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第七十六話:善意という名の毒

◆第5階層・薬草店/トーマス視点


 朝の迷宮都市は、パンの焼ける匂いから始まる。


 焼きたての小麦とバターの香りが石畳を這うように広がり、天井の魔法灯が夜の青白さから、太陽のような暖色へとゆっくり切り替わっていく。


 私は店先に並べた薬草の束を整えながら、通りを行き交う人々の景色を穏やかな目で見つめていた。


「トーマスさーん、おはようニャ!」


 ケット・シーの配達員が、朝の挨拶を投げかけながら小走りで駆けていく。小さな体で、自分の体重ほどある荷物を器用に抱えている。


「おはよう。今日も早いね、気をつけて」


「パン屋さんの朝一番の配達ニャ! 焼きたてが一番売れるニャ!」


 嬉しそうに尻尾を振って走り去る背中に、私は笑顔で手を振った。


 いつもの朝。いつもの景色。活気と優しさに満ちた、美しい街。


 私がこの街に潜入して、四ヶ月になる。


 最初の一週間は、情報収集のための「拠点(薬草店)づくり」に費やした。


 二週目からは、住人たちの行動パターンや物資の流通経路を記録した。


 三週目には、ギルドに出入りする主要な冒険者の顔と名前、その戦闘能力の推定値を全て頭に叩き込んだ。


 一ヶ月もあれば、スパイとしてのルーチンワークは完全に軌道に乗った。


 ――問題は、それ以外の時間だった。


「トーマスさん、昨日の軟膏、よく効いたよ! ダンジョンで痛めた腰がすっかり軽くなった!」


 中年の冒険者が、顔を綻ばせて店にやってくる。


「それは良かった。ただ、無理は禁物ですよ。また痛むようなら、遠慮なく言ってくださいね」


 にこやかに笑顔を作る。人の良い薬草商としての笑顔。ただの演技だ。

 ――そのはずだった。


 いつからだろうか。この笑顔が演技なのか、それとも本心なのか、自分でも分からなくなっていたのは。


 薬草を配合する手つきは本物だ。王国の隠密機関で、地獄のような訓練を経て叩き込まれた。要人を暗殺するための『毒物の調合技術』の裏返しとして、私の薬草の知識も一級品に仕上がっている。


 だが、「患者の痛みが引いて嬉しい」と心から安堵する自分は、訓練では決して教わらなかった感情だった。


 昼過ぎ。


 店の客足が一段落した頃を見計らって、私は『仕事』のために店を出た。


 目的地は、商店街の裏通りにある、昼間から開いている酒場。

 冒険者たちが装備の手入れをしながら酒を飲み、情報交換をする溜まり場だ。



◆商店街・裏通りの酒場/トーマス視点


 酒場の中は、昼間から活気に満ちていた。

 私は装備のメンテナンス用の薬草ペーストを入れた籠を提げ、常連客たちの輪にさりげなく近づいていく。


「お、トーマスさん。いつものペーストある?」


「ええ、ありますよ。防具の革の部分に塗り込んでくださいね」


 冒険者たちと金と品物を交換しながら、何気ない世間話を始める。


「いやー、最近ホント便利になったよな。獣人たちのウルフ便、マジで速えし、前の商人ギルドよりずっと安いしよ」


「だよな。前の運送ギルドとか、高いだけで荷物は雑に扱うし、最悪だったもんな」


 冒険者たちが、ジョッキを片手に笑い合っている。


 そこに、荷物の配達を終えたらしい若い狼人の二人組が店に入ってきた。冒険者たちが「お疲れさん」と声をかけ、狼人たちも「おう、また頼むぜ」と気さくに返す。


 一見すると、種族の壁を越えた素晴らしい光景だ。

 だが、集団心理というものは、ほんの僅かなヒビを入れるだけで容易く崩壊する。


「おや、いらっしゃい」


 人間の店主が、狼人たちにエールを出す。その際、ドン、と少しだけ乱暴にジョッキが置かれ、酒が数滴こぼれた。


 店主としては単なる手元の狂いだったのだろう。だが、若く血気盛んな狼人は、それを「獣人への嫌がらせ」と受け取ったらしい。


「おい、おっさん。なんだその態度は。獣人が客だと気に食わねえのか?」


「あ? 手が滑っただけだろ。突っかかってくんじゃねえよ」


 狼人が立ち上がり、店主も顔をしかめる。周囲の冒険者たちの視線が、一斉にそちらに向けられた。

 酒の席での、ちょっとしたいさかい。放っておけば「気をつけろよ」「わりぃな」で終わる程度の、些細な摩擦だ。


 ――私は、その摩擦に、楔を打ち込む。


「まあまあ、お二人とも。落ち着いてください」


 私は柔和な笑顔で、二人の間に割って入った。人の良い薬草商として、両方を宥めるように両手を上げる。


「店主さんも、悪気はなかったんですよ。ただ、彼ら獣人の方々も、最近は『特区』の維持費を稼ぐために、いろいろとプレッシャーがあるんでしょう。……なんといっても、迷宮主から『特別に』割り当てられた優良な土地ですからね。成果を出さないといけないって、気が立ってるんですよ」


 その言葉を聞いた瞬間。

 周囲で飲んでいた人間の冒険者たちの顔つきが、微かに変わった。


「……特別、か」


 一人の冒険者が、ポツリとこぼした。


「そういや、獣人の工房って、大通りの一番いい角地を占拠してるよな。俺のダチの人間の職人は、場所代が高くて裏通りに店移したってのに」


「運送業だってそうだろ。獣人が市場を独占しちまって、人間の業者はみんな干されちまってる」


 彼らの言葉に、狼人の若者が牙を剥き出しにして唸る。


「なんだと? 俺たちは正当な勝負で仕事を勝ち取ってるだけだ! 俺たちの革の加工技術に、人間が勝てねぇだけだろうが!」


「まあまあ、彼らも必死なんですよ」


 私はさらに、油を注ぐ。


「獣人のパーティは、最近よく深層に行ってるみたいですしね。……きっと、特区の待遇が良いから、強力な装備を優先的に回してもらえてるんでしょう。羨ましい限りですよね」


 『特区の待遇が良いから』。


 そのたった一言で、「自分たちの実力だ」という獣人の誇りを踏みにじり、「人間は不当に不利な扱いを受けている」という被害妄想を人間側に植え付ける。


「……ふざけんな。俺たちだって命懸けでやってんだよ。迷宮主の『お気に入り』だからって、調子に乗るなよ」


 冒険者の一人が、吐き捨てるように言った。


 狼人が激昂して掴みかかろうとするのを、仲間の獣人が「やめとけ、面倒になる」と引き留め、舌打ちをして店を出ていく。


 あとに残されたのは、重く、ギスギスした「疑心暗鬼」の空気だった。


 私がやったのは、明らかな嘘をつくことではない。


 『特区がある』『角地に工房がある』『深層に行っている』という事実を切り取り、そこに「不公平だ」「優遇されている」という角度をつけ、歪めて見せただけだ。


 悪意を持った人間ではなく、「善意の第三者」の顔をして語るからこそ、その言葉は疑われることなく、人々の心に猛毒となって染み込んでいく。


 それが、心理操作の基本であり、分断工作の本質だ。


 ――そして、それがどれほど卑劣で、吐き気のする手口であるか。

 他でもない、私自身が一番よく分かっていた。



◆獣人特区・長老の部屋


「……長老」


 夜。獣人特区の一角にある、部族の長老の部屋。

 狼人の青年ガロウは、部屋の隅で腕を組み、ひどく渋い顔をして立ち尽くしていた。


「最近、どうも街の空気がおかしい。ギルドのリアナから聞いたんだが、人間と獣人の『合同パーティ』の結成申し込みが、目に見えて減ってきてるらしい」


「ふむ……」


 揺れるランプの火のそばで、長老は静かに相槌を打った。


「今日、酒場で若い衆が人間の冒険者と揉めかけたんだ。……その時、こう言われたらしい。『獣人は迷宮主のお気に入りだから、特区やいい場所をもらって優遇されてるんだろ』ってな」


 長老の目が、わずかに細くなった。


「工房の位置のことか」


「ああ。大通りに面した角地を俺たちが使ってるのは事実だ。でもあれは、商人どもが抜けた後に空いてた場所を黒瀬が『動線の効率化』のために割り当てただけで、不当な優遇なんかじゃねぇ。……でも、外の連中から見りゃ、そうは映らないらしい」


「……そうか」


 長老は椅子から立ち上がり、杖を突いて窓際に歩いた。


 夜の迷宮都市を見下ろす。魔法灯に照らされた通りを、人間と獣人が行き交っている。だが、その距離感は、以前よりもわずかに開いているように見えた。


「ガロウよ。わしは百年以上生きておるが、人間と獣人が、本当の意味で対等に暮らせた街など、一度も見たことがない」


「……長老」


「王国の北部では、獣人は奴隷として売買されておる。東部では、ギルドへの登録すら認められておらん。南部では……病の流行を獣人のせいにされ、集落が丸ごと焼かれたこともあった」


 長老の声に、怒りはなかった。

 ただ、長い年月が積み重ねた、悲しい歴史への静かな諦めがあった。


「ここは……この街は、違うと思っておったがな」


「違うさ! ここは他の街とは違う。黒瀬は俺たちを対等に扱ってくれてる。人間だって、少しずつ分かってきてたはずだ!」


「黒瀬殿の理念を疑っているわけではないよ、ガロウ」


 長老が振り向いた。その瞳は、はるか先の未来を見透かすように深い。


「わしが恐れておるのは、黒瀬殿が『いなくなった後』のことじゃ」


 ガロウは、言葉に詰まった。


「一人の傑物が、圧倒的な力とカリスマで作った平和な箱庭は、その傑物がいなくなれば容易く崩壊する。システムとは、それを運用する者の『善意』に依存してはならんのじゃ」


 長老は杖で床をコツンと叩いた。


「黒瀬殿が、永遠にこの迷宮にいる保証はない。彼が去り、別の者が管理者になった時……あるいは、黒瀬殿の庇護がなくなった時。人間たちは本当に、我々獣人を対等に扱い続けるじゃろうか?」


 否定したかった。

 「人間を信じろ」と言いたかった。

 だが、否定する言葉が見つからなかった。


 酒場で向けられた、あの冷たい嫉妬の視線。

 ガロウ自身の中にも、「やはり人間とは分かり合えないのではないか」という、拭いきれない疑いが芽生え始めていたからだ。



◆王都・宰相の間


 同じ頃。王都の地下深く、冷たい石造りの宰相執務室。


 重厚な樫の机の上に、魔道具による暗号化を解除された報告書が広げられていた。

 薬草商を装った王国の特務工作員、コードネーム『梟』からの報告書だ。


「……ほう」


 壮年の宰相は、冷酷な光を宿した目で、報告書の最後の一行をなぞった。


『全階層情報の収集は完了。次期作戦フェーズへの移行を具申する。追加の指示を待つ』


「追加の指示を待つ、か。……あの街に毒を撒き切ったというわけだな。随分と従順な猟犬になったものだ」


 宰相は報告書を乱暴に閉じ、窓のない壁に掛けられた巨大な王国の地図に目をやった。


「迷宮核の位置、守護者の推定戦闘能力、階層構造の全容、そして魔力収支の予測値。全て揃った」


 指先で机を叩く。カツ、カツという規則的な音が、広い部屋に冷たく響いた。


「問題は、国家の最高戦力である勇者三名だ。その所在がまるで掴めない。迷宮内で死亡したのか、外部に転移させられたのか……。いずれにせよ、国家の兵器を私的に隠匿、あるいは破壊するなど、万死に値する」


 宰相が呼び鈴を鳴らすと、扉の外に控えていた文官が音もなく入室した。


「第三軍団長、ヴァルター・レーヴェ将軍に出頭を命じろ」


「はっ。……任務内容は、いかがいたしましょうか」


「勇者の生死確認および回収。――そして、北西迷宮の『完全制圧』だ」


 文官が僅かに息を呑むのが分かった。

 迷宮の制圧。それは、現在そこに築かれている迷宮都市と、何万人もの冒険者や住人の日常を、軍隊の力で蹂躙することを意味する。


「第5階層に築かれているという、未知の魔導インフラ。気候を制御し、物資を自動で転送するあの異常な技術は、我が王国の軍事力を飛躍的に引き上げる至宝だ。……街が火の海になろうが、住人が何人死のうが構わん。焼け野原にしてでも、あの技術の根幹を奪い取れ」


 文官が青ざめた顔で一礼し、退室していく。

 宰相は椅子に深く体を沈め、暗い笑みを浮かべた。


(あの迷宮主は、何を勘違いしている。獣人を庇い、法を敷き、経済圏を構築する。……もはや一介の迷宮主の振る舞いではない。あれは、国家への反逆だ)


 宰相の目が、狂気にも似た光を帯びる。


(よかろう。ならば、こちらも国家の『正義』をもって対応するまでだ)



◆王都・第三軍団駐屯地


 ヴァルター・レーヴェ将軍は、執務室の机に置かれた宰相からの命令書を、無言で読んでいた。


 銀の短髪。歴戦の傷と深い皺が刻まれた、巌のような顔。

 彼の背後の壁には、巨大な大剣『鉄理テツリ』が立てかけられている。


「……ルッツ」


「はい、将軍」


 背後に控えていた副官が、一歩前に出た。灰褐色の髪をした、群衆に溶け込むような特徴のない顔の男だ。


「出撃命令だ。第三軍団の全戦力を以て、北西迷宮へ進軍する」


「任務内容は」


「勇者の回収。および、必要に応じ……迷宮都市の武力制圧」


 ルッツは、一瞬だけ沈黙した。


「…………了解いたしました」


 その返事までの「間」は、普段の冷静な彼にしては、わずかに長かった。


「ルッツ」


「はい」


「……いや。何でもない。出発は三日後の夜明けだ。準備を進めろ」


「はっ」


 ルッツが退室した後、ヴァルターは一人、重いため息をついて命令書を見下ろした。


(スパイの毒で内側から住人同士を争わせ、互いの不信感が頂点に達したところで、混乱に乗じて軍隊で制圧する。……それが、国家のやり方か)


 分断し、統治せよ。

 それは兵法としては正しい。だが、ヴァルターの太い指が、わずかに震えていた。


(卑怯ではないか。武人として、正面から誇り高く戦うことすら許されぬのか)


 だが、命令は絶対だ。

 軍人に、個人の判断は要らない。


 ヴァルターは立ち上がり、壁に立てかけられた大剣「鉄理」を手に取った。


 曲がらない鉄。折れない鉄。

 二度と己の感情に揺るがないと誓った、あの日に打たせた重い剣。


「……前へ」


 誰もいない部屋で、ヴァルターは低く呟いた。

 それは部下への号令ではなく、葛藤で足がすくみそうになる自分自身へ向けた、呪いのような命令だった。

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