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8 『なないろ』を聴きながら

「行ってきま〜す!」


 緑色のジャージを羽織った虹子が、玄関から叫ぶと「行ってらっしゃい。楽しんできて」と陽子の声が返ってきた。日曜日の朝、母の笑顔を描いたような雲ひとつない空に、気分が少し高揚していた。


 虹子は外出する時ほとんどジャージだ。世間一般の女子が好むファッションなどにまるで興味が無い虹子のささやかなこだわりが7つの色を気分で選ぶことだった。この日、緑を選んだ理由は無論、東京シスターズのチームカラーだからだ。


「まっ一応。ねっ」


 JRの王子駅を目指しながら、改めてジャージを見て呟いた虹子は母親のことを思い浮かべる。


 陽子は厳しいこともあるが、虹子の取る選択に反対したり、まして頭ごなしに叱ることはない。ただ、城北ウイングを辞めると虹子が告げた時だけは、母からも女子チームに入ることを勧められて、きつく言い返してしまった。


 それ以来、陽子がサッカーの話題を自分から振ってくることはなくなった。そう言う経緯もあってか、東京ヤングシスターズのセレクションを受けると話した時の母の喜びようには驚かされた。


 あれだけ張り切っていたサッカーをぱったりと辞めてしまったことで、悲しい思いをさせていたことが、今の虹子には痛いほど伝わってきた。


「よし、まずは合格だ!」


 王子から京浜東北線で2駅先の田端を目指す。田端は天気をテーマにしたアニメ映画の聖地だ。


 虹子は母親と一緒にわざわざ南口から出て、高台から映画の主人公と同じ景色を見た。幼少期ではサッカー以外の数少ない記憶の1つだ。


「もう10年になるんだ・・・」


 虹子の誕生日は7月16日で、映画の公開がその3日後だった。母親の洋子が「誕生日プレゼントにこれ連れて行ってあげる」と新聞の広告を見ながらみょうにはしゃいで言っていた。要するに自分が観たかっただけだろう。


 東京でもこの辺が世間で話題になることってそう無いので、今となっては母親の気持ちも分かる。便利だけど特別何も無いこのエリアを虹子が嫌いじゃないのも、あの時に母と見た景色のおかげかもしれない。


 有名バンドが主題歌のロケに使ったとされる線路脇の建物を左手に見上げながら、虹子はカラオケで学校の友達に披露していた歌を消音で口ずさむ。そう言えば雨続きだった天気も、華の記事を読んだ日を境に、梅雨の時期とは思えないほど、わりと晴天に恵まれている。


 田端駅に着くと、南口の”聖地を”横目に階段を上がり、向かい側のホームから新宿方面の山手線の乗り換える。日曜日とあって、平日なら通勤ラッシュの時間帯ながら、車内には空席もあった。


 しかし、虹子は長椅子の端に寄りかかって、お気に入りの曲をワイヤレスのイヤホンで聴きながら、ドアの窓から外を流れていく景色を眺めていた。


 1年前の今頃は高校の新学期もひと段落付いて、クラスや陸上部の新しい友達と少しでも打ち解けるために、無理やり色んなアーティスト、特に興味も無かった男性アイドルグループの曲なんかも覚えた。今じゃ、そうした気力もすっかり無くなり、ここ1年近く音楽もアップデートしていなかった。


 その中で唯一、虹子がお気に入りに追加したのが「ポッピンルージュ」と言う軽ポップバンドの『なないろ』と言う曲だ。もともと好きなグループだった訳ではない。虹を連想させるタイトルと、歌詞に「あたしはあたし」というフレーズがあった。


 自分のことを「あたし」と言ってしまう虹子のテーマソングのようになっていたのだ。ただし、華の記事を目にするまで、その曲を何となく現実逃避に利用していたところがあった。


 セレクションに合格すれば、学校が終わってから1時間かけてグラウンドに行ったり、週末には遠征とかもあるだろう。女子サッカーと言っても全国屈指の東京ヤングシスターズだ。しかも募集が若干名ということで、合格する保証なんて無いのに、根拠の無い自信で皮算用みたいな妄想をしてしまうのは過去の栄光ゆえか。


 もしサッカーを続けていたら、当たり前のようにある日常を虹子は少し面倒そうにイメージながらも、体はワクワクしている不思議な感覚だった。家を出る前はスマホのパズルゲームでもやって時間を潰そうと思っていたが、ついついブックマークしていた華の記事を開いて、真面目で真っ直ぐな彼女のコメントを読み返していた。


 我に返って周囲を見渡すと、青と赤のレプリカユニフォームを着たサッカーファンらしき人が吊り輪を掴んでスマホをいじっている。ブルーレッド東京のエンブレムが胸に付いている。中学の途中まではそれなりにチェックしていたが、現在どうなっているか知ったのはつい1週間ほぼ前だ。


 虹子は新宿駅で山手線を降りて、京王線への乗り換え口に向かった。乗り換えが完了すると、気落ちを高めるために『なないろ』を再生し直す。


 虹子にとっての久しぶりの挑戦の地との距離が近付くに連れて、胸の鼓動が激しくなってきた。もう3年近く無かった感覚だ。慶應稲田堤駅からバスに揺られること数分で、東京ブラザーズと東京シスターズの練習グラウンドに到着した。


 何とか迷わずにたどり着けたが、所要時間は1時間と20分ほど。虹子にはちょっとした旅に感じた。しかし、ホッとしたのも束の間、「TOKYO Brothers」と緑色の文字が入り口に刻まれたクラブハウスが目に飛び込んでくる。これまでの道中とは違った緊張感で、ものをまともに考えられなくなってきた。


 落ち着け、落ち着け・・・と自分に言い聞かせる虹子の視界に入り口の受付が入って我に返った。すぐに手続きを済ませる。女子チーム用のロッカールームを案内されて、着替えるとすぐクラブハウスの外に出る。着替えると言っても、ジャージの上下を脱いで、ハーフパンツを履くだけで、ものの2分と掛からなかった。


 外に出ると、見渡す限り三面のグラウンドがある。奥の方では女子チームらしき選手たちが、高い声を張り上げながらゲーム形式の練習をしているのが見えた。


 セレクションの予定時刻より30分ちょっと前だが、指定されたクラブハウス手前のグラウンドには20人ほどの女子がピッチの外側でストレッチなどをしながら、各々の時間を過ごしている様子だ。


 日本トップの名門女子サッカークラブが、珍しくセレクションをすると凌駕に聞かされた時は何百人の中から一次審査、一次審査とふるい落とされていく流れも想像した。しかし、2日前にセレクションのスケジュール表が送られてきたときに、そんなに大規模の人数にならないことは想定できた。


 やはり選手としての経歴と推薦者の記入が意外とハードルだったのだろうか。未成年で良いのか凌駕に聞いたら「大丈夫だって。ヤングシスターズの部長に伝えておくから」と太鼓判を押していた。特に書類審査に合格しましたとも無くメールで連絡が来たが、古賀凌駕の名前はここでは意外と”黄門様のご印籠”なのかもしれない。


「虹ねえならきっと大丈夫!」


 凌駕の言葉を思い返しながら、虹子は軽く深呼吸を何度かした。何人かのセレクション生に声をかけられたが「よろしく」と言うぐらいで、特に会話は交わさなかった。


 周囲からは「あとでUNITY交換しよ〜」と言ったトークも虹子の耳に入ってきたが、若干名を募集するセレクションで今馴れ合ってもしょうがないと思った。まずは勝ち取らなければ。すべてはそこからだ。


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