五十嵐記念病院35
風を裂く音。
同時に、目に見えない圧力が頬を叩いた。
反射的に首を引くと何かが耳元を通り抜け、背後の壁へ叩きつけられた。
鈍い破裂音。
コンクリートの壁に、バスケットボールほどの穴が穿たれる。
砕けた破片が床を跳ね、粉塵が口の中へ入り込んだ。
「これは警告です」
ビッグマザーは胸の前で両手を組んだまま、微動だにしない。
「次は当てます」
──脅しではなさそうだ。
「……驚きました」
声を低く抑える。
「伊豆子さんのエゴは灯し言のはずですが」
「……そうですね」
ビッグマザーの口元が、くすりと笑った。
「伊豆子のエゴはそうですが、私は伊豆子ではありません」
白いベールが、呼吸に合わせて僅かに膨らむ。
「どうやらエゴとは、肉体ではなく精神に宿るもののようです」
同じ身体を共有していても、別の精神。
ならば、宿るエゴも違う。
初めて伊豆子さんからエゴを受けた時の感覚が蘇る。
消火器を持ち上げた腕から、重さだけが抜け落ちた。
有難迷惑の見えない力を、殴るためではなく、支えるために使ったのか。
昼の伊豆子さんの言葉と口調を借りながら、エゴを疑似的に体験させた。
そしてあの夜、病院の外へ迫ったゾンビの群れを薙ぎ払った奇跡。
あれも、この見えない手によるものだったのだろう。
「無駄な抵抗はやめなさい」
ビッグマザーが両手を解き、こちらへ差し伸べる。
ベールが僅かに揺れた。
「愛を受け入れるのです」
甘く諭すような声が湿った空気へ広がる。
僕は一歩ずつ、後退するように深夜のそばまで下がった。
「あなたの『触れたものの重さを倍にする』程度のエゴでは、決して私に勝つことはできません」
「……そうですね」
ぽつりと呟く。
「確かに、どうすることもできなさそうです」
言い終えると同時に、深夜を抱え床を蹴った。
ベールの下から覗く口元が、僅かに持ち上がる。
最初から、その動きを待っていたように。
「有難迷惑」
囁くような祈り。
次の瞬間、風圧で耳の奥が軋んだ。
床に積もった粉塵が、進行方向へ向かって細く割れる。
小さな瓦礫が跳ね、出口の手前へ一本の線を描いた。
僕自身ではない。
逃げ道を潰すつもりだ。
「一激」
身体の奥で何かが切り替わる。
判断も、反射も、筋肉の動きも、一斉に速度を上げた。
踏み込んだ二歩目が超人的な加速を生み出す。
懐中電灯の光が大きく揺れ、開いた扉を白く切り取った。
背後で空気が爆ぜる。
僕が本来踏み込むはずだった床へ、見えない圧力が叩きつけられていた。
コンクリートが砕け、熱を持った欠片が頬を掠めた。
通路へ飛び出し、その勢いを殺さず階段へ踏み込む。
一段。
二段。
身体を沈め、二段飛ばしで駆け上がる。
深夜の身体が腕の中で小さく揺れた。
頭だけは動かさないよう、胸へ強く抱き込む。
……追ってくる足音はない。
それが、逆に嫌だった。
残された部屋に笑いを含んだ声が落ちる。
「……嘘つきはお互い様でしたか」




