五十嵐記念病院32
ぐにゃり、と椅子の上の肉が揺れた。
西日が窓から差し込み、処置室の隅に細く長い影を伸ばしている。
仰け反るように縛られた枚方の口元には、いまだ薄い笑みの残骸が貼り付いていた。
依代はその姿を一瞥しただけで、バインダーに視線を落とす。
伊豆子が頬杖のまま、短く言った。
「……アレ、ほんまに人間かいな」
トリップ状態の枚方は、目を閉じたまま口の中で何かを呟いている。
鼻をひくつかせ、ときどき「あぁ……ありがたい……」と掠れた声を漏らすたび、内股に脚を擦り合わせてビクついた。
──ハエが、粘つく罠の中で足だけ動かしているみたいだった。
「分量を間違えたのでこのあとどうなるかは知ったこっちゃありません」
「知りませんどころの話ちゃうんや」
僕は立ち上がり、窓辺から外を見下ろした。
「……もうすぐ日が暮れます」
伊豆子さんが顔を上げた。
「深夜が消えてから、ほとんど丸一日か」
「水も与えられず拘束されているなら、体力も精神も限界に近いはずです」
僕は処置台の上に広げていた設計図を揃え、バインダーを閉じた。
「これ以上、病院内を探っている時間はありません。あとは地下へ行くしかない」
バインダーを脇へ抱える。
「たとえ罠でも」
伊豆子さんは黙ったまま頷いた。
「──せやな。待っとっても、あの子は戻ってこおへん」
椅子の上では、枚方さんがまだ荒い息を漏らしている。
僕はその口元へ新しいラップを巻き直した。
「ぅぐ……むぅ……」
「戻るまで静かにしていてください」
返事は求めず、僕たちは処置室を出た。
廊下を進む途中、数人の信者とすれ違った。
伊豆子さんは普段と変わらない顔で軽く手を上げる。僕も歩調を変えなかった。
人影が角の向こうへ消えてから、伊豆子さんが口を開く。
「依代。さっき言うてた、病院を出るって話やけど」
「はい」
「ほんまに出ていくつもりなんか?」
「深夜の件で禁忌を破りました。枚方さんにも、あそこまでしています。さすがにここにはいられません」
脇に抱えたバインダーを持ち直す。
「深夜を助けたら、ハルエちゃんにも病院を出る話をします」
「……そっか」
「せっかく残るように言ってくれたのに、すみません」
「謝ることちゃうよ」
伊豆子さんは小さく笑った。
けれど、こちらを見ようとはしなかった。
「もし、ほんまにビッグマザーが深夜を攫ったんやとしたらな」
声から、少しずつ軽さが消えていく。
「信仰に逆らう人間を殺しとったんやとしたら……この病院は、うちが思っとった場所とは違うもんになりかけとる」
伊豆子さんはしばらく黙り、腕を組んだ。
「でも、まだそうと決まったわけやない」
「はい」
「ビッグマザーの力が、この病院を守っとるんも事実や。あの力がなかったら、ここにおる子らも生き残れへんかった」
一度、短く息を吐く。
「うちは今でも、あんたにはここに残ってほしいと思っとる」
その言葉に迷いはなかった。
けれど、続く声は僅かに揺れた。
「せやからまず、ビッグマザー本人から真意を聞きたい。深夜を連れていったんがほんまにあの人なんか。あの罠も、あの人が用意したんか」
ようやく伊豆子さんがこちらを見る。
「それでも子どもを傷つけるような人間やったら、ここはもう避難所やない。その時は、うちもこれからどうするか考える」
「……伊豆子さんも、一緒に来ませんか」
数歩分の沈黙があった。
「誘ってくれるんは嬉しいよ」
伊豆子さんは前を向いた。
「でも、今はまだ返事できへん。ここにおる子らを置いていくんも嫌やし、この病院がほんまに終わってもうたんかも、まだ分からへんからな」
僕も歩調を落とした。
「そこまで子どもを放っておけないのは、どうしてですか」
伊豆子さんは少しだけ目を細めた。
「……うちが小さい頃に、おとんが出ていってな。それから、おかんが変わってもうたんや」
足音が一つ、階段へ落ちる。
「自分が泣いとった声と、床の冷たさが今でも身体に残っとる」
伊豆子さんは鼻から短く息を漏らした。
「せやから、しんどそうな子を見ると放っとけへんねん。昔の自分と重なってまうから」
「そうだったんですね」
「まあ、昔から子どもには妙に好かれたしな」
伊豆子さんの声に、少しだけ明るさが戻る。
「異世界でもな、輸送キャラバンでユノって子に出会ってん」
その名前を口にした時、伊豆子さんの表情が柔らかくなった。
「うちのこと、いっちゃんって呼んで、よう懐いてくれてな。ほんま、仲良かったんよ」
懐かしむように笑う。
その指先が、無意識に首元の祈語器へ触れた。
「人の生き死にが隣にある世界で、ユノの存在に救われたことが何度あったか」
「良い関係だったんですね」
異なる世界で、文化も死生観も違う中それでも共に過ごせる人がいた。
それはきっと奇跡に近い出来事なのだろう。
その瞬間、ふと皮肉な声が脳裏をよぎる。
「……僕も異世界でお世話になった世捨て人がいたんですが、急な送還で結局挨拶すらできませんでした」
「急やったからなー。うちは最後に挨拶……あれ?」
そこで伊豆子さんは言葉を区切る。
「できたんやったかな。いや……できひんかったんやっけ?」
戸惑う伊豆子さんを尻目に、廊下からは徐々に人の気配が消えていた。
配膳台の車輪も、信者たちの話し声も聞こえない。
「……伊豆子さん」
視線の先には、現在の案内図で外壁として処理されていた区画がある。
旧病院の設計図に記されていた、地下二階への入口だった。
「準備はいいですか」
伊豆子さんは一度瞬きをすると、口角を上げた。
「おやつって、いくらまでやっけ?」
「無事に帰るまでが遠足です」
廊下へ残る光が赤みを増していた。
逢魔が時は近い。
誰もいない処置室へ、夕闇が沈んでいく。
カーテンの隙間から差し込む赤い光が、室内の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
中央の椅子には、拘束された枚方が沈んでいた。
口元はラップで塞がれ、首は力なく前へ垂れている。
乾きかけた汗が、顎から首筋へ光っていた。
ふいに、右手の指が一度動く。
少し間を置いて、もう一度。
汗で濡れた手首が、縄の内側で僅かに捻られた。
折れた爪の先が、椅子の縁で毛羽立った縄へ潜り込む。
ぱちん、と小さな音が鳴り、縄の繊維が一本、切れた。




