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パレット  作者: 雨咲はな
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番外編・来栖の苦悩



 ──最初に彼女を見た時、大袈裟ではなく、盛大に鳴り響く運命の鐘の音が聞こえた。



 彼女はその時、なんの変哲もないただの川べりの景色を、まるできらめく宝物に対するようなひたむきさで一心に見つめていた。

 まっすぐで、揺らがない眼差し。使い込んだ筆を持つ、絵の具で少し汚れた細い指の、滑らかで迷いのない動き。

 なによりも、その瞳の輝きに魅入られた。


 そこにあるのは、圧倒的な「強さ」。


 頼りない顎の線も、繊細な眉も、今にも笑みを零しそうにわずかに緩められた唇も、なにもかもが他を圧していた。

 彼女がまとっているのは、ぴんと張りつめた空気だけ。

 その時、その場で、彼女はまるで土手に座る女王のように、凛として、生命力に溢れ、美しかった。

 周囲にある草も、川の水も、建物群も、それどころか空も雲も太陽も、今だけは彼女のために従順な演出をしているかのように見えた。雑音が消え、時間さえも止まったように思えた。それほどまでの、存在感だった。


 来栖はその瞬間すんなりと、自分の負けを認めた。どう見ても自分より二歳も三歳も年下に見えるその少女に、全面的に白旗を上げた。

 彼の心に宿ったのは、間違いなく憧憬であり、尊敬だった。この女の子の、好きなものに対する、一途さ、懸命さ、気迫、集中力、そういう諸々を合わせた「強さ」に、どうやっても自分は勝てない、と思ったのだ。


 だから彼は彼女に恋をした。


 妹がたった十年と少しという年齢で強制的に人生を途中終了させられた時から──来栖の頭と全身にとんでもなく絶望的な何かが植え付けられた時から、神や天なんて存在は一切信じなくなったというのに、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、そういうものに感謝してもいいかなと思ってしまうくらいに、劇的で熱烈な感情だった。



 ──というわけで、来栖司は現在、真剣に悩んでいる。

 来栖はもともと、何事につけておおむね即断即決のタイプだ。わりと直感で思いついたことをそのまま実行してしまうところがあり、しかも今までそれで失敗らしい失敗をしたこともない。そのためずっと、「悩む」という行為とはあまり縁のない人生を送ってきた。

 友人の林田には時々、「お前ってホントにムカつくな!」と怒られてしまったりするこの頭の回転の速さと要領の良さが、今にして溜め込んだツケを一気に払えと来栖に迫っている。


 要するに、つらい。

 もう本当に、苦しくて、つらいのだ。



          ***



「なあ林田、できちゃった婚、っていうのは有効だと思う?」


 唐突な来栖のその言葉に、テーブルを挟んで向かいに座っていた林田が、ぶぶーっと口に入れていた飯粒を勢いよく噴き出した。

 大学の学食内は、昼食時ということもあって、多くの学生たちで賑わっている。親子丼がまだ半分くらい残ったドンブリを手に、咽せて咳き込む人物に向かって彼らの視線が集中したが、天井に目を向けた来栖は、そんなものまったく気にも留めないで自分の思索に耽っていた。ついでに言うと、窒息で死にそうになっている友人のほうも気にしない。


「……来栖、お前は今、彼女についてのノロケ話をしてたんだよな?」


 ゲホンゲホンと何度も苦しそうな咳をして、ようやくまともに呼吸が出来るようになった林田が、呻くように言う。

 来栖はきょとんとして、ようやく目の前の相手に視線を戻した。


「そうだけど?」

「直ちゃんが可愛くて可愛くてもうどうしよう、みたいなアホな話をダラダラと垂れ流していたんだよな?」

「そうだけど? ていうか、馴れ馴れしく『直ちゃん』って呼ぶの、やめてくれる?」

「その話からどうしていきなり『できちゃった婚は有効か』なんて台詞がポロッと出てくるんだよ!」

「いやだから、世間における一般的なごく普通の疑問として」

「その流れでその単語が出てくるあたりが、すでに一般的じゃないだろうが!」

「うーん……」


 来栖は迷うように口ごもって、頬杖をついた手で首筋をなぞるようにして動かし、再び目線を天井に向けた。

 来栖という男はかなり容姿が良いので、そういう仕草が色っぽく見えるらしく、トレイを持って席を探している女の子たちが、こっちにちらちらと視線を送ってはひそひそ話し、くすくす笑いながら通り過ぎていく。

 たぶん、この男の頭の中が可視化されたら、彼女らの笑みが強張るのは間違いないのだが。

 来栖はその外見で、林田の数倍は、人生において得をしている。


「──ナオさんがさ」

「うん」

「両親の説得に、手こずっているらしくて」


 ぽつりと落とされた言葉に、林田も、ああ、と納得した。

 いや、さっきの発言とこの件に関する因果関係はまったく不明なままだし、どちらかというとあんまり知りたくもないくらいなのだが、来栖の彼女である直という高校生が、現在抱えている厄介な案件については耳にして知っていたからだ。

 どうやら彼女は、進路についての希望と見解が、まったく両親と噛み合わなくて、困っているらしいのである。

 頑張って説得を重ねているのだが、今のところかなりの難色を示されている、という話だ。

 親としては、普通に大学に進学して普通に就職するものだと思い込んでいた自分の娘の口から、いきなり「美大に行きたい」という言葉が出てきたものだから、困惑のほうが大きいのかもしれない。


「美大進学は、無理ではないんだろ?」

「無理じゃないよ、もちろん。学校の先生にも話をして、美術教師にはじめて自分の絵を見せたりもしたんだけど、こんなに描けるのかって驚かれたらしいし。技術的には、何の問題もないはずなんだ。ワタシは素人だけど、ナオさんの絵は、もっと広く人に知られるべきだと思う」


 そんなにも絵を描くのが好きで、才能もあるというのなら、すんなりそちら方面に進ませてあげればいいのになあ、と林田などは思うのだが、それはやっぱり無責任な立場からの物言いなのだろう。

 親としては、美大に行ったその先、を不安に思ってしまうのも当然だ。


「で、親と揉めてんの?」

「揉めてるっていうか、どうしても理解できないみたいだね。絵は絵で、趣味としてやっていけばいいだろう、大学にもそういうクラブやサークルがあるだろうし、なんなら絵画教室にでも通えばいい、って。そういう捉え方なんだ」

「あー……、そりゃ噛み合ってないね」


 これからの人生を懸けて本格的に絵を学びたい、という人間と、絵なんてものは所詮趣味や遊びの範疇でしかない、と考える人間。

 両者の溝はおそろしく深い。他人なら、合わない、の一言で済まされるその溝が、なまじ血縁関係になるとこじれてしまう。難しい問題である。

 それでも、直という子は最近まで、自分がそういう進路希望を持っているということすら親に話せなかったというのだから、その状況はある意味大きな前進でもあるはずだ。

 まだ高校二年生だというし、これから少しずつ時間をかけて、自分の意志が固いことを示していくしかないだろう。


「この先も大変だろうから、お前がちゃんと励ましてやれよ」

「もちろん」


 来栖の彼女になったその少女については、林田もまったく無関係というわけではなくて、ちょっとした責任も感じているので、完全に他人事と割り切って聞くことも出来ない。

 握った拳にぐっと力を込めて来栖に言うと、そちらからは、何を当たり前のことを、という調子で返された。


「そりゃワタシはナオさんの支えになるし、ワタシに出来ることならなんでもしてあげるつもりだし」

「うん」

「なんなら疲れたナオさんに朝から晩までぴったり寄り添って、力づけたりもしたいんだけど切実に」

「うん、気持ち悪い」


 きっぱりと林田に断言され、来栖ははあーと深く長いため息をついて、テーブルに突っ伏した。


「線引きがよくわからない……」

「いや普通に常識的に考えようぜ」


 林田は突っ込んだが、来栖は「ワタシほど常識を弁えた大学生はいないのに……」とぶつぶつ言った。

 来栖は確かに普通の大学生で、それなりに真面目で常識的な男でもある。しかしどこか一部分突出して、彼の持つ常識は、世間の常識とは食い違っているようなのだ。

 なんだかちょっと怖いので、林田はその点、あまり考えないようにしている。

 来栖はテーブルに顔をくっつけたまま、もう一度悩ましげにうーんと唸った。


「ナオさんは自分のことを『あんまり普通じゃない』って思ってて、少し萎縮したところがあるんだよね。美大に行けば、自分と同じようにひとつのものにのめり込む人も、考え方や価値観がよく似た人にも出会えるだろうし、それだけでも世界が広がって、自信もつくと思うんだよなあ」

「まあ、そうだよな。お前のことも高校の頃から結構な変人タイプだと俺は思っていたが、大学内にはもっと極端な変人が大勢いるもんな。俺は大学生になって、世間て広いな、と思ったよ」

「絵を描いてるナオさんは、あんなに楽しそうで綺麗なのに。一日中心おきなく絵のことを考えてもいいって環境に置いたら、きっとものすごくイキイキして、今以上にキラキラした目をすると思う。どうしてナオさんの親はそれがわかんないのか……ワタシが出張っていけば口先三寸で丸め込むのは不可能じゃないだろうけど、それだと意味がないし……ナオさんがこの試練を乗り越えて思いきり笑うところも見たいし……それって絶対、可愛くて可愛くてたまんないだろうし……そうなったら写真撮りまくって力いっぱい抱きしめて頬ずりしてベタベタに甘えて甘やかしてお祝いしてあげるって夢も捨てがたい……ううーん」

「おい、後半。お前の欲求がダダ漏れになってるぞ、後半」


 林田は冷静に指摘したが、来栖の耳には届いていないようで、うーんうーんと頭を抱えている。

 来栖とは高校の時からの付き合いの林田だが、この男がこんな風に悩むところを見たのははじめてだ。

 それだけ、彼女のことを大事に思っている、ということか。大事だからこそ、自分の中のあれこれを抑えつけて見守るスタンスをとっているわけで、けれどやっぱり、湧いて出る心配やもどかしさはどうしようもないのだろう。

 今まで何があっても、ほとんどのことは自分でさっさと動いて迅速に処理し、片付けてきた来栖のような人間には、それは確かにしんどく、大変なことであるのかもしれない。

 やれやれと思いながら、林田はふと顔を巡らせて、食堂の入口に視線をやった。

 すると、今まさに入って来ようとしていた女子学生たちが、テーブルに突っ伏す来栖の茶色がかった頭を発見して、ぎょっとしているところが目に入った。

 彼女たちは、そのままくるりと回れ右して、そそくさと食堂を後にした。正解である。意外としつこい性格の来栖の怒りはまだ完全には収まっていない。彼女らだって、あんな怖い思いをするのは一度で充分だろう。林田もあんな肝を冷やすようなことは二度とゴメンだ。

 もう一度言う。

 普通の大学生である来栖の常識は、ごく一部分、世間の常識から大幅にはみ出している。


「ナオさんの自立は邪魔したくない……かといって、しょんぼりしたところを見てると、可哀想で可哀想でしょうがない……」


 女子学生たちや林田の心情も知らず、来栖はまだ苦悩していたらしい。

 一瞬言葉を切ったかと思うと、ぱっと顔を上げた。


「だからさ、やっぱりここは、ワタシがナオさんを引き取るのがいちばんの解決法だと思わない?」

「思わない」

「だってどうせ数年後には一緒に住むようになるんだし、それがちょっと早まるってだけのことだと思わない?」

「思わない」

「普通の大学に行って、普通の会社に就職して、普通のお嫁さんになる、っていうのが両親の描いてた人生コースなら、途中を省いてワタシのお嫁さんになっても、なんの問題もないと思わない?」

「思わない」

「年齢がどうの法律がどうの世間体がどうのっていうのが気になるなら、そういうものを一気に押し流せそうだという点で、できちゃった婚っていうのも有効だと思」

「思わない! 人の話を聞け! そこか! そこで最初に戻るのか! お前の一部歪んだ常識で固められた理屈を、さも普通のことのように喋って、俺に同意を求めるんじゃねえ!」


 林田がテーブルをバンバンと平手で叩いて説教すると、来栖は不満げに唇を突きだした。


「それで四方八方が丸く収まる名案だと思うのに……美大はワタシのお嫁さんになっても通えるし、ワタシはナオさんが絵を描いているところを見るのがなにより好きだから、そのために全力でサポートする用意もある。お父さんとお母さんだって、ワタシのようにしっかりした男が義理の息子になって娘のそばにいると思ったら、安心できるでしょうに」


 来栖は外面だけは好青年と言えなくもないが、この会話をもしも直の両親が知ったら、なにがなんでもこの男から娘を引き剥がそうとするのではないか──と林田は思った。

 しかしもちろん、口にはしない。そんなことになったら、来栖がどんな行動に出るか、考えるだに恐ろしい。

 そこで林田ははっとした。

 胡乱な目で、前に座る男をじろりと睨みつける。


「……お前、その考えを、よもや直ちゃんの前で口にしてやしないだろうな?」

「まさか。プロポーズはもっと時間と場所とを念入りに選んでからじゃないと」

「断じてそういう問題ではない。そして今のを絶対にプロポーズとして使うな。だがいいか、ただでさえ直ちゃんは進路問題でいろいろと大変なんだから、これ以上困らせるようなことを言ったりするなよ」

「困るかなあ」

「困るに決まってんだろボケ。ドン引きするわ普通。まだ高校二年生なんだし、結婚のけの字も考えてるわけがあるか」

「だっていずれはそうなるし」

「だからなんで決めつけてんだよ! 来栖、お前まさかその、実際にできちゃった婚がどうのという事態が心配されるようなことは」

「やってない。やりたいけど、我慢してる。けっこう必死。ほんのり頬を染めてはにかむように笑うナオさんなんて心臓が止まるくらいに可愛いのに、まだ手を握って軽くキスするくらいのところで踏みとどまってるワタシの精神力は素晴らしい」

「そ、そうか、よかった……そこだけはまだ常識と理性がお前に残っていて、ホントによかった」

「最近でこそ、可愛く笑ったり可愛く話してくれたりするようになったとはいえ、ナオさんはまだ、他人への恐怖心っていうのが完全には取り払えてないみたいだからね。一気に距離を詰めて逃げられでもしたら、ワタシ泣いちゃうし。これから一生みっちりとそばにいるつもりなのに」

「怖いことをさらっと言うな!」

「あーあ……世の中って、ままならない」


 林田の苦情もどこ吹く風で、頬杖をついた来栖は、哀愁を帯びた表情で、しみじみと息を吐き出した。


「──犬になりたいなあー。絵を描くナオさんにくっついて寝そべって、一日中ひたすらその顔を見て尻尾を振っていたい。それで時々頭を撫でてもらったら、幸せだろうになあー。それくらい、せめてものささやかで控えめな望みだと思わない? なのにそう言ったら、ナオさん、二歩くらい後ろに退がって、ワタシから距離を取ろうとするんだよ……」

「当たり前だ、この変態が!」




 来栖が直ただ一人に捧げる両手から溢れんばかりの純愛、およびそれに伴う忍耐は、今のところ、誰にも理解してもらえない。

 直本人にもだ。

 つらい、と本気で思っている。





ただのアホです。



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