第13話 君が戻るなら、俺も行く
ガチン、と鈍い音がした。
「……駄目か」
レオンは右腕を動かすのをやめた。
小屋の中央には、木材を組み合わせた簡素な作業台が置かれている。その上に載っているのは、胸部の骨組みと右腕が繋がった、未完成の魔導鎧だった。
灰の谷で回収した青銀色の金属を骨格に使い、魔物の甲殻を加工した補強板で胸部を覆っている。右腕には、これまで何度も改良してきた二本目の魔導腕が取り付けられていた。
ただし、左腕はない。
腰から下もない。
胸の中央には魔力を分配するための装置を収める空間が残されており、背中には革紐と金属製の固定具がむき出しになっていた。
見た目だけなら、鎧というより解体途中の魔導具に近い。
それでもレオンは、作業台の前で腕を組み、満足そうに眺めていた。
「……形にはなってきたな」
十五歳の少年は、短い黒髪についた金属粉を払い落とした。灰色の瞳には寝不足の影ではなく、目の前の問題を解こうとする集中が宿っている。
今日は朝食を済ませ、指先の調子も確かめてから作業を始めていた。
以前の自分なら、食事も忘れて取りかかっていただろう。
少しは進歩したらしい。
「さて……問題はここだ」
レオンは胸部骨格と右肩を繋ぐ部分を指で叩いた。
魔導腕単体なら動く。
だが、胸部に接続すると、右腕を持ち上げた瞬間に肩の固定具が引っ張られる。
魔力不足ではない。
単純に、重さを支えきれていないのだ。
右腕を動かす力が、そのまま胸部骨格を捻ってしまう。
「肩だけで支える設計が間違ってるな……」
レオンは記録帳を開いた。
前世で扱った作業機械を思い出す。
重量物を動かす装置では、力のかかる部分だけを頑丈にすればいいわけではない。
どこに荷重が集中し、どこへ逃がすか。
それを考えなければ、強い部品を使っても別の場所が壊れる。
「……背中に逃がすか」
レオンは胸部骨格を裏返した。
背面には、灰の谷で拾った細長い金属板が二本残っている。
それを斜めに配置し、肩から背中へ力を伝える。
さらに腰へ繋がる固定具を設ければ、腕の重量を上半身全体で受けられるかもしれない。
問題は、まだ腰部を作っていないことだった。
「……順番を間違えたな」
レオンは苦笑した。
腕を動かすことばかり考えていた。
だが、鎧は腕だけではない。
全体を一つの構造物として考える必要がある。
彼は工具箱から金属板を取り出し、作業を始めた。
◇
「レオン、おはようございます!」
扉が開いたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
リシアが顔を覗かせた。
淡い金色の髪を後ろで結び、白いブラウスに紺色のスカートを合わせている。上から羽織った薄茶色の上着は、旅の間に何度も繕ったものだった。
その手には紙袋がある。
「朝市でパンを買ってきました。今日は焼きたてですよ」
「おはよう。助かる」
「ちゃんと朝ご飯は食べましたか?」
「食べた」
「本当に?」
「昨日の残りのスープとパン」
「……合格です」
「俺は何の試験を受けてるんだ?」
リシアは笑いながら紙袋を机に置いた。
そして、作業台の上を見た途端、足を止めた。
「……えっ?」
「どうした?」
「レオン、それ……!」
彼女は急いで近づいた。
「鎧になってるじゃないですか!」
「まだ骨組みだけどな」
「でも、胸の部分があるんですよ! 右腕も繋がってます!」
「繋がってるだけだ。さっき動かしたら肩が外れかけた」
「ええっ!?」
リシアは慌ててレオンの肩を見た。
「怪我は?」
「してない。まだ着てないから」
「……先に言ってください!」
「最後まで聞けば分かるだろ」
「心臓に悪いんです!」
レオンは小さく笑った。
リシアは頬を膨らませたまま、鎧の周囲を歩いた。
胸部の補強板を指で軽く叩き、右肩の接続部を覗き込む。
「でも、思ったよりずっと大きいですね」
「人が中に入るからな」
「重くないんですか?」
「重い。そこが今の問題だ」
レオンは背面の金属板を指した。
「肩の負荷を背中へ逃がす補強を入れた。これから試す」
「私も手伝います」
「頼む。そこの固定具を押さえてくれ」
リシアは頷き、背面の金具を両手で支えた。
レオンは右腕の魔力経路に指を触れる。
「少しだけ流すぞ」
「はい」
青白い光が、胸部の細い溝を走った。
途中で二つに分かれ、一方は肩の固定部へ、もう一方は右肘へ向かう。
レオンはゆっくりと魔力を送り込んだ。
ギ……ギギ……。
魔導腕が持ち上がる。
肩の接続部が軋んだ。
「……まだ少し捻れるな」
「でも、さっきより安定してませんか?」
「ああ。もう少し……」
右腕が胸の高さまで上がった。
そのまま、五秒。
十秒。
リシアが息を呑む。
「動いてます……!」
「まだだ」
レオンは腕をゆっくり下ろそうとした。
その瞬間。
バキッ!
背面の固定具から、嫌な音がした。
「レオン!」
「魔力停止!」
光が消える。
右腕が落ちかけたが、レオンが下から支えた。
リシアも慌てて手を添える。
二人がかりで、どうにか作業台へ戻した。
「……ふう」
レオンは息を吐いた。
背面の固定具を見る。
革紐を留めていた小さな金具が曲がっていた。
「……やっぱり、ここに負荷が集中するか」
「壊れちゃいましたね……」
「一か所だけで済んだ」
レオンは曲がった金具を外した。
補強材自体には亀裂がない。
肩の接続部も無事だった。
ただし、腰で荷重を受ける構造がなければ、同じ問題が繰り返されるだろう。
「……腰部を先に作る必要があるな」
「それじゃ、胸の部分は?」
「使える。設計を少し変えるだけだ」
レオンは記録帳を開いた。
――胸部と右腕の接続、成功。
――十秒間の動作を確認。
――背面固定具に負荷集中。腰部支持が必要。
ペンを置くと、リシアが嬉しそうに笑っていた。
「何だ?」
「いえ……」
彼女は鎧を見上げた。
「最初に会った時は、腕が一本だけだったのに」
「ああ」
「今は、ちゃんと鎧になろうとしてるんですね」
レオンは少し考えた。
「……まだ、なろうとしてる途中だ」
「はい」
リシアは頷いた。
「でも、私は完成すると思います」
レオンは彼女を見た。
リシアは、当然のことのように微笑んでいる。
何の根拠もない励ましではない。
彼女はこれまで、腕が壊れるところも、失敗するところも、何度も見てきた。
その上で言っている。
「……そうだな」
レオンは鎧へ視線を戻した。
「完成させるよ」
◇
昼食を終えた頃だった。
扉が叩かれた。
「郵便です!」
外から少年の声がした。
リシアが扉を開けると、配達員が一通の封筒を差し出した。
「リシア・アルフェルトさん宛てです」
「……私に?」
封筒には、銀色の紋章が押されていた。
王立聖魔学院。
リシアの指が止まった。
「……学院から」
配達員が去った後も、彼女はしばらく封筒を見つめていた。
レオンは作業台から顔を上げた。
「どうした?」
「……手紙が」
「学院から?」
リシアは頷いた。
封を切ろうとする。
だが、指先が震えてうまく開けられない。
レオンは何も言わず、机の上に小さなペーパーナイフを置いた。
「……ありがとうございます」
リシアはそれを手に取り、慎重に封を開いた。
中には、一枚の書類が入っていた。
彼女は読み始めた。
最初は静かだった。
しかし、途中で表情が変わった。
「……そんな」
レオンが顔を上げる。
「何て書いてある?」
リシアは唇を噛んだ。
「……私の、在籍記録についてです」
「在籍記録?」
「学院を離れた時、私は休学扱いになっていたはずなんです」
彼女は書類を握りしめた。
「でも……今も、処分審議中になってるみたいで」
「処分?」
「聖女様への……冒涜行為、です」
レオンの眉が動いた。
リシアは続けた。
「このままだと、休学期間が終わった時に、退学処分になる可能性があるって……」
「……理由は?」
「過去の申し立てが、取り下げられていないからだそうです」
レオンは手を止めた。
「申し立て?」
「私が聖女様を侮辱したという、あの噂です」
小屋が静かになった。
外から、遠くの荷車の音が聞こえる。
リシアは書類を見つめた。
「……私、何もしてないのに」
声が震えた。
「ただ、あの時の魔力が不思議だったから……先生に聞いただけなのに」
レオンは黙って聞いていた。
「なのに、まだ……」
リシアは言葉を止めた。
書類の下には、期限が記されていた。
本人が異議を申し立てる場合、学院の事務局へ出頭すること。
期限は、三日後。
「……行かなきゃ」
リシアが呟いた。
レオンは顔を上げた。
「学院へ?」
「はい」
彼女は頷いた。
「このままにしたくありません」
だが、声には不安が滲んでいた。
レオンは少し考えた。
「……怖いか?」
リシアは驚いたように彼を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「……はい」
小さな声だった。
「とても、怖いです」
◇
その夜。
リシアは小屋の隅で、荷物をまとめていた。
替えの服。
魔法の教本。
小さな杖。
そして、学院から届いた書類。
鞄に入れては、取り出す。
また入れる。
何度も繰り返していた。
レオンは作業台で金属板を削っていたが、やがて工具を置いた。
「……リシア」
「は、はい!」
「鞄、もう三回開けてるぞ」
「……見てたんですか?」
「目の前だからな」
リシアは恥ずかしそうに俯いた。
「……何を持っていけばいいか、分からなくなってしまって」
「一泊か二泊だろ?」
「そのつもりです」
「だったら、それで足りるんじゃないか」
「……そう、ですよね」
彼女は鞄を閉じた。
しかし、手を離さなかった。
レオンはしばらく待った。
「……行きたくないなら、無理に行かなくてもいい」
リシアは首を振った。
「……行きたいんです」
「そうか」
「でも……」
彼女は鞄を見つめた。
「また、あの人たちに会うかもしれないと思うと……」
声が小さくなる。
「……足が、動かなくなりそうで」
レオンは椅子から立ち上がった。
リシアの隣に座る。
「……前に話してくれただろ」
「……はい」
「聖女の魔力が変わったように見えたって」
「……はい」
「それを確かめたいんだよな」
リシアは頷いた。
「それも、あります」
彼女は少し迷った後、続けた。
「でも、それだけじゃないんです」
「……?」
「私、ずっと逃げたままだったから」
リシアは自分の手を見た。
「学院を出た時は、もう二度と戻らないつもりでした」
窓の外では、風が吹いている。
「みんなに嫌われて、先生にも信じてもらえなくて……」
彼女は小さく息を吸った。
「自分が悪かったのかもしれないって、何度も思いました」
レオンは何も言わなかった。
「でも、レオンと一緒にいて……少しだけ、分かったんです」
「何が?」
「失敗した時も、分からないことがある時も……ちゃんと確かめていいんだって」
リシアは顔を上げた。
「私、自分が間違っていたのかどうか、もう一度確かめたいんです」
レオンは彼女を見つめた。
その目には、まだ恐怖があった。
けれど、逃げたいだけではない。
自分で決めようとしている。
レオンは小さく頷いた。
「……分かった」
そして立ち上がった。
「じゃあ、俺も行く」
リシアは目を瞬いた。
「……え?」
「学院へ」
「……レオンも?」
「ああ」
リシアは慌てて首を振った。
「だ、駄目です!」
「何で?」
「だって、これは私の問題です!」
「そうだな」
「レオンまで巻き込むわけにはいきません!」
「別に、巻き込まれてない」
「でも……!」
レオンは作業台を指した。
「学院には魔導工学の資料があるんだろ?」
「……ありますけど」
「古い魔導鎧の記録も?」
「たぶん……図書館には、かなり古い資料もあると思います」
「なら、俺にも行く理由がある」
リシアは言葉を失った。
レオンは続けた。
「今作ってる鎧、まだ分からないことが多い。魔力の分配機構も、古い工廠の技術も」
彼は胸部骨格へ目を向けた。
「第七工廠の試作型について、何か記録が残ってるかもしれない」
「……でも」
「もちろん、外部の人間が資料を見られるかは分からないけどな」
レオンは肩をすくめた。
「駄目なら、別の方法を考える」
リシアは彼を見つめていた。
「……本当に、それだけですか?」
「何が?」
「学院へ行く理由です」
レオンは少し黙った。
それから、正直に答えた。
「……心配なのもある」
リシアの目が大きく開いた。
「……え?」
「一人で行って、また嫌な目に遭うかもしれないだろ」
「……レオン」
「でも、お前の代わりに全部解決できるとは思ってない」
レオンは言った。
「学院のことは、お前の方が詳しい。魔法だって、お前の方が上手い」
そして、少し笑った。
「だから、俺にできることだけやる」
リシアは俯いた。
長い沈黙が続いた。
やがて。
「……ずるいです」
小さな声がした。
「何が?」
「そんな言い方されたら……」
リシアは顔を上げた。
目元が少し赤くなっていた。
「……一緒に来てほしいって、言いたくなるじゃないですか」
レオンは少し驚いた。
そして、静かに答えた。
「言えばいいだろ」
リシアは唇を噛んだ。
それから。
「……一緒に、来てください」
小さく言った。
レオンは頷いた。
「ああ」
リシアは目を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
「……ありがとうございます」
◇
翌朝。
レオンは旅の準備をしていた。
魔導腕を布で包み、工具箱から必要な道具だけを選ぶ。
小さな魔石。
簡易測定具。
記録帳。
そして、以前作った魔力検知板。
未完成の胸部骨格は、小屋に残すことにした。
持ち運ぶには重すぎるうえ、まだ安全に装着できない。
「……留守中に盗まれなきゃいいけど」
レオンは小屋の扉を確認した。
鍵は古い。
だが、近所の廃品商に頼んで、時々様子を見てもらうことにしていた。
もちろん、無料ではない。
帰ってきたら修理を一件引き受ける約束だ。
「……仕事が増えたな」
レオンは苦笑した。
そこへ、リシアがやってきた。
「準備できましたか?」
「ああ」
「……それ、全部持っていくんですか?」
彼女はレオンの鞄を見た。
工具が詰まっているせいで、かなり重そうだった。
「必要なものだけだ」
「本当に?」
「……たぶん」
「レオン」
「……分かった。もう少し減らす」
リシアは笑った。
二人は小屋を出た。
朝のスラムには、いつもの生活音が響いている。
洗濯物を干す女性。
荷車を押す商人。
路地を走る子供たち。
レオンは振り返った。
小さな小屋。
錆びた屋根。
歪んだ扉。
あそこで、何度も失敗した。
何度も部品を壊した。
そして、少しずつ魔導鎧を作り始めた。
「……行くか」
「はい!」
二人は並んで歩き出した。
◇
王都へ向かう馬車は、昼前に出発した。
レオンとリシアは、向かい合う座席に座っていた。
窓の外には、畑と小さな村が流れていく。
レオンは記録帳を開き、胸部骨格の図面を見直していた。
「……やっぱり、腰部が必要だな」
「まだ鎧のことを考えてるんですか?」
「考えるくらいなら疲れない」
「……本当でしょうか」
「魔力は使ってない」
「そういう問題じゃありません」
リシアは呆れたように笑った。
レオンは図面を閉じた。
「……じゃあ、学院の話でも聞かせてくれ」
「学院の?」
「ああ。どんな場所なんだ?」
リシアは少し考えた。
「……とても、大きいです」
「それは見れば分かりそうだな」
「もう、真面目に聞いてください!」
「聞いてる」
リシアは頬を膨らませた。
それから、窓の外へ目を向けた。
「図書館が、すごく綺麗なんです」
「へえ」
「三階まで本棚があって、古い魔導書もたくさんあります」
「それは楽しみだな」
「あと、中央庭園には大きな噴水があって……」
そこまで言って、リシアの声が止まった。
レオンは顔を上げた。
「……リシア?」
「……いえ」
彼女は小さく首を振った。
「少し、思い出しただけです」
レオンはそれ以上聞かなかった。
リシアは窓の外を見つめていた。
噴水。
白い石畳。
学院の制服。
そして。
『聖女様を侮辱したんですって?』
記憶の中で、誰かが笑っていた。
リシアは膝の上で手を握りしめた。
レオンはその様子を見た。
だが、無理に話しかけなかった。
代わりに、鞄から小さな包みを取り出す。
「……食べるか?」
リシアが顔を上げた。
「……え?」
「パン」
包みの中には、朝買った小さなパンが二つ入っていた。
「……今ですか?」
「昼飯には少し早いけどな」
リシアはしばらく見つめた。
それから、ふっと笑った。
「……いただきます」
二人は馬車に揺られながら、パンを分け合った。
窓の外では、青い空が広がっていた。
◇
夕方。
王立聖魔学院の白い塔が見えてきた。
高い城壁。
広い正門。
美しい石造りの校舎。
馬車を降りたレオンは、思わず見上げた。
「……でかいな」
「はい」
リシアは小さく答えた。
レオンは校門の向こうを見た。
整えられた庭園。
磨かれた石畳。
遠くには、魔法訓練場らしき建物も見える。
スラムとは、まるで別の世界だった。
「……金かかってそうだな」
レオンが呟いた。
リシアは少し笑った。
「最初に見るところが、そこなんですね」
「材料も設備も良さそうだからな」
レオンは校門を見上げた。
「……羨ましい」
その言葉には、少しだけ本音が混じっていた。
自分の小屋では、壊れた道具を直しながら使っている。
金属板一枚を買うにも、何日も悩む。
それなのに、この学院には巨大な建物と整った設備がある。
同じ世界に生きていても、使えるものが違いすぎる。
レオンは小さく息を吐いた。
「……まあ、今は関係ないか」
隣を見る。
リシアが立ち止まっていた。
校門を見つめたまま、動かない。
顔色が少し悪い。
「……リシア」
「……はい」
「帰るか?」
彼女は驚いて顔を上げた。
「……え?」
「今なら、まだ帰れる」
レオンは静かに言った。
「無理して入る必要はない」
リシアは校門を見た。
その向こうには、かつて自分が学んでいた場所がある。
楽しかった思い出も。
忘れたい記憶も。
全部、あの中に残っている。
リシアはゆっくりと息を吸った。
そして、首を振った。
「……いいえ」
小さな声だった。
だが、はっきりしていた。
「行きます」
レオンは頷いた。
「分かった」
リシアは一歩踏み出した。
レオンも隣を歩く。
二人は、学院の門をくぐった。
◇
学院の受付は、正門を入ってすぐの建物にあった。
磨かれた木製の机。
壁には学院の紋章。
奥には、書類棚が整然と並んでいる。
受付に座っていたのは、眼鏡をかけた中年の男性だった。
「ご用件は?」
リシアは一歩前へ出た。
「……リシア・アルフェルトと申します」
男性の手が止まった。
「……リシア・アルフェルト?」
「はい。学院から通知を受け取りました。在籍記録について、確認したくて……」
リシアは封筒を差し出した。
男性は書類を受け取り、奥の棚から分厚い台帳を取り出した。
ページをめくる。
一枚。
二枚。
そして、ある場所で手が止まった。
「……ああ」
男性の表情が変わった。
「あなたですか」
リシアの肩が小さく震えた。
「……はい」
男性は台帳を見下ろした。
「リシア・アルフェルト。休学中。ただし、処分審議継続……」
彼は眼鏡を押し上げた。
「聖女セレスティア様に対する冒涜的発言、および虚偽の告発に関する申し立てが残っていますね」
リシアの顔から血の気が引いた。
「……虚偽の、告発……?」
「ええ」
「……私は、告発なんてしていません」
男性は顔を上げた。
「ですが、記録にはそうあります」
「私は……ただ、先生に質問しただけです」
「その件については、当時の担当教員から報告が提出されています」
リシアは唇を噛んだ。
「……でも」
「正式な審議が終わるまで、復学は認められません」
男性は書類を机に置いた。
「異議申し立てを希望するなら、明日の朝、審議担当部署へ出頭してください」
リシアは黙った。
レオンは隣で話を聞いていた。
そして、静かに尋ねた。
「……一つ聞いていいですか?」
男性が顔を上げた。
「あなたは?」
「レオンです。付き添いで来ました」
男性はレオンを見た。
着古した灰色の上着。
擦り切れた靴。
使い込まれた鞄。
その視線が、少し冷たくなる。
「……学院関係者ではありませんね」
「はい」
「でしたら、関係のない方は口を挟まないでいただきたい」
レオンは表情を変えなかった。
「確認だけです」
「何を?」
「その記録には、具体的な証拠も載ってるんですか?」
男性の眉が動いた。
「……証拠?」
「はい。誰が何を見たのか。本人が実際に何を言ったのか」
男性は不快そうに眉をひそめた。
「そのような内部記録を、部外者に見せることはできません」
「見せろとは言ってません」
レオンは静かに答えた。
「存在するかどうかを聞いただけです」
「……」
「本人に処分を下すなら、何を根拠にしたのか説明する必要があると思いますけど」
男性は椅子に座り直した。
「……あなた、随分と生意気ですね」
レオンは黙っていた。
男性の視線が、彼の服へ向かう。
「見たところ、スラムの出身でしょう」
「そうです」
「ここは王立聖魔学院です。あなたのような方が、学院の判断に口を出す場所ではありません」
レオンの灰色の瞳が、わずかに細くなった。
だが、声は変わらなかった。
「……出身地と、質問の内容に何か関係がありますか?」
男性の顔が強張った。
「何ですって?」
「俺がどこで生まれたかじゃなくて、記録の話をしてるんです」
受付の空気が張り詰めた。
リシアが慌ててレオンの袖を掴んだ。
「……レオン」
彼は彼女を見た。
リシアは震えていた。
だが、その目は逃げていなかった。
「……ありがとうございます」
小さく言った。
そして。
「でも……ここからは、私が話します」
レオンは少し驚いた。
リシアは一歩前へ出た。
男性の方を向く。
「……私は、聖女様を偽物だと言ったことはありません」
声は震えていた。
「ただ、あの時の魔力について、先生に質問しただけです」
男性は黙っていた。
「それが、どうして虚偽の告発になるんですか?」
「……それは、当時の報告に……」
「その報告を、私は見たことがありません」
リシアは続けた。
「誰が書いたのかも、何が書かれているのかも、教えてもらえませんでした」
彼女は両手を握りしめた。
「……だから、確認したいんです」
男性はしばらく黙っていた。
やがて、ため息をついた。
「……分かりました」
台帳を閉じる。
「異議申し立ての手続きについては、明日、担当部署で説明を受けてください」
リシアは頷いた。
「……はい」
「ただし」
男性は眼鏡を押し上げた。
「処分審議中の学生が、学院内を自由に歩き回ることは認められません」
リシアの表情が曇った。
「……では、図書館も?」
「利用できません」
レオンが顔を上げた。
「外部利用の申請は?」
「外部の研究者や紹介状を持つ者に限られます」
「……なるほど」
レオンは小さく頷いた。
図書館へ入るには、別の手段が必要らしい。
男性は二人を見た。
「本日の受付は以上です」
リシアは深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
レオンも軽く会釈した。
二人は受付を出た。
◇
外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
リシアはしばらく黙って歩いていた。
やがて、校門の近くで足を止める。
「……レオン」
「ん?」
「……私、ちゃんと言えてましたか?」
レオンは彼女を見た。
「何を?」
「自分の、言いたいこと」
レオンは少し考えた。
「ああ」
そして、頷いた。
「ちゃんと言えてた」
リシアは小さく息を吐いた。
「……よかった」
その声は震えていた。
レオンは彼女の手を見た。
指先が、まだ少し震えている。
「……怖かったか?」
「……はい」
リシアは笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
「……すごく、怖かったです」
レオンは何も言わなかった。
リシアは続けた。
「でも……」
彼女は顔を上げた。
「今度は、逃げずに話せました」
「ああ」
「……それだけでも、少し嬉しいです」
レオンは小さく笑った。
「なら、よかった」
リシアも微笑んだ。
夕日が、白い校舎を赤く染めていた。
学院の鐘が鳴る。
その音を聞きながら、リシアはゆっくりと息を吸った。
「……明日も、頑張ります」
レオンは頷いた。
「俺も、図書館に入る方法を探す」
「……レオンらしいですね」
「せっかく来たんだ。何も調べずに帰るのはもったいない」
リシアはくすくす笑った。
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「……でも、レオン」
「何?」
「今日は、一緒に来てくれて……本当にありがとうございました」
レオンは少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……別に」
それから、小さく付け加えた。
「俺が来たかっただけだ」
リシアは微笑んだ。
「……はい」
二人は並んで歩き出した。
明日、何が待っているのかは分からない。
リシアの処分記録。
聖女セレスティアの過去。
そして、学院に眠るかもしれない古い魔導鎧の資料。
まだ、何一つ解決していない。
けれど。
リシアは、もう一人ではなかった。
そしてレオンもまた、自分の力だけで全てを成し遂げようとはしていなかった。
夕暮れの道を、二人は歩いていく。
それぞれの目的を胸に抱きながら。
同じ場所へ向かって。
この章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
楽しんでいただけたなら幸いです。もし何か感想や意見、あるいは単に物語の展開に対する感想などがあれば、ぜひお聞かせください。皆さんのコメントは、物語をどのように受け止めていただいているかを知る上で大変参考になりますし、私自身も作家として成長していく上で大きな励みになります。
もしこの物語が評価に値すると感じていただけたら、ぜひ評価をいただけると嬉しいです。
この物語を最後まで読んでくださり、心から感謝申し上げます。次の章でお会いしましょう。




