第七十八話:緊急事態下の決断と、偽りのない本音
◆第5階層・猫のひげ亭
『緊急警報。緊急警報』
『現在、迷宮内に滞在中の全ての冒険者および関係者に通達します。直ちに、安全なルートを通り、迷宮外への【一時退避】を推奨します』
空から降り注ぐ無機質なアナウンスと、鼓膜を劈くようなサイレンが、迷宮都市の空気をビリビリと震わせていた。
天井の魔法灯は血のように赤い光を放ち、街は一瞬にしてパニックに包まれた。
「武装勢力だと!? おい、早くギルドに集まれ!」
「荷物は置いていけ! まずは避難だ!」
窓の外の通りを、冒険者や住人たちが蜘蛛の子を散らすように駆けていく。
そんな喧騒をガラス越しに眺めながら、トーマスは『猫のひげ亭』のカウンター席で、一人静かにカップを傾けていた。
「トーマスさん! 早く逃げるニャ! 危ないニャ!」
店の奥から、ケット・シーの店員が慌てた様子で飛び出してきた。
避難用の小さなリュックを背負っている。
「私は大丈夫だよ。君たちは、早く避難誘導に従いなさい」
「ダメだニャ! トーマスさんも一緒に――」
「行っておいで。……私には、少しやり残したことがあるんだ」
努めて優しい、いつもの「薬草商の笑顔」を向ける。
ケット・シーは不安そうに耳を伏せたが、他の店員に引っ張られるようにして、店を飛び出していった。
誰もいなくなった食堂。
カウンターに残されたのは、温かい特製スープと、ハーブティーだけだ。
「……最後の一杯くらい、ゆっくり飲みたかったんだがね」
四ヶ月間、同じ席で飲み続けたスープ。
行きつけを作るのは、スパイの擬態の基本だ。
だが、味を本当に愛してしまうのは今までのスパイ人生の中でも、初めてだった。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「ナノ。例の件、分析は終わったか」
「はい。第5階層内で定期的に暗号化通信を発信していた端末の位置を特定しました」
ナノが空中にマップを展開する。
第5階層の商店街エリア。薬草店の裏手に、赤い点が点滅していた。
「発信頻度は週に二回。いずれも深夜帯。暗号パターンは王国式の軍事暗号と一致率九十七パーセントです」
「……薬草商の、トーマスか」
俺はマグカップを置き、モニターを見つめた。
薬草商のトーマス。穏やかな笑顔。腕のいい薬師。ケット・シーの常連客。
彼が、この迷宮の情報を全て王国に流していた。
(合同パーティの結成率が落ちた原因も、おそらくこいつだ。分断工作。獣人と人間の間に、少しずつ楔を打ち込んでいた)
「ご主人。対処方針は」
ナノの声は、いつも通り事務的だった。
スパイの処分方法はいくつかある。
最も効率的なのは、偽情報を掴ませて逆利用すること。王国軍が目前に迫っている今、トーマスを泳がせたまま誤った情報を流させれば、戦術的に有利に立てる。
(……それが「効率的」なやり方だ)
だが。
「ナノ。トーマスを連行しろ。ジグとロクを向かわせる」
「偽情報の逆利用は行わないのですか? 戦術的には――」
「分かってる。だが、先にあいつの話を聞く」
「……承知しました」
ナノの声に、わずかな驚きが混じった気がした。
コーヒーを一口飲む。苦い。
◆薬草店・対峙
ジグとロクが薬草店の扉を開けた時、トーマスは店の奥で荷物をまとめていた。
「抵抗はするか、工作員」
ジグの目が、獲物を射抜くように細められる。
「しませんよ」
トーマスは両手を上げ、静かに立ち上がった。
「私はただの薬草商ですから。荒事は専門外です」
もう、後戻りはできない。
この温かい場所を壊すための設計図を描いたのは自分自身だ。その報いを受ける時が来ただけのこと。
ジグが一瞬だけ間を置き、手を刀から離した。
「……ついてこい」
◆迷宮核の間・対面
トーマスが核の間に入った時、最初に見たのはコーヒーの湯気だった。
薄暗い部屋。青白いモニターの光。コンソールの前に座った、黒い髪の青年。
迷宮主、黒瀬だ。
「座れ」
椅子が一つ、テーブルの反対側に用意されていた。
トーマスは座った。背筋を伸ばし、両手を膝の上に置く。
四十年染みついた「薬草商の顔」は、まだ剥がれなかった。
「名前は」
「……トーマスと申します」
薬草商の柔和な笑顔が、反射のように口元に浮かんだ。
四ヶ月間、毎日カウンターで繰り返した、あの表情。
「本名か」
「はい。故郷を離れて長いもので、今さら変える理由もございません」
黒瀬は答えなかった。
コーヒーを一口だけ飲んで、ただトーマスを見ている。
沈黙が、核の間を満たした。
「……恐れながら、何かお調べのことがございましたら、できる限りお答えいたします。私は、ただの薬草商ですが」
声は、震えなかった。四十年の訓練が、震えさせなかった。
「週に二回、深夜帯。発信元は薬草店の裏手」
黒瀬がモニターを指差す。
「暗号パターンは王国式軍事暗号と、一致率九十七パーセント」
トーマスは、目を伏せた。
だが、笑顔は崩さなかった。
「……恐れ入りますが、薬草の仕入れで遠方の商人ギルドと連絡を取ることは、稀に――」
「お前、『いつもの』って言葉、人生で初めて使ったんじゃないか」
その瞬間。
トーマスの体が、ビクリと震えた。
薬草商の笑顔が、初めて、剥がれた。
「……何のことですか」
「猫のひげ亭のカウンターで、お前がいつも同じ席に座って、同じメニューを頼んでるのは知ってた。ナノのモニタリングデータに上がってたからな」
黒瀬がモニターを指差す。
「行きつけを作るのはスパイの基本だ。『普通の市民』を演じるための擬態。……そこまでなら、プロの仕事だ」
「…………」
「だが、お前はスープを最後まで飲み干してた。新しいハーブを勧められたら、嬉しそうに試してた。ケット・シーの尻尾の動きで、機嫌まで読んでた」
黒瀬がマグカップを置く。
「カバーの擬態なら、あそこまで味わわない。……お前は本当に、あの店を好きになってたんだ」」
トーマスは、しばらく黙っていた。
四十年の訓練でも、この沈黙だけは埋められなかった。
やがて、乾いた唇が動いた。
「……王国隠密機関所属。トーマス。偽名ではありません。……偽名を使う必要がないほど、私の名前は誰の記憶にも残りませんので」
黒瀬は、何も言わなかった。ただ、続きを待っている。
「任務内容は、情報漏洩と分断工作。迷宮の全階層情報を王国に送信し、同時に、獣人と人間の間に不信感を煽る工作を実施しました」
「手口は」
「事実を切り取り、角度をつける。嘘は一つもつかず、文脈だけを操作する。……最も卑劣な手口です」
声は、淡々としていた。
だが、その目だけが、微かに揺れていた。
そして、言葉が、詰まった。
「……全て、任務だった」
声が、掠れた。
「だが、ここの暮らしは……本物だった」
「薬草商のトーマス」として覚えてもらえた。名前で呼ばれ、好みを覚えてもらえた。
偽りの名前で、偽りの仕事で。それでも、「いつもの」を注文できる自分として。
黒瀬は、長い間トーマスを見つめていた。
その目には、怒りも軽蔑もなかった。
ただ、何かを思い出しているような、遠い目をしていた。
「……お前の処分は保留する」
「え」
「今は王国軍がもうすぐ来る。お前の件は後だ。……ただし、逃げるなよ」
「……逃げません」
「逃げたらどうなるか、分かるな」
「はい。……ですが、逃げません。逃げたら、ここでの四ヶ月が全部嘘になる」
黒瀬が、一瞬だけ表情を緩めた。
本当に一瞬だけ。すぐに無表情に戻ったが、トーマスはそれを見逃さなかった。
(この男も……同じなんだ。機能でしか自分を測れない人間)
「ナノ。トーマスを仮拘禁扱いにしろ。部屋は薬草店のまま使わせていい。ただし通信端末は没収」
「了解です」
ジグがトーマスを連れ出す。
扉が閉まった後、俺は一人、暗い核の間でコーヒーを啜った。
(あいつは……俺がならなかったかもしれない未来だ)
もし前世で死なずに、SEとしての機能だけで四十代、五十代まで生き延びていたら。
どこにも居場所がないまま中年になっていたかもしれない。
(だから、と言って甘くするつもりはない。あいつがやったことは確かだ。だが……処分は、全部終わってからだ)
◆獣人特区・ガロウ
トーマスの正体が広まったのは、その日の夜だった。
「人間のスパイが、獣人と人間を分断する工作をしていた」
噂は瞬く間に広がった。
反応は、二つに分かれた。
人間の冒険者たちは安堵した。「なんだ、噂は工作だったのか」と。
だが、獣人の長老は違った。
「ガロウ」
長老の部屋に呼ばれたガロウは、嫌な予感がしていた。
「工作があったことは分かった。だが、ガロウよ。工作に乗った人間が一人もいなかったと思うか?」
「……長老」
「事実を切り取り、角度をつけただけ、とあのスパイは言ったそうじゃな。つまり、事実の種はあったのじゃ。獣人が優遇されているように見える場面が、実際にあった。それを見て不満に思った人間が、実際にいた」
ガロウは唇を噛んだ。
「工作がなくても、いつかは同じことが起きた。わしはそう思っておる」
「だからって、引き下がるのかよ! 長老!」
「引き下がるとは言っておらん。ただ、工作がなくなったからといって問題が消えるわけではないと言っておるのじゃ」
長老の目は、穏やかだった。
穏やかだからこそ、ガロウには辛かった。
怒ってくれれば、一緒に怒れる。
だが長老は怒らない。三百年の不信が、怒りの代わりに諦めを選ばせていた。
「……長老。俺は」
「お前の気持ちは分かっておるよ、ガロウ。お前はここが好きなのじゃろう。だからこそ板挟みで苦しんでおる」
「好きとかじゃ……」
「好きでいいのじゃ。それを認めることは、裏切りではない」
ガロウは黙った。
好きだ。この街が。
人間の鍛冶師と獣人の革細工師が並んで仕事をする、あの工房通りが。
レオに「ガロウさんの仲間も、この街の人でしょう」と言われた時の、あの温かさが。
――だが、信じきれない。
長老の言葉が正しいのかもしれない。工作がなくても、いつかは同じことが起きる。
人間は、獣人を対等に扱い続けられるのか。
答えは、まだ出ない。
だが、王国軍はもう目の前に迫っていた。
答えを出す時間は、残されていなかった。




