71.良知良能(りょうちりょうのう)
しばらくは予約が入っていないため、のんびりと宿の掃除や草刈りをしながら過ごしていたタクシイ観光の面々は、数日ぶりに帰ってきた愛娘を出迎えると力強く抱擁した。
「大丈夫ですか? 辛いのであればいつでも引き取りますから、遠慮なくおっしゃってください。私としてもミチュリを他人へ任せておくのは心苦しいのです」村長はもっともらしいことを言う。
「いいや、問題ないさね。細かい事情がわかってなおさらほっとけなくなったと感じるし、うちでは出来る限り人間らしい生活をさせてあげたいのさ」ハイヤーンはチクリと嫌味っぽく言ってやったつもりである。しかし村長は堪えた様子を見せることなく、にこやかに去って行った。
「ありゃあ完全に狂人の域だぜ…… 寒気がしてくらあ。それにしてもチクショウ、アイツらまったく扱いがヒデエな。まずは風呂に入れてやれよ。今用意するからな」
「ほんじゃ頼むよ。すぐ脱がせるから覗くんじゃないよ?」誰が覗くもんかと大声で答えたエンタクが井戸へ向うと、風呂に向かって引かれている水路へ向かってどんどん水を汲み上げていく。しばらくするとバシャバシャとはしゃぎ遊び始めた音が聞こえてきて大人たちに笑顔が灯った。
「やっぱり水遊びが好きなんだからアレが水だってことはわかってんだよなあ。滝も風呂も泉も同じ物だってわかる程度の知能はあるってことなら言葉だって覚えるに違いねえ」エンタクはゴロチラムに作ってもらった文字を覚えるための木札を早く見せたくて仕方ないと言った様子である。
ミチュリが帰ってくるのを待ち望んでいたのはそんな楽しみのせいなのだが、それだけでなく別に大きな懸念もあった。それはアマザ村長が言っていた『人間ではない生物の魂』という言葉だ。
「妖精ってもしかして動物と話ができたりするのか? そこまでじゃなくても意思疎通ができるとかよ? もしくはオメエなら麦の言いたいことは理解できるとかあってもおかしくねえだろ?」
『植物や鉱物由来の妖精にゃ無理な話だな。そもそもが意思疎通をすることのない何かが、自然環境を媒介として人っぽく形作っただけの存在がいわゆる妖精だぜ』
「じゃあ動物由来の妖精ならどうなんだ? そんなのがいるのか知らねえがよ。良く聞くのは植物と鉱物、宝石、あとは炎とか水とかもあったよな?」
『まあ基本的に妖精ってのは、この世にあるすべてのものから産まれ出る可能性はあるって話さ。動物を元にした妖精だってさんざん見て来てるはずだぜ?』クプルはなにかを匂わせつつもニヤリと笑みだけで濁した。
「まさかそれって―― モンスターか!? 異界ってのがどこのことなのかは知らねえが、ナロパと同じとは限らねえ怪物が闊歩してる世界からあの装置で魂を降ろすってことだろうからなあ。その途中で特別で強大な力が手に入ることがあるってのが理屈らしいが、そこに道理があるようには全く思えねえぜ」
『でもよ、英雄譚みたいな劇だとどこからともなく現れた英雄が圧倒的な強さで世界を救うなんてのばかりだろう? ってことはそう言うことなんだろうさ』クプルの言ってることはさっぱり理屈として成り立ってないが、どうでもいいと考えたエンタクは素直に納得することにした。
そうこうしているうちに風呂から上がった女性陣を出迎え、全員でテーブルを囲んでから木札をばらまいた。だが全くの無反応に、これは想定範囲内だとへこたれないエンタクだった。
「いいか? これをこう並べて『ミ』『チー』『ュリ』どうだ? わかったか?ミ・チュ・リだぞ?」だが変わらずミチュリは無反応である。
「よし、今度はアタイがやってみるからね。いいかいミチュリ、この木札に書いてあるのが『ミ』なんだよ? 一文字くらい覚えてみないかい?」しばらく続けてみたが何の進展もなかった。
しかたなく果物を出してやると、自分で手を伸ばし食べるのだからある程度の意志に基づいて行動しているのは間違いない。それが本能による行動だとしても、その行動原理は道端の草木とは明らかに異なっている。
「そういや風呂に入る時は水の中へ自分から飛び込んでいくのか? いつも溜め始めてすぐにバシャバシャ暴れてるじゃねえか。アレはまさかオメエじゃねえだろ?」
「そりゃアタイが水遊びなんてするもんかね。水が少し溜まってくると待ちきれなくて自分から入って行くんだよ。そう言われてみると自発的な行動も取らないわけじゃないねえ。どういう基準なんだろうか」
『地上にいるときには水分が足りなくて干からびてるんじゃねえか? ずっと水の中に入れといてやったら喜んだりしてな』
「「それだ!」」
クプルは冗談で言ったつもりだったのだが、藁をもつかもうかというような二人にとっては助け舟に感じてしまった。かと言って抱えて放り込むわけにはいかないわけなので、ついさっき出たばかりの風呂場へともう一度連れて行き様子を見てみた。
すると急に意志が宿ったように自ら進んで風呂へと入り、脚の先から頭のてっぺんまで全てを水中へと沈めているもちろん服は着たままなのだが気にする様子もなく、それどころかなんだか笑顔を蓄えているようにも見えるほどである。
それからそれくらいの時間入っていたのだろう。窓から見える陽の光が橙色の夕日となり、さらに白い月明かりに変わっていた。
「おいおい、本当にこのままずっと出ないつもりじゃあるめえな? 魂が魚だとしても体は人間だからふやけて大変なことになっちまうし、下手したら凍えっちまうぞ?」
「凍えないように魔法で沸かしてるから平気だよ。それでも長すぎて心配にはなっちまうねえ。でもなんだか幸せそうじゃないか? きっと前世は水辺の生き物なんだろうねえ」
そんな安らぎの空気が流れて行く空間が風呂場というのもおかしな話だが、エンタクとハイヤーンはしっかりと寄り添いミチュリを見つめていた。こんな時間がいつまでも続けばいいと感じながら。
だがそれから間もなく、月の光が窓から差し込み水面に反射したのを切っ掛けにしたのか、ミチュリが突然歌いだした。
言葉を話せない娘の口から発せられた初めての歌声に驚いたのは当然だが、そんなことよりも頭が割れるかのような痛みを感じながら二人はのた打ち回っていた。
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りょうち-りょうのう【良知良能】
人間が先天的にもっている知恵と才能のこと。後天的に獲得する学問や経験によるものではなく、人が生まれながらにもっている正しい心の働きと能力のこと。子が親を敬愛することの類たぐいをいう。




