水の記憶
『アカネ、俺様に続けて発音するんだ。いいか? ジ・ー・ク・く・ん。ほれ』
「……ジーくん」
『!? もう一回だ、もう一回! ってかちゃんと呼べないなら別の呼び方でもいいんだぜ? いっそ呼び捨てでも構わ――』
「やだ」
『何でだ!』
「だってフィーナちゃんもライオルくんをライオッサンって呼んでるもん! わたしもくっつけて呼びたい!」
「そんな理由かよ! しかもわざとかよ! ちゃんと呼べよ!」
「やだ!」
結局、「子供の相手は得意だ、任せろ!」と主張したジークがアカネの気を逸らす事に成功した。
ミストラルさんに言わせると子供と同レベルなだけ、だそうだが。
ついぼんやり見ていると、変声期前の少年に似た声に意識を引き戻される。
『……今の内にこちらの話を済ませようか』
「私のオーラ操作能力の回復について、ですか」
『そう。別に山奥にある秘薬を採ってこいとか、大陸一の名医を探せなんて難題を吹っ掛ける気は無いんだ。この場で可能な方法だよ』
「む……となると水魔法による回復か? 問題は誰が治癒を行うかじゃが……」
「ルミアさんですか? それとも姫様ですか?」
私が知る限り、魔法に関してはその二人の能力が抜きん出ている。
姫様は常人よりも遥かに膨大な魔力を持ち、大精霊無しでも高位の魔法使いが日に一度しか撃てない極級魔法を連発することが出来る。
ルミアさんは言うまでも無く、技量において並ぶ者が居ないガルシア一の魔法の使い手だ。
しかしミストラルさんは首を横に振る。
そのどちらでもないと言う。
『カティア。君自身に水魔法で治療をしてもらう』
「私が……ですか? 御言葉ですが、水魔法に関してはさっぱりですよ?」
爺さまの勧めで全属性の魔法を試したが、私の魔力に反応があったのは火だけである。
初めて手から火が出た時は感動したものだ。
物語やゲームでしか見れないものを現実で、しかも自分の手で放つことが出来るなんて夢の様な気分だった。
村の農作業で活躍するのは火以外の三つなので、そこに関しては残念だったが。
『水の大精霊、頼んだ』
『本人の了承を取らなくていいの?』
『面倒だ。やってしまおう』
『……後でどうなっても知らないわよ? ……では、カティア。火に慣れた貴方には、もしかしたら冷たさのようなものを感じるかもしれないけれど……成功すれば、大した問題ではなくなるわ』
「え? サスーリカさん、一体何を――」
それまで黙って成り行きを見ていた青い髪の女性が、風の大精霊の呼び掛けに応じて近付いて来る。
そのまま私の額に向かって手の平を伸ばす。
冷やりとした感触を受けた次の瞬間――私は椅子の上に崩れ落ちた。
……王都の片隅、隠れるようにひっそりと建つ小さな教会。
その屋内の遺体の山の前で、男が肩を震わせながらしゃがみ込んでいる。
私はゆっくりと近付き、細い背に声を投げ掛けた。
「……何時までそうしているつもり? 貴方がいくら泣いても、彼女達はもう帰ってこないわ」
「……。相変わらず厳しい物言いだね……サスーリカ」
彼等はガルシアに住まいながらも、バアルの教えを捨てられなかった者達。
国の定めで禁じられている訳ではないが、バアル教は敵対国の国教である。
当然その風当たりが優しい筈もなく……。
結果、彼等自身は何ら罪を犯していないにも関わらず、帝国に恨みを持つガルシア人によって殺されてしまった。
どれだけ高度な水魔法を用いても、彼等はもう助からない。
ガルシア建国からおよそ五十年――。
世代を跨いでも、未だ偏見や差別の根は深く残っている。
「救えなかった……」
ぽつりと呟かれた声。
その言葉は誰に向けてのものなのだろう?
私なのか、それとも彼が抱きかかえている少女に対してか、それとも単に懺悔のつもりなのか。
「そうね」
返した言葉は素っ気なく。
けれど、他に何が言えるというのだろうか。
「もっと上手くやれば……帝国の間者が入り込んで、人族以外の者を襲って回っている。それは把握出来ていたというのに……」
「そうね」
「彼等は気が立っていた! 何も知ることが出来ない民衆が、疑心を誰に向けるかなんて……直ぐに気付くべきだった! 気付ける立場に居たんだ! 奴らの狙いに……なのに、どうして!」
「そうね」
帝国に狙われた者には特徴があった。
人族を嫌っている者や国内のバアル教徒を排斥したがっている者、特に陰口などを周囲に触れ回っていて目立つ人物が標的にされた。
御丁寧に口だけは利けるよう、半殺しの状態にしてである。
上層部は欲をかいてしまったのだ。
諜報員を捕らえて情報を吐かせれば、今後の帝国対策が楽になる。
最終判断はセシルに委ねられていたが、彼の周囲の人物はこぞって諜報員の捕縛優先を支持した。
王都の民の安全は後回しにされ、結果――
「……っ、こんな男が! ……こんな男が本当に、王を名乗っていていいのか? 御爺様が造りたかった国は……父上が目指した国は……こんなものでは……!」
「……そうね」
私は彼が抱いたままの、物言わぬ少女の姿を見下ろす。
幼い頃から彼に付き従ってきた侍女で、良く喋る活発な娘だった。
国境沿い、帝国領内の村で起きた飢饉の際にガルシアが受け入れた流民だと聞いている。
他人を遠ざける様に生きてきた私にとっても、分け隔てなく接する彼女は人生で初めて出来た友人……だった。
その手を握り、三代国王セシルが悔恨の言葉を吐き出す。
「許してくれ……アレット……」
私はそれを慰めるでも励ますでもなく、ただ傍で見ていた。
男の泣き声と屋根を激しく叩く雨音が混ざり合う。
肌に張り付く濡れた服も相まって、至極不快な気分だった。
事件から一月後。
諜報戦でのガルシアの能力の低さを懸念した私はセシルに進言――多くの人々の助力もあり、情報部の設立に漕ぎ着けることとなった。
更に三代国王自ら、国内のバアル教徒の扱いに関して法を制定することが告げられた。
帝国が歪めた教義を正し、原点に立ち返ることを前提として国内のバアル教の存在を認める事を明文化。
同時にバアル教を含む国内の宗教を理由とした争いには重い罪を課すこととした。
更に帝国のバアル教と国内のものとを区別する為、セシル自ら名を贈る事が決定する。
道の中途で澱んだ教えでも、川の様に澄んだ清らかな水が注ぎ続ければ、やがて浄化され元の流れに還っていく――即ち「還流」と。
「君が良く水を例えに出すから、つい言の葉に昇ってしまったんだが……別に構わないだろう?」
執務を淡々とこなしながら、私に微笑みかける。
まだその笑顔にも陰りは見えるが、事件直後に比べれば幾分かまともになったように見えた。
尤も、仕事に打ち込むことで気を紛らわせていたのは自分も同じだという自覚はある。
「知らないわよ。ただアレットなら……貴方が自分で考えたって言えば、何だって喜んだのではないかしら」
「……!」
少し意地の悪い返答だったかもしれない。
彼女の名を出した途端、仕事の手を止めたセシルはまた目の端に涙を浮かべてしまう。
「男の癖に泣き虫ね」とだけ告げると、私はそのまま執務室を後にした。
それから更に一月後。
ガルシアの揺さぶりに成功したと見た帝国は、大軍を率いてリィス湖近くにあるテセナ山の頂上へと布陣。
対するガルシア軍は、不利を承知でリィス湖近くの平原に布陣した。
相手の水を断つ為という訳でもなく、リィス湖に流れ込む川の内の一つはテセナ山から流れている。
ここを抑えても帝国軍が飲み水に困ることはない。
どころか、こちらに向けて毒を流し込んでくる可能性すらある。
帝国軍は間もなく、逆落としにこちらの軍を攻め立てるだろう。
兵力差はあちらが三に対してこちらは一、といった具合に小細工の必要もないという判断か。
馬上で敵陣を睨みつけていると、馬首を並べて来る影がある。
「サスーリカ……」
「何も不安に思うことはないわ、セシル。ただ貴方は私に命じればいい」
「しかし……君まで失ったら……」
私は言葉を遮る様に、リィス湖を杖で指して見せる。
「ここは私の領域よ。あれだけ豊富な水が在る限り、絶対に負けることはないわ。必ず貴方の元へ帰ってみせる」
絶対。
必ず。
どちらも私が嫌いな言葉だ。
この世は不確かで、五分後の自分がどうなっているかも誰にも分からない。
それでも称号持ちとして。
魔法士隊を率いる者として。
そして、王の側近として退けない時がある。
セシルは弱気な目のままだが、確かに私に向かって頷いて見せた。
悔いが残らないよう、目に焼き付ける。
悪く言えば甘く、どこまでも優しいその姿を。
私に無いものを沢山持った、愛しい人のその姿を……。
「――杖のサスーリカ、参る! 魔法士隊、我に続け!」
戦局が動く。
戦線を押し上げる重装歩兵に続き、馬首を巡らせ魔法士隊と共に前へ。
両軍のぶつかり合いは熾烈を極め、そして――
「っ!? い、今のは……?」
一瞬、自分が何処に居るのか分からなくなる。
座っているのは馬ではなくソファーであり、居る場所は湖付近の平原どころか室内……ルミアさんの部屋だ。
……確かサスーリカさんが私の額に手を当てて、それから……?
「カティア! だ、大事ないか? 意識ははっきりしとるか!?」
「あ、は、はい。大丈夫です、ルミアさ――いたっ、痛いですってば!」
正気を確かめるようにルミアさんが頬をぺしぺしと叩いてくる。
私は、夢でも見ていたのだろうか?
それにしては生々しく、最初の教会で見た遺体の山は特にリアリティが……
(カティア、聞こえるかしら?)
おわっ!? サスーリカさんの声……か?
ど、何処だっ!?
室内を見回すが、姿が見えない。
(聞こえているようね。今の私は、アカネと同じような状態よ)
アカネと……同じ?
その言葉を聞いた途端、身体の中に冷たく澄んだ感触が在る事に気付く。
『理解したようだね。一時的にショック状態に陥ったようだが、どうやら成功した様だ。憑依状態に入った』
「成功……? それにショック状態じゃと!? 何故にリスクを説明してからやらんのじゃ!?」
『仕方がないだろう? どの道、これが失敗すればカティアは死んでしまうのだから。他に手があるのかい?』
「そ……そういう問題ではないのじゃ! どれだけ採った手段が最適であっても、相手の意志を確かめなければ人としての道理に沿わんじゃろうが! お主が仮に医者だったら、相手の了解無しに手術をするのか!? それで助かったとて、万人が納得する訳ではないじゃろう! それに、こやつはそれで逃げ出す様な奴ではないわ!」
『うっ』
ミストラルさんが胸を押さえてよろめいた。
どうしたんだろう?
下を向いて呻く。
『……し、師匠と同じ様な事を言う……。理屈や正しい答えだけで人は動かない。言葉を尽くせ、己の頭だけで完結するな――だったか。結局、死ぬまで――いや、死んでもこの悪癖は直らなかった訳だ……』
「あ、いやその。正直言い過ぎたのじゃ。すまぬ」
『いいんだ……すまなかった。自分だってこんなに打たれ弱い性格なのに、相手の気持ちを慮れないボクが悪いのさ。フフ……フフフフ…………』
「あ、うぅ……。カティア、こういう時はどうしたらいいのじゃ……?」
さ、さあ……? 分かりません。
ミストラルさんはそのまま体育座りでしゃがみこんでしまった。
私の中で水の大精霊が、本日三度目となる大きな溜息を吐いた。