帝国への潜入
我々情報部・第一小隊は現在、避難民の群れの中にいる。
バアル帝国への侵入は、本来難しい。
平時ならば国境沿いの警備が異常なまでに厚く、堅固だからだ。
しかし連合が国境の要衝を押さえた今、その統制に乱れが生じている。
現在の状況であれば、傷病兵や難民になりすますという手段を採ることができる。
前者は非常に難度が高いが、成功すれば貴重な軍内部の情報を得ることが可能だ。
後者であっても、容易なのは侵入するところまで。
重要な情報を得るには、多大なリスクを負う必要が生じるところは変わらない。
王国との国境沿いに住んでいた避難民の集団が辿り着いた地は――否、地「も」といったほうがいいだろう。
「ここもか……」
未だ戦火に晒されていない地域とは思えないほど、荒れ果てていた。
田畑の土は渇き、井戸の水は枯れ、家屋は雨風をまともに凌げるかどうかも怪しい。
木の根すら齧る状態なのか、あちこちで掘られた穴がそのままになっている。
伝染病を恐れてか、遺体こそ放置されていないが……。
集めて家ごと焼いたものなのか、未だ煙が上がっている箇所も少なくない。
「こいつはひでえ……」
部隊最年長のウノが思わず、といった様子でつぶやく。
帝国の困窮は想定以上のものだ。
黒精霊による変身能力を得たものは、空腹を感じないという話を捕虜から得たが……。
そうでない民は、飢えている。
淀んだ目、渇いた唇、細い手足。
大人たちは嘆く気力が、子どもは泣く体力すら残されていない。
黒精霊の土地に対する浸食も見て取れ、まともに作物を育てることすら難しい。
「無理だと言っているだろう!」
「お願いです! どうかこの子だけでも!」
「ええい、どけっ!」
足が悪いらしい母親が、赤子を避難民に託そうとしている。
避難できる民というのは、それだけ余裕の残る者だ。余力がある者だ。
体が悪く移動するだけの体力がない者、財がなく逃げた先で飢えることが見えている者は、逃げることさえ許されない。
「くっ!」
「デュー」
「わかっております……!」
デューが唇を強く強く噛み締める。
手を貸したくなる気持ちは痛いほどわかるが、我々にそれは許されない。ここは敵国だ。
今の私たちにできることといえば、あの母子が無事に王国の庇護下に入ることを願う程度のものだ。
慈悲深いリリ様であれば、決して悪いようにはすまい。
「ウノ」
「へい」
「デュー」
「はっ」
「ハトを」
部下二人が伝令魔法、通称『伝書鳩』を発動。
使用精霊は風、伝達は暗号化された専用言語を用いて行う。
可視性の下げられた魔法の塊が二羽、鳥の形を成して飛び去る。
避難民たちの口数は多くないが、静かというわけでもない。
連合に対する恨み言、自分たちの境遇に対する嘆き、先行きへの不安……。
群衆が歩調を合わせているのは、いざという時に他者を盾に、囮にして逃げるためだ。
帝国民同士の結束力が高いわけではない。
我々の会話と行動は誰にも注目されることなく、その波の中に消えていく。
むしろこの群衆の中にあっては、普通に話すほうが紛れやすいというものだ。
「ナナシ様。ハトによる情報伝達、完了しました」
「しかし、ボン。黒精霊とやらの妨害が強い。まだ伝達は可能なようだが、これ以上離れると……」
「わかっています。次回伝達は、別の手段を考えます。それにしても……」
「ああ。やっぱ異常ですぜ、これは」
この惨状では、飢えを避けるために兵になる者も出るだろう。
だが……やはり帝国は、戦後のことをまともに考えていないのだろうか?
信仰・恐怖の両面で民衆を支配してきた帝国だが、どうにもこれまでと様子が違う。
行き過ぎた圧政は、必ず反発を生じさせる。
仮に帝国が連合に勝ったとしても、まともな統治が可能だろうか?
「……これまで通り、それすらも力で抑え込む自信がある。そういうことでしょうか?」
デューが侮蔑の色をにじませながら、吐き捨てるように発言する。
ウノがその頭の上に、ぶ厚い手を乗せる。
慰めるように、あるいは落ち着けとでも言うかのように。
「ボン。どうします? しばらくこの地に留まり、軍の情報支援に回りますか? それとも……」
「進みましょう。王国の持つ帝国領内の地形情報は古いですし、奥地に進むだけでも価値はある。圧政による反攻勢力が発生している保証はありませんが、接触機会があるとすれば人口密集地――首都か、どこかの主要都市の近郊。その付近になるでしょう」
経験豊富なウノの目を見返しながら話す。
それは判断に誤りがないかを問う意味もあるし、更に危険な地に入る覚悟を問う意味もある。
最も、覚悟を問われているのは若輩の自分たちのほうかもしれないが。
私は同年代の情報部員、デューへと目を向ける。
「デュー。いいですね?」
「はっ。どこまでもお供します」
ほんの数年前まで帝国民だったデューの土地勘は、今後の頼りになるだろう。
優秀だが、私怨の色が見え隠れする点については……。
上手くコントロールしつつ仕事をさせるのが、自分とウノの役目である。
あまり気持ちのいい話ではないが、元帝国民であるが故の監視についても同様だ。
なにかが起きた際は、私かウノが彼女を消さなければならない。
「まずは第二の要衝、城塞都市ムルスを目指しましょう。デュー、異存は?」
ムルスは過去の独立戦争の際に、大きな犠牲が出た場所だ。
その後の大戦でも、王国側が何度か苦杯をなめさせられることになった因縁の地である。
「ありません。軍事上でも、情報収集の上でも重要拠点です。この群衆も、そこを目指して進むようですので」
デューの言う通りではある。
ムルスは地形に恵まれ、後方に穀倉地帯まで抱えており、食料備蓄が多く籠城も容易い。
今の食糧事情がどうなっているかは、行ってみなければ不明だが。
この群衆はムルスの防衛力と食糧に期待して逃げ込む腹積もりのようだが……。
どうにも、嫌な感覚が拭えないでいるのは自分だけだろうか?
帝国中央に向かって進むほど、黒精霊の密度と気配が増していくように感じるのは。
「しかしボン、本軍は大丈夫ですかね? 頂上が霞むほど高い壁に覆われた要害……陥落させるのは至難でしょうに」
「それでも突破しなければならないでしょう。ここを落としておかなければ、帝都攻略の際に背後を突かれます。帝国を討つためにも、攻略は必須です」
「それはそうなんだけどよ……」
ウノのぼやきにも似た言葉に、デューが厳しい視線を向ける。
ただ、これはウノの責任感から出ている言葉だろう。
称号持ちはライオル殿が獣人国・国王になったことで四人に減ってしまい、最盛時の十人という数に遠く及ばない。
大陸の戦史を遡れば、一騎当千の傑物が戦況をひっくり返した例は枚挙にいとまがない。
この世界の戦いは、そうできているのだ。
だからこそ、王国戦力に対するウノの危惧は理解できる。
しかし――
「軍のほうは大丈夫でしょう。大精霊と、リリ様がおられます。王国と諸国、連合全体の士気も高い」
――リリ様は百年どころか、千年に一人の天才だ。
人の身でありながら精霊と心を通わせ、魔法の才に長け、ハイエルフであるルミア様に匹敵する力をあの年齢にしてお持ちであられる。
そして、黒精霊に対抗するように現れた大精霊たち。
各国には王国の称号持ちに匹敵する武勇を持つ将たちの存在。
黒精霊と帝国の不可解な動きは不気味だが、連合側に明るい材料は多い。
そして。
「なによりも……」
目を閉じれば、鮮やかな赤が脳裏に浮かぶ。
流れるような長髪、気高さを感じさせる真っ直ぐな瞳、黄金比に彩られた美しい肢体。
炎をまとって戦い、傷つき、悩み、泣いて、笑う彼女の姿が一瞬で甦る。
デューの呆気に取られた表情、ウノの見開いた目を見て、私はようやく自分が笑みを漏らしていることに気づいた。
いけないな、これは。
口元を抑えて笑みを消し、切れていた言葉を言い直す。
「なによりも、王国軍には彼女がいますから」
私情が入るのも仕方ないというものだろう。
今や彼女は軍の中核、姫様に次ぐ象徴のような存在になりつつある。
……いや、そうではない。そうではないな。
私は惹かれているのだ。彼女という存在に、どうしようもなく。
「私は信用していません。あんなぽっと出の小娘……!」
「そうかぁ? 俺ぁ好きだがね。多少要領が悪いようだが、真面目で勤勉。なにより美人で肉感的ときた。いやぁ、たまらんね」
「あなたの好みは聞いていないんですよ、ウノ!」
「嬢ちゃんこそ、ボンのお気に入りだからって色眼鏡はいけねぇなぁ」
「だ、誰が! 違います! 私は――」
これから我々が向かう、城塞都市ムルス。
かの地は彼女の師、剣聖ティムの伝説が生まれた地でもある。
この悲惨な現状に、そういった感情を持つのは相応しくないとわかってはいるが……。
新たな英雄誕生の予感に、私は胸の高鳴りを抑えられない。
懸念があるとすれば、ただ一つ。
「彼女を頼むぞ、ニール」
カティア殿の心が、目の前の惨事に耐えられるかどうかという点だけだ。
……支えが必要だ。
自分がそうなれないことに一抹のもどかしさを感じるが、今は――。
情報部員として、己の職務を命懸けで全うしなければならない。
それが私なりの、王国への……ひいては、彼女の助力になると信じる。