば教団はリグリアを去るという確信があった。そうなれば、これまで教団の力で押さえつけてきた不満が一気に噴出することは火を見るより明らかだった。
「……教団の小娘風情が……この私を軽んじおって」
教団の力に頼らずとも誰一人として逆らえぬ絶対的な力を彼は求めていた。逃げ場のない賊の悲鳴を聞きながら鞭を振るい続ける光景は、一国の宰相に相応しいものではなく、醜悪な愚者の所業でしかない。
「騎士たちが……言ったことと話が違うじゃねえか!!罪の減刑を考慮するって……っ!」
禿頭の賊が、血に塗れながら声を絞り出した。その言葉をイディウスは一笑に付す。
「黙れゴミ屑どもが。騎士たちの約束だと?噴飯物だな。このリグリアで宰相たる私の言葉以上に重いものなど存在しない。貴様らのようなゴミ屑が人並みの権利を口にできると思うなよ!!」
イディウスは禿頭の賊に向かって再び鞭を振るう。
「ぎゃあああああああああああッ!!」
愉悦に瞳を細め、さらに鞭を数回振るう。そのたびに男の悲鳴が地下牢に響いた。
(あぁ、これだ。弱者が私の前で無様に叫ぶ。……この光景こそが私の心を癒やす)
加虐の陶酔に浸るイディウス。だが、彼の歪な平穏は地上へ繋がる階段から響いてきた足音によって中断させられた。
こつんこつん、と。規則正しい足音が地下牢に不釣り合いな静謐を連れてきた。
「……ッ」
イディウスの肩が跳ねた。
「……宰相殿。戯れはもう十分でしょう」
地上へと繋がる階段から現れたのは鏡花だった。血の匂いが立ち込める凄惨な空間にあって彼女の纏う空気だけが異様に澄んでいる。
「きょ、鏡花殿……!こんな場所まで一体何の用で……」
上ずった声を鏡花の瞳が射すくめる。
「多くの者がルカンの毒に侵され、国の戦力が傾いている最中に宰相の貴方は一体何をしている?政を担う地位にあるならば相応の責任があるはずですが……」
「……ッ!!!」
彼女の問いに非難はない。ただ「なぜそんな無駄なことを?」という純粋な疑問があるだけ。温度を感じさせないその言葉にイディウスの背を嫌な汗が伝う。
(この女……。本当に何を考えている……?)
鏡花は本題を切り出した。
「貴方が何をしようと構いません。さて、宰相殿。子飼いにしている黒曜騎士団から数名を貸してください。アウロラの森へ向かう一人の冒険者を調査するために」
「彼らは私直属の手駒だ。冒険者の調査にどうして黒曜騎士団を……?鏡花殿の要望といえど、そう簡単には……」
拒否の気配を察し、鏡花の目がわずかに細められる。
「我々教団の助力なくして、今の貴方の地位が保てるとお思いで?私は教皇様よりその裁量を預かってここへ来ている」
「うぐっ!そ、それは……」
抗えぬ威圧感。イディウスは震える指先を隠すように懐の障壁の魔道具を握りしめた。
「……分かりました。黒曜騎士団の副団長レナートとその部下たちをお使いください。命令は後ほど出しておきましょう」
「賢明な判断です宰相殿」
鏡花は無表情に頷くとさらに付け加えた。
「我々が調査したい冒険者。もしかすると転生者かもしれません」
「なっ……!?」
イディウスの顔色が変わる。鏡花は続ける。アウロラの森にはかつて七元徳『節制』が起こした騒動の影響で教団が立ち入れないこと。だからこそイディウスの手駒が必要なのだと。
「宰相殿にとっても、素性の知れぬ新たな転生者が野放しにされるのは無視できないでしょう?」
「……ええ。あなたと同じ転生者が市井に紛れているのなら調査は必要でしょうな」
踵を返そうとした鏡花が足を止めて鼻を鳴らした。
「宰相殿。忠告ですが……動けぬ者を嬲る趣味は露見すれば貴方の破滅を招きます。……努々お忘れなきよう」
「ッ!!」
鏡花が去った後、イディウスの怒りは爆発した。
「あああぁぁぁ!!くそっ……!無礼な小娘風情がこの私に……ッ!!」
荒い呼吸のまま、手近な賊に再び鞭を叩きつけた。だが、そこにもう愉悦はない。格上の存在に自尊心を削られた男の無様な八つ当たりだった。
「ふぅーふぅー……。戻らねば。黒曜騎士団を動かす準備を……」
独り言を呟きながら、イディウスは地上へと戻っていく。彼の去った地下牢に禿頭の賊の怨嗟の声が響く。
「あの野郎……絶対に、絶対に殺してやる……!」
それはイディウスが積み上げてきた絶望の一端でしかなかった。
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執務室へと戻る廊下を歩きながら、イディウスの脳裏には十年前のリグリアの光景が蘇っていた。
建国者の血を引く優秀な先代の王。彼が今も玉座に健在であれば、今のイディウスの所業など到底許されなかっただろう。
十年前、国境で騎士団の一つが壊滅した詳細不明の事件。それはイディウスにとって痛手であると同時に絶好の好機でもあった。
事件の被害を被った隣国グランドヴェルク連邦の猛反発。その火消しに奔走した建国者と先代王は心身を削り取られ、急速に覇気を失った。
衰弱しきった建国者は、手を下すまでもなく病床に沈んだ。残る先代王には騎士団壊滅の全責任という汚名を着せ、王城から追放した。空位となった玉座には、何も知らぬ無垢な建国者の孫を据え、傀儡魔法をかけた。
(……あの日からリグリアの実権のすべては私の掌の上だ)
先ほど見た玉座で虚空を見つめる少年王の姿を思い出す。血の匂いを落とし、高価な香水を纏ってまで確認に出向くのは支配を完璧に保つためだ。
恭しく頭を下げ、黒曜騎士団の派遣許可を問う。その問いに対し、王に刻まれた全権委任の命令がイディウスの欲する答えを呟く。
「……イディウス。国の政は……すべてそなたに一任する」
感情のない声帯の震え。瞳の奥で渦巻く傀儡魔法の魔力に変質はない。
(ふん……。まだ子供だからか抵抗の兆しすら無いな。完璧だ)
彼は一度も振り返ることなく自身の執務室へと向かった。
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自身の執務室に戻ったイディウスは、豪奢な椅子の背もたれに深く身を預け、暫し、時の経過を待った。ほどなくして部屋の主の機嫌を窺うような卑屈で控えめなノックの音が響く。
「イディウス宰相様。お呼びに従い、レナート殿をお連れいたしました」
扉を開けたのは、文官風の法服に身を包んだ下級貴族の男。本来であれば到底就けぬ王城の役職をイディウスへの忠実な奉仕によって手に入れた男。彼は必要以上に深く腰を折り、イディウスの靴を舐めかねない勢いで媚びた笑みを向けている。
貴族の男には用がない。イディウスが鼻先で軽く合図を送ると、男は役目を果たした充足感に顔を上気させ幾度も会釈を繰り返しながら退室していった。
用があるのはもう一人の男。黒曜騎士団副団長レナート。
重厚な黒鉄の全身鎧を纏い、後ろで一つに結わえた濃紺の長髪を揺らし、精悍な顔に笑みを刻んでいる。
レナートは視線を動かし、壁に掛けられた絵画へと目を向けた。金貨や果実が並ぶ食卓の下に暗い影に沈む髑髏と這い寄る蛇が描かれた不気味なもの。
「イディウス宰相様は独創性に富んだ素晴らしい絵画をお持ちですね。どちらで入手されたのでしょう?」
レナートの瞳は、相手の懐にある旨味を狙う強欲な光を宿していた。
「ふん、つまらん世辞はいいレナート。貴様と部下共に仕事を与えてやる」
イディウスは冷淡に告げた。輪廻教団の鏡花からの要請。アウロラの森へ向かう冒険者の調査。それが転生者の疑いがある者だと明かした瞬間、レナートの目に驚愕が走り、次いで剥き出しの執着が灯った。
「調査を行い、明確な根拠を教団に示せば貴様の実力をも示せるだろう。いつまでも副団長という二番手に甘んじていたいわけではないだろう?」
「ええ!ええ!勿論ですとも、イディウス宰相様……。いやはや急にやる気が湧いてまいりましたよ。しかし……」
レナートが言葉を濁し、踏み込んだ裁量を求める視線を送る。それを察したイディウスは鼻で笑った。
「手段は問わん。成功すれば貴様の地位は約束されたも同然なのだからな」
「必ずや件の冒険者が転生者である証拠を持ち帰ってご覧に入れましょう!」
喜色満面で部屋を去るレナート。その背を見送ったイディウスは誰もいない空間に独り言を落とした。
「……好きに動けばいい。混乱を起こすだけなら貴様のような駒が一番使い勝手が良いのだからな」
忠誠ではなく欲で繋がれた関係。イディウスにとってレナートは傀儡魔法をかける必要のない便利な駒に過ぎない。
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レナートが去り、イディウスは窓の外に視線を向けて呟いた。
(鏡花……。七元徳の一人とはいえ小娘風情がいつまでも私を利用できると思うなよ)
今はまだ教団の力が必要だ。だが、彼女たちが目的を果たして去った後、教団に代わる絶対的な力こそが不可欠となる。
(レナートだけでは、いざという時の盾として不足だ。私に必要なのは、もっと純粋な強者の傀儡……)
少年王の使役が統治の要ならば、強者の傀儡化は非常時の剣にも盾にもなり得る。
鏡花のような得体の知れない存在に狼狽える日々を終わらせるには、対抗し得る武力が不可欠だった。
窓の外、宵闇に包まれ始めた王都を見下ろしながら、イディウスの唇が歪に吊り上がる。誰一人として自分を軽んじることのない世界。すべての強者が己の足元で跪き意のままに動く未来。
イディウスの思考は夜の帳よりも深く、リグリアの闇へと沈んでいく。
ディランたちが魔物にのみ向けた傀儡魔法を、彼はなく人間に向ける。今もその魔法が少年王の意思を縛り続けている。
そこに倫理の介在する余地はない。自らの地位を死守せんとする歪なまでの執念だけがあった。




