ガルシアの若き才人
「……うん、下がってていいよ。……カティが一緒に居るから……」
「はっ」
とある部屋の前に居た兵士を姫様が下がらせる。
それを見てから私は扉に手を掛けた。
二人で室内に入ると、紙とインクによる独特の臭気が鼻につく。
中の兵も姫様と私の姿を見ると、無言で一礼して部屋から退出した。
「……やっぱりここに居た。カティ、あの子が……」
「カリル殿下、ですか。確かにアラン様に似ておいでですね。私が知っているのは肖像画と代理人格の方のアラン様ですが……」
姫様に連れられ、私がその少年の姿を認めたのは書庫の中だ。
眉間に皺を寄せ、椅子に腰掛けて書物を貪る様に読んでいる。
余程集中しているのか、私達が書庫に入室しても彼は気付いていない。
痩身でやや乱れた長めの茶髪、兄弟の中で最も顔立ちや雰囲気が前王アラン様に似ているが――
「確かに顔色が悪いですね。姫様がご心配されるのも無理からぬことかと……」
「……うん。心配……」
目の下には薄い隈、頬にも赤みが少なく青白いので見た限り健康的とは言い難いだろう。
世間に公表されている情報では、彼は政務に着いていない。
にも関わらず、疲労しているように見えるのには理由がある。
姫様がカリル殿下に近付いて話し掛ける。
「……カリル」
「! あ、姉上……これは失礼を。しかし、何用ですか? 四国会議に関する資料は全て差し上げた筈ですが」
「……姉が弟の顔を見に来ちゃ、いけない……?」
「そ、そんなことは」
書を置いて立ち上がった彼は、姉の前で年相応の照れたような顔を見せた。
資料、と言った言葉通り彼の主な仕事は姉の補佐である。
情報部においても相談役のような形で関わっており、若くして既に政治の一端を担う頭脳の持ち主である。
彼は姉から視線をスライドさせて私を見ると、居住まいを正して口を開いた。
「君は……赤毛、長身、二本の剣……そうか、君がカティアだね?」
「お初にお目に掛かります、殿下。お察しの通り、私はカティア・マイヤーズと申します」
「うん。剣聖の姓を継いでいるんだったね。姉上の護衛、くれぐれも宜しく頼む」
「はい、お任せください」
何とも落ち着いた対応だ……前世の私の十五の頃なんて、遊ぶことしか考えていなかった気がするぞ。
どう育ったらこんな風になるんだろうか?
そんな彼は、少し考えた後に姉であるリリ姫様の方に視線を戻した。
「……姉上。政務を抜け出してこちらにおいでになられましたね?」
「え? 姫様、今は休憩時間だと私に仰いませんでした?」
おかしいな、と思い姫様を見る。
すると彼女は無表情のまま震え出し、暑くもないのにうっすらと汗を流し始めた。
ギシギシと油の切れたロボットの様にぎこちなく首を動かし、こちらを見ようとしない。
休憩時間だから息抜きに付き合ってくれと言われ、一緒に此処に来た訳だが。
「昨日までの政務の進捗状況を考えると、ミディールもキョウカもこんな時間に休憩の許可を出す筈がありません。今日はカティアの担当日では無いので、急に仕事が速くなるということも考えられませんし」
「あの、姫様?」
「…………」
「はぁ。やはりそうですか、姉上」
カリル殿下が嘆息し、姫様が項垂れた。
――全く、この人は……。
一人で部屋を訪ねて来たから妙だと思ったら。
「姫様っ! 姫様ーっ! 何処ですか姫様ー!」
折良く――と言っていいのか分からないが、廊下からキョウカさんの大声が響いた。
私は黙って逃げ出そうとする姫様の首根っこを掴むと、そのまま廊下へと連れて行く。
そのままキョウカさんを呼び止め、姫様を引き渡した。
姫様の姿を見たキョウカさんは一瞬ホッとした顔をしたが、直ぐに目を吊り上げて説教を始めた。
「姫様、どういうおつもりですかカティアさんまで騙して! 大体おかしいと思ったのです、普段から身だしなみに余り気を遣わない姫様が、汗をかいたから着替えたいなどと御自分から! また私室の窓から飛び降りてお逃げになって――聞いているのですか、姫様!」
「……聞いてない。キョウカ、うるさい……早口……」
「なっ!」
……何だな、キョウカさんもホッとした方の気持ちをまず素直に伝えたら、姫様も話を聞くと思うんだけど。
そっぽを向く姫様から視線を離し、キョウカさんは私に向かって頭を下げた。
深い角度でぴたりと止まる、育ちの良さを感じさせる綺麗なお辞儀だ。
細く艶のある黒髪が首筋からはらはらと落ちる。
「カティア殿、申し訳ございません。迂闊にも姫様から目を離してしまい、貴女にまでご迷惑を――」
「いえ、私も姫様の嘘を見抜けなかったので……キョウカさんが傍に居ない時点で気付くべきでした。今後は気を付けます」
護衛二人が揃ってこれでは、スパイクさんだって安心して姫様を任せられないだろう。
キョウカさんは実質的に私の先輩にあたるのだが、決して私を下風に立たせようとはしない。
この態度は闘武会が切っ掛けだと思うのだが、どうも彼女は不器用なのか、姫様との関係は思うようにいっていないらしい。
「さあ姫様。まだ書類は沢山残っていますから」
「……キョウカの言い方、やる気が無くなる……」
「またそんなことをっ……! カティア殿、失礼致します! 行きますよ姫様!」
「は、はい! 姫様、ファイトです」
「……うん……また後で……」
ただ、姫様の側は軽口を叩いて甘えている節もあるので、一概に悪い関係とも言えないのが難しい。
主従二人はそのまま言い合いをしながら執務室に戻っていった。
……後で何か差し入れを持っていくか、キョウカさんの分も持って。
和菓子がいいかな。
和菓子のレシピって何か思い出せるか……?
「――苦労しているようだね」
「……殿下。はい、主にキョウカさんが、ですが」
「あの二人は仲が良いのか悪いのか。まあ、以前とはキョウカの様子が違ってきたようだし、見守るしかないかな。……どうだいカティア、お茶くらいは出すよ。折角来たんだから、少し僕の話し相手にでもなってくれ」
「ありがとうございます」
姫様たちが去ったのを見計らったかのように扉が開き、カリル殿下が顔を出した。
お言葉に甘えて書庫の中へとお邪魔する。
この部屋は書庫とは言っても、室内はまるでカリル殿下の私室のような状態になっている。
本棚に囲まれてこそいるが、中央には十分なスペースが設けられている。
大きなテーブルでは飲食も可能だし、更には簡易ベッドまで置いてあり……一日中籠るには絶好の環境と言えるかもしれない。
さぞかし居心地は良好だろう。
「さて、姉上は何と言って君を此処に連れて来たんだい? 君が自発的に僕に会いたいと言った訳では無いんだろう?」
「良くお分かりになられましたね」
「分かるさ。君は社交的ではあっても積極的じゃない。どちらかというと周囲に合わせたり、流される側の人だと僕は見たのだけれど……違うかい?」
「……合っているかと。完全な自己分析というのは難しいですが」
先程までの短い会話でこれらを推測したのだとしたら、恐ろしい程の洞察力だ。
社交性については分からないが、流され易いというのは合っている気がする。
そんな話をしながら、殿下が手ずから淹れて下さったのは濃い目の紅茶だ。
真っ白なカップから香りと共に湯気が立ち昇る。
「……姫様は、最近カリル殿下のお顔の色が優れないと私に。食が細く覇気もないと仰せになりまして」
「そう。それで君を連れて来るなんて、姉上らしい気の回し方だね。最近か……そうだね、僕は主に四国会議の為に対帝国の資料を纏めたりしていたんだけど、気が付くと夜になっているんだ。不思議だね」
「……」
それ、最近会った代理人格のあの人にそっくりだな。
言葉通りなら、休憩なしで一日中、しかも連日そのペースで資料を作っていたって事になる。
カリル殿下にはアラン様の容姿だけではなく、仕事中毒まで遺伝してしまったのだろうか。
隙あらば休もうとする姫様に対して、殿下は完全に働き過ぎだろう。
その殆どがデスクワークによるものなら、対処法としては……
「運動しようよ!」
「うわあああああああっ!!」
「あ、アカネ!?」
昼寝していた筈のアカネが急に私の中から飛び出し、驚いた殿下が叫び声を上げた。
そのまま椅子ごと仰け反って強かに膝をテーブルに打ち付ける。
その振動で紅茶のカップが引っ繰り返り、中身が周囲に広がって――
「ああ、いけないっ! カティア、資料と本を!」
「はいっ!」
机の上に置かれたままだった資料を急いで掻き集め、本を脇にどける。
殿下がハンカチをこぼれた紅茶に向かって投げつけ、広がらないように吸い取らせていく。
うわぁ、高級そうな白地のハンカチがシミに……! 勿体ない……。
資料の端にも少し色が着いたが、幸いそれ以上の被害は無かった。
「ふう、焦ったよ」
「アカネ……出てくる時は静かに」
「ごめんなさーい」
本当に反省しているのかな……以前ライオルさんにも同じことをやったし、これで二回目だぞ。
故意だとしたら他愛ない悪戯と見逃すべきか、それとももっときちんと叱った方が良いのだろうか?
難しいな……でも、今回は実害が出てしまったからな……後でもう一度、きちんと話しをしておいた方がいいだろう。
それはさておき、殿下には迷惑を掛けてしまったな。
「申し訳ありません、殿下」
「いや、資料も本も無事だったから構わないよ。そういえば君は精霊の友だったね」
精霊の友ね……何とも詩的な表現。
今まで身近には居なかったタイプだな、この少年は。
怒りの沸点も高く理性的なようで、アカネの今の振る舞いに対しても本当に気にしていないように見える。
状況が落ち着いたのを見計らい、アカネが再び手を上げて殿下に提案する。
「何か運動しようよ、カリルくん!」
「……運動?」
「うん! 動かないからお腹が空かないし、血がめぐららい……めぐな……」
「巡らない?」
「そうそれ! めぐらなくて、顔色が悪いんだよ。どう?」
アカネの言葉にカリル殿下が少し嫌そうな顔をした。
出会ってから初めて見せるマイナス寄りの表情だ。
「う、運動などしなくても、僕は頭脳労働をしているから。現に、身体を見ても特段太ってはいないだろう?」
「えー……あっ、分かった! 運動神経が悪いから、やりたくないんでしょ! そんなこと気にしなくても大丈夫だよ」
「――それに、まだ纏める資料も残っているから」
「殿下。姫様は、資料が全部揃ったから殿下は時間が空いているだろうと仰せになって、こちらに来られたのですが」
まあ、姫様自身の時間に余裕が無かったのは大問題だが。
それに殿下が自分でも言ったじゃないか。
四国会議に必要な資料は全て提出したと。
どうやら、こんな簡単な矛盾にも気付かないほど運動したくないらしい。
「……。人には向き不向きがあってだね――」
「やっぱり苦手なだけだよね? じゃあ行こうよ! ゴーゴー!」
「あっ、待っ……! 行ってしまった……」
アカネは中庭目掛けて走って行ってしまった。
あの様子だとニコニコしながら待っているんだろうな……これは私としては裏切れない。
何とかして殿下を連れて行かなければ。
姫様の頼みでもあるし、健康であるに越したことはないからね。
「殿下。アカネの言う通り、運動は体に良いです。単純に頭に血も回りますから、普段のお仕事も捗るかと」
「ああ……そういう理屈は理解しているつもりなんだ。でも、いざ何かしようと思うと億劫で」
「単純な反復運動をこなすと、思考が整理されるのでお勧めです」
「しかし、体が重いんだ、実際に動こうとすると。直ぐに体力が尽きるし、剣術指南役が匙を投げるほどだぞ。僕の体力の少なさは」
「……」
だからこれから動いてバテないようにするんでしょうが!
駄目だ、どうも理詰めでは色よい返事を聞き出せそうもない。
仕方ない、攻め方を変えよう。
「そうですか、残念です。姫様もきっと悲しむでしょうね……」
「え?」
「殿下の体調に改善が見られないとあれば、今日の夕食にでもまた殿下とお会いするでしょうから……」
「カティア、一体君は何を」
「あの澄んだ瞳でじーっと見るんでしょうね。そして殿下にお聞きになるわけです。……ご飯もう良いの? ちゃんと食べないと痩せちゃうよ? と、姫様ならこんな感じでしょうか。少し泣きそうな空気を出しながら、平坦な口調から見え隠れする、それはもう殿下が心配で心配で仕方がないという――」
「や、止めろ! 止めてくれ!」
さっき姫様と話している時の顔を見てもしや、と思ったが彼は姉のことを随分と慕っているようだ。
つまりシスコ……いや、まだ断定は出来ないがとにかく効果ありだ。
でも、まだ意見を変えさせるのには弱いな。
自分の直感――彼が親族の「誰にどのくらい似ているか」を頼りにもう一押し。
「私は、聡明な殿下であれば御理解頂けると信じています。齢十五にして情報部の内情にも通じ、王となった姉を中心となって補佐する我が国屈指の才人であらせられる殿下ならば、如何に御自身の健康状態が大事かということも……」
「くっ……君の魂胆は分かっているぞ! そうやって僕を持ち上げて乗せようという算段だろう!? 生憎だが、僕はそんなに単純な人間じゃない……!」
そうは言いつつも口角がひくひくと動き、上がるのを無理に抑えつけているような不自然な表情になっている。
やはり彼は、アラン様だけでなくスパイクさんにも良く似ている。
理性的な振る舞いや容姿、常の表情こそアラン様にそっくりだが、彼からは何処か独特の人懐っこさを感じる。
これは私が思うに、スパイクさんに通じるものだ。
スパイクさんに似ているという事はつまり……おだてに弱いということになる。
「想像してみて下さい。姫様も鼻が高いことでしょう。ただでさえ賢い弟が、壮健でしっかり傍で支えてくれるとなれば、今よりもずっと安心して政務にお励みになられて――」
「ああああっ! 分かった、分かったからそれ以上は止してくれ! 乗せられてやる、乗せられてやるから! 緩んだ顔が戻らなくなる――くっ、恨みますよ御爺様……」
よっしゃ、勝った!
ニヤニヤと表情を取り繕い切れなくなったカリル殿下は、後ろを向いて両手で解す様に顔を撫でまわした。
どうやら血は争えない、といった様子である。
少し長めの溜息を吐いた後、私の方に向き直った殿下は、出会った時よりも少し赤みが差した顔で口を開いた。
「……やるじゃないか、カティア。僕の性格を読み切った上での良い誘導だった。しかし――後で覚えていたまえよ? このままでは済まさないからね……」
そのまま椅子から立ち上がった殿下は、先程までの顔とは違うニヤリとした顔で私を見る。
どんな仕返しをされるのかは気になったが、殿下がその気になってくれたことは確かなので今は深く考えない事にした。
私は曖昧な笑みを浮かべると、殿下を中庭にお連れすることにした。