五十嵐記念病院34.5
「……二度目?」
低く問い返すと。
伊豆子さん──いや、目の前の存在は答えず、部屋の隅へ歩み寄った。
そこには埃を避けるように、純白の布が畳まれている。
それを拾い上げると、慣れた手つきで頭から被った。
白い布が髪と顔を覆い、幾重にも重なった布の下から口元だけが覗く。
ベールの縁が白衣へ触れ、湿った部屋に衣擦れの音が落ちた。
「分からないのも無理はありません。あの夜は、伊豆子としてあなたに会いましたからね」
僅かに持ち上がった口元から、笑いを含んだ声が届く。
ビッグマザーは僕を見ず、壁際へ寄り掛かった深夜を見下ろした。
指が、空中を撫でるように動く。
その影が深夜の頬をなぞった。
「──なんて愛おしい」
甘い息を飲み込む音が、ベールの奥から聞こえた。
伊豆子さんの顔と声を使いながら、別の何かが深夜を見ている。
やがてビッグマザーがこちらへ向き直った。
そこで声の調子だけが、不意に昼の伊豆子さんへ戻る。
「あんたは人を助ける方の理屈ばっかり選ぶ。あんたは理屈で人を切っとるんやない。人を切らんために、理屈を使っとるんや」
声だけは屈託なく笑っていた。
けれど、ベールの下から覗く口元には、その声に見合うだけの温度がなかった。
あまりに自然で、だからこそ気味が悪い。
「……すごい演じ分けですね。すっかり騙されました」
ビッグマザーは口元の笑みを崩さない。
「今度勝手にスカウトキャラバンに応募しておきます」
軽口を返しながら、出口を確認する。
ビッグマザーが部屋の隅へ動いたことで、扉までの経路は開いた。
深夜を抱えて横を抜け、長い階段を駆け上がる。
不可能ではない。
しかし、目の前の存在が放つ異質な空気が、その想像を全く肯定してくれない。
思考を巡らせる僕の耳へ、楽しげな声が滑り込んだ。
「ふふっ。演じているわけではありませんよ。私は私。そして伊豆子は伊豆子です」
目の前の女は、一呼吸置いた。
「……解離性同一性障害という言葉をご存じですか?」
まるで、午後の紅茶に添える話題でも口にするような声音だった。
一人の人間の中に、別の人格が存在する。
僕が知っているのは、その程度だ。
「あなたがそうだと?」
「ええ。その通りです」
ベールの下で口元が微笑む。
「ただ、事実として彼女は私の行動を知りませんでした」
ビッグマザーは懐へ手を差し入れた。
取り出したのは、黒曜石のような質感を持つ細長い祈祷具。
以前、伊豆子さんが精神安定剤のようなものだと説明していた特典。
祈語器。
黒い石を撫でる爪の音が、湿った部屋へ細く響く。
「伊豆子は、これを心とマナを安定させるための道具だと信じています」
「違うんですか」
「ええ。本当の能力は──催眠です」
「……催眠?」
「強力なものではありません。存在しない記憶を植えつけたり、本人が到底受け入れられない考えを押し込んだりはできない」
祈語器を指先で弄びながら続ける。
「ですが、心にきっかけさえあれば、誰にでも作用します」
「奇跡に意味があると信じたい者には、信仰を」
「痛みから目を逸らしたい者には、都合の良い解釈を」
「心の奥に存在する願いを喚起し、認知を強める。それが、この祈語器の本当の力です」
口元だけの笑みが、僅かに深くなる。
「人は、信じたいものを信じたいように信じる生き物でしょう?」
その声音に悪意は感じられなかった。
だからといって、善意でもない。
「異世界から帰還して以降、逢魔が時を境に私と伊豆子は入れ替わるようになりました」
ビッグマザーは祈語器を胸元へ掲げる。
「私は伊豆子の記憶を認識できますが、彼女は私の行動を知りません」
「彼女が受け入れたい解釈だけを強め、不都合な記憶から目を逸らさせてきました」
「私が一ノ瀬や枚方へ直接言葉を与えた夜は、彼らの独り言を偶然立ち聞きしたのだと解釈させ」
「秩序を乱すものに裁きを与えた夜は、完全に眠ることで心の平静を保った」
一つひとつ、伊豆子さんへ渡してきた言い訳を並べていく。
「彼女は元々、精神的に脆かった。異世界へ行く前から、抗えないほどのトラウマが根づいていましたから」
ビッグマザーは机の縁へ腰を下ろした。
白いベールの端が膝へ落ち、薄汚れた床との境を作る。
「エゴは、精神状態に強く左右される力です。不安定な心では発動も制御もできない」
「だから彼女には、自分を支えるためのお守りが必要だった」
祈語器を軽く掲げる。
「これは精神を安定させる道具だと信じさせました。心を安定させたいと願っていたのは彼女自身ですから、何の抵抗もなく受け入れた」
「そして信じることで、実際に心は安定した」
深夜がエゴを使えなかった時のことが、脳裏を掠める。
「伊豆子がこれを大切にしていた気持ちは本物ですよ」
ビッグマザーの声が、さらに柔らかくなる。
「信じたかったのです。自分は大丈夫だと」
「その信頼そのものを、私は少しだけ支えてあげたにすぎません」
子どもへ優しい嘘を教える親のような声だった。
それが酷く気味悪い。
「……随分と詳しく教えてくれるんですね」
信仰の根幹を揺るがす仕組み。
隠し続けてきた正体。
それらを明かしても困らない理由が、何かある。
「ただの親切心ではないでしょう」
素直に考えれば、知られたところで殺せばいいということか。
メスを握る指へ、僅かに力を込める。
「そう警戒しないでください」
ビッグマザーが祈語器を懐へ戻した。
「あなたには──神の使徒として、私と共にこの病院を導いていただきたいのです」
眉が僅かに寄る。
「……神の使徒?」
「この三日間、あなたも見たはずです」
ビッグマザーは両手を膝の上へ重ねた。
「信仰を中心に秩序と規律を保ち、子どもたちが笑い、大人たちが祈り、希望を抱いて生きる場所を」
「世界が終わろうとする今、この病院のような場所が、他にどれだけ残っているでしょうか?」
僕は答えなかった。
「人間は、希望がなければ生きられません」
「奇跡を起こし、人々を導き、救う存在。希望の象徴こそが神なのです」
「──作られた神でも?」
ビッグマザーは少しも揺るがない。
「言ったでしょう? 人は信じたいものを信じるのです。作られたかどうかは本質ではありません」
小さく息を吐く。
「……立派な使命ですね。立派すぎて反吐が出ます」
ベールの下の口元が、僅かに止まった。
「あなたの言う救いは、ただの支配にしか見えません」
「祈語器で信仰を誘導し、反抗する人間には罠を仕掛け、信仰を揺るがしかねない深夜を攫った」
「それのどこが救いですか」
ビッグマザーは静かに応じた。
「……必要悪です」
「人が行えば支配ですが、神が行えば試練となる」
一拍の間を置く。
「異世界で力を得た者は、天に選ばれた者です」
「そして奇跡を起こす力を持つあなたには、神の使徒となる資格がある」
白いベールの前で両手を組み、うっとりとした声を漏らす。
「伊豆子の目を通して、初めてあなたが聖水を使うのを見た時……私は胸が高鳴って仕方ありませんでした」
「ああ、私と同じ選ばれし者が、運命に導かれてここへ来たのだと」
「この者を導き、共に奇跡を広めることこそ、私へ与えられた使命なのだと」
その熱とは逆に、頭の奥が冷えていく。
「……盛り上がっているところ、すみませんが」
感情を乗せずに告げる。
「僕は、運命なんて曖昧な言葉に酔うことはできません」
「まして、神なんてものを信じたことも、祈ったこともない」
一度言葉を切って、そしてはっきりと言葉にした。
「控えめに言って、気持ち悪いです」
湿った部屋から音が消えた。
「せっかくのお誘いに恐縮ですが、お断りします」
ビッグマザーは落胆した様子を見せなかった。
口元に慈悲深い笑みを浮かべる。
「──まだ、あなたは迷える子羊なのですね」
その声には怒りも失望もない。
救いを拒んだ者へ向ける、悲しみと憐れみだけが滲んでいた。
「拒絶を、迷いと解釈するのは典型的なメンヘラですよ」
「かのパウロもまた、最初は熱心なキリストの迫害者でした。しかし──彼は天よりの光を受け、三日三晩の断食と盲目の試練を経て、アナニアの祝福により目覚めたのです」
静かな、しかし確信に満ちた口調だった。
「彼は改心し、福音を伝える者となった。後に新約聖書の半分を記した偉大なる聖人──それが聖パウロです」
祈りの言葉が、刃物のように耳へ入ってくる。
「迷える子羊を導くのもまた神の役目。天の光をあなたに与えること──それもまた愛なのです」
ビッグマザーが胸の前で両手を組み、目を閉じた。
まるで……神に祈るように。
「有難迷惑」




