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五十嵐記念病院31

「枚方さん。そろそろ起きてください」


椅子へ縛りつけた枚方さんの頬を、ぺちぺちと叩く。


背もたれが、ぎ、と小さく軋んだ。


「ぅう……ぐぅ……むぅ!?」


意識を取り戻した枚方さんが目を見開く。


両手両足を椅子へ縛りつけられ、口元をラップで幾重にも塞がれていれば驚きもするだろう。


鼻だけで繰り返す呼吸が、短く荒い。


口を塞いでいるのは、入口で使ったトラップと同じラップだ。


深夜の家から持ち出しておいてよかった。


勢いをつけずに部屋へ入れば、途中で気づけたかもしれない。


けれど、人が最も無防備になるのは、自分が狙う側だと思っている時だ。


「ぐぅう! むぐくぅ!! むぐぅうう!!」


「何を言っているか分かりませんが、解放しろということならできません。ただ、叫ばないと約束するなら、口のラップは外してあげますよ」


枚方さんの正面へ立ち、その顔を覗き込む。


「ぐぅう……うぐっうぅ……」


状況を理解したのか、枚方さんは唸るのをやめた。


「話の早い方は好きですよ。ラップを外しますね」


念のため右手で準備し、左手でラップをずらす。


その瞬間──


「おいっ!! 誰かぁっ──」


口が自由になった途端、枚方さんが叫んだ。

開いた口に用意していた汚泥ネズミの死骸を押し込み、再びラップで塞ぐ。


「おおおぉぐううう!!? むおおお!! むおおおおおお!!!」


閉じられた口から、入りきらなかった尻尾が僅かに垂れていた。


ラップを何重にも巻いたにもかかわらず、腐臭が一気に漏れ出す。


「一応言っておきますが、飲み込まない方がいいですよ。毒はありませんが、普通に不衛生なのでどうなるか分かりません」


枚方さんの鼻から、ひゅう、と細い音が漏れる。


「逆に、吐くこともおすすめしません。その状態で吐けば、吐瀉物で窒息しますからね」


呼吸と喉の動きを確認しながら、最低限注意してほしいことを伝えておく。


「鬼やな……」


後ろで見ていた伊豆子さんが呟いた。


「ぅふぅうぅ……うぐぅう……ぅふぅ……」


顔中に脂汗が浮かんでいる。


口を塞がれ、鼻で息をするしかない以上、凄まじい臭気を感じているはずだ。


初めて汚泥ネズミの臭いを嗅いだ人間は、それだけで吐くこともあるのにナイスファイトだ。


「さて、枚方さん。もう一度ラップを外しますが、今度は約束を守ってくださいね」


できるだけ刺激しないように笑みを作る。


「守ってもらえない時はもっと強烈なものもあるので」


枚方さんは、あらん限りの力で何度も首を縦に振った。


僕はラップを外し、すぐに死骸を引き抜く。


「ぶはぁっ! おげぇっ、おおえぇえっ!」


枚方さんは大きく前屈し、膝の間から足元へ吐いた。


びちゃ、と湿った音が床へ落ちる。


「ぜぇ、はぁ……くっ……こんなことをして、ただで済むと思って……! くそっ……」


怒りに任せて声を張りかけた枚方さんだったが、僕が右手を僅かに動かすと口を閉じた。


「ありがとうございます。僕としても、手荒に扱いたいわけではないんですよ。素直に話してもらえれば、それでいいんです」


「……い、一体、何を聞きたいと言うんだ……」


「分かっていると思いますが、ビッグマザーのことです」


時間が惜しいので、単刀直入に切り出す。


「……私は何も知らん。そこのクソ女の方が、いろいろ知っているんじゃないのか」


声こそ抑えているが、伊豆子さんを睨みつける視線からは憎悪が漏れていた。


しかし当の伊豆子さんは、その視線を気にする様子もなく、棚へ背を預けている。


「伊豆子さんが知っていることは、だいたい聞きました。僕が知りたいのは、あなたしか知らない情報です」


枚方さんの顔を見据える。


「特に、大事な祈りの最中に、どこで何をしていたのか、とか」


「わ、私は──何も知らん! 何もしてなどいないぞ!」


枚方さんは拘束されたまま顔を真っ赤にした。


「それよりも! マザーの聖域たるこの病院で、幹部である私に手を出すとは何事だ! あまつさえ拘束し、こんな拷問まがいの真似を……天の罰が下るぞ、小僧!」


僕は表情を変えず、その言葉を聞いていた。


「……そうですか。そこまで強い信仰をお持ちとは、敬服します」


ポケットから小さな布袋を取り出す。


黒い布の中から現れたのは、僅かに光沢を持つ肉片だった。


「これは豚頭鬼の熟成レバーといいます。まあ、漢方みたいなものです」


枚方さんの鼻が、ぴくりと動いた。

湿った重さが空気へ混ざり、部屋を占領し始める。


「……な、なんだ、その臭いは……」


「強烈ですよね。これは本来、〇・一グラムを薬液に浸してから濾過し、数十倍に薄めて使用するのが正規の使用方法です」


「用途は──強精剤です。しかも、かなり強力な」


レバーの一片を指先で摘まみ、練り潰していく。


「や、やめろ……な、なにをするつもりだ──!」


「粘膜吸収って知っていますか? 一般的には坐薬が有名ですね。経口摂取の倍は効果があり、即効性も上がるんです」


指先で潰れたレバーが、粘ついた塊へ変わる。


「ちなみに、鼻腔は非常に吸収効率が高いんですよ」


伊豆子さんが顔を背け、指で鼻を摘まんだ。


「うぇっ……薬品臭い酒みたいな臭いやな」


「良薬口に苦しと言いますし」


僕は枚方さんへ歩み寄る。


「や、やめろ、やめ──」


抗議が終わる前に、レバーを枚方さんの鼻の内側へ押し込んだ。


「──ッあ、あぁ……っ!?」


枚方さんの身体が大きく跳ねる。

顔が赤く染まり、一瞬で汗が噴き出した。


呼吸が浅く速くなり、縛られた手足が逃げ場を探すようにもじもじと震える。


「っ、熱い……な、何だ、これは……!」


椅子の上で身を捩り、なんとか刺激から逃れようとする。


「……ちょっと多かったかな」


「絶対料理とかさせたらあかんタイプやな」


枚方さんは全身を震わせ、顔は汗と涙で濡れ、声からは先ほどまでの威圧感が消えている。


「……ふ、ふざけた真似を……貴様ら……ぁふん」


僕は僅かに肩を竦めた。


「まだ話したくありませんか? であれば次は──」


「ひっ! ま、待ってぇ……!」


裂けた声が部屋へ響く。


「わ、私がいなかったのは……じ、自室で、教義の指導をしていたからだ……!」


「誰に?」


一瞬、枚方さんが言葉を詰まらせる。


「し、信仰の薄い信者の一部に……教育だ。私に与えられた教義を、教えてやっていただけで……」


「……教義の指導?」


伊豆子さんの顔から、気怠さが消えた。


「そう言われてみたら、あんたがおらんかった日に見当たらんかった人ら」


枚方さんが目を見開く。


「……全部、若い女の子やったな」


枚方さんの身体が、小刻みに震え始める。


「ち、違う! あれは教育だ! 汚れた肉体を清める、聖なる儀式なのだ!」


唾を飛ばしながら、枚方さんは必死に言葉を重ねる。


「私は教義を、身体に刻んでやっていただけで──っ」


「……あいつらだって、内心では喜んでいたんだ……!」


伊豆子さんの腕が、身体の脇へ落ちた。


「……クズが」


吐き捨てるような声が、静かな部屋へ落ちる。


祈りを抜けていた理由は、ビッグマザーではなかった。


枚方さんは共犯者ではない。


信仰へ寄生し、自分の欲望を満たしていただけだ。


……期待していた答えではない。


それでも、まだ一つ残っている。


「それだけが目的なら、祈りや配給まで毎日管理し続ける理由にはなりません」


枚方さんの汗が、顎先から床へ落ちた。


「人を従わせたいだけなら本当に実務を背負う必要はないでしょう。なぜ、病院全体の秩序を背負ったんです?」


枚方さんの呼吸が僅かにそれまでのリズムからずれ、唾を飲み込む音だけが残った。


「……何かあるんですね」


枚方さんは顔を伏せ、唇を噛み締めた。


前歯が、かち、と硬く鳴る。


「……それは、それだけは……!」


僕が口を開く前に、伊豆子さんが動いた。


「──こいつのちんぽ、切り落とそう」


冗談の温度はなかった。


伊豆子さんが枚方さんの股間を掴み上げた。


枚方さんの身体が跳ね、椅子が激しく軋む。


「ひあああああッ!?」


伊豆子さんが耳元へ顔を寄せる。


「──なんで二つあるか知ってるか? 一つは簡単に潰してもええようにやで」


枚方さんの瞳孔が、大きく開いた。


「わ、分かった! 分かったから、やめてくれ! お願いだ……!」


伊豆子さんが手を離す。


「話してください」


枚方さんの肩が激しく上下する。


「……あれは、最初の奇跡の夜だった」


一瞬のためらいを挟み、言葉を吐き出す。


「私は……ビッグマザーに、お会いした」


僕と伊豆子さんの視線が交わった。


「顔はベールで覆われていた。だが間違いない。同じ声だった。マザーの声だったんだ……!」


枚方さんの瞳が遠くを見た。


「感想はいいので、事実だけ言ってください」


枚方さんの口元が震える。


「……許すと言われたんだ」


「それまで誰にも必要とされなかった私に、あの方は言った。あなたには価値がある。この病院には、あなたが必要だと……!」


枚方さんの顔に恍惚が滲む。


「あの方だけが、私の能力を正しく理解した。病院の規律と秩序を守れと命じられたんだ」


「帳簿を整え、物資を管理し、信者を従わせる。私にしかできない役目だと……!」


荒かった呼吸が、次第に熱を帯びていく。


「私は選ばれた。病院を管理する者として任されたんだ……!」


僕はその熱を受け止めなかった。


「では、なぜそのことを誰にも言わなかったんですか?」


枚方さんの口元が引き攣る。


「……口外してはいけないと言われた。沈黙こそ、選ばれた証だと……」


伊豆子さんが腕を組む。


「……ほな、うちが聞いたのはその時の言葉やったんやな」


「おそらく」


僕は枚方さんを見る。


「ビッグマザーは特定の信者へ直接接触し、個別に使命を与えている」


「一ノ瀬さんも、同じように使命を与えられた可能性があります」


「……あまねも、そうかもしれんな」


「はい。しかし、そうなると全員共犯者とは言えません」


椅子へ縛られた枚方さんへ視線を戻す。


「正体も計画も知らされず、使命だけを与えられた駒です」


「こ、この私が、駒だと……?」


「一ノ瀬さんたちも同じなら、信者同士で情報を共有させず、それぞれに自分だけが選ばれたと思わせていることになります」


枚方さんの顔から、熱が引いていく。


「互いに何も知らなければ、共犯関係は生まれない。裏切って情報を持ち寄ることもできません」


伊豆子さんが短く息を吐いた。


「……ようできた檻やな」


「はい」


ビッグマザーは、人を信仰でまとめているのではない。


一人ずつ孤立させ、自分だけが特別だと思わせたまま動かしている。


僕は地下二階へ続く設計図を思い浮かべた。


少なくとも、背後から共犯者に刺される可能性は下がった。

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