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五十嵐記念病院23

処置室の扉が静かに閉じ、かすかな音を立てる。


薄暗い室内には、未使用の包帯や薬瓶が几帳面に並べられており、長く使われていないのか、白い包装の上へ埃が薄く積もっている。


「一ノ瀬に正面から挑むなんて、無茶を通り越して無謀だぞ」


門脇さんが振り返って話始めた。

一ノ瀬、とはあの男性の名前だろう。


「あいつは元自衛官だ」


「前に一度、外から来た連中が院内で騒ぎを起こしたんだが」


一度、扉の方へ目をやる。


「あいつは数秒で全員制圧した。迷いも、容赦もなかった」


「……なるほど」


掴まれた右手首を軽く回す。


「殺るなら、やっぱり奇襲しかなさそうですね」


門脇さんが目を細め、呆れたような息が鼻から抜ける。


「……物騒過ぎるだろ。お前本当に高校生か?」


視線が僕の手首から、メスを握っていた指先へ移った。


「学生証でも見せましょうか?」


肩をすくめ、本題へ戻る。


「それで、僕が返り討ちにあうのを止めるのが目的じゃないですよね」


門脇さんの性格的にも、昨日ここへ来たばかりの新人がどうなろうと知ったことではないはずだ。


情報を渡してもらうほど恩も売っていない。


「俺はビッグマザーを殺したい」


迷いはなく、低い声だった。


「理由は夕美──俺の恋人が、奇跡の犠牲になったからだ」


その名前を口にした瞬間、門脇さんの視線が僕から外れた。


思い出そうとしたのではない。

忘れられない光景が、勝手に目の前へ戻ってきたように見えた。




「それでさ、先輩がね──」


夕美は焼酎のグラスを片手に、楽しそうに話していた。


笑ったかと思えば、次の瞬間には頬を膨らませる。

顔はすぐ赤くなるくせに飲みたがり、酔えば普段より話が長くなる。


適当に相槌を打ちながら、ときどき話の矛盾へ突っ込みを入れていた。


吉祥寺の街は、いつもと変わらず賑わっている。


昼間から好きな女と酒が飲める。

それだけで楽しい一日だった。


その日常を切り裂くように、店の外で爆発音がした。


腹の底へ響くような音。

それに続いて、窓ガラスが細かく震える。


「……今の、何?」


店内から話し声が消え、グラスの中で氷がカラン、と縁へ当たった。


何人かの客が立ち上がり、外の様子を見に出ていく。


……しばらくすれば、事故か何かだと分かる。


そう思っていたが、外の騒ぎは一向に収まらない。


それどころか、遠くで上がっていた悲鳴が少しずつ近づいてくる。


物が倒れる音。 車のクラクション。 誰かが助けを求める声。


突然店へ駆け込んできた男が、そのまま床へ倒れこむと……背中からおびただしい量の血が流れていた。


「きゃあぁあぁあ!!」


店内は一瞬でパニックになり、慌てて外へ飛び出した時には……手遅れだった。


通りの先で誰かが倒れ、そこへ何かが覆い被さっている。


赤黒く濡れた顔が、喉元へ何度も歯を立てている。


顎が上下し、裂けた肉が歯へ引っかかり、硬いものが砕ける音がした。


血は噴き出す勢いも失い、路面へだらだらと流れており、それが砂と混ざり黒く光る。


「ば、ばけものだぁぁぁあああ!!」


誰かが叫んだ。


走り出す者。 立ち尽くす者。 転んだ人間を踏み越えていく者。


倒れ、そのまま二度と立ち上がらない者。


「に、逃げるぞ!」


急いで夕美の手を掴んで走りだしたが、角を曲がるたび、別の群れが現れた。


路地から。 店の奥から。 倒れた車の陰から。


生きている人間の声が減っていくほど、背後から迫る呻き声が増えていく。


肺が焼け、口の中が乾き、唾が喉へ貼りつく。


「……くそつ! なんだ!? なんなんだよこれっ!?」


あまりの出来事に脳が追いつかない。

口から出てくるのは悪態だけだった。


「門脇君落ち着いて!!」


裏返った声。

震える手。


「大丈夫!……きっと大丈夫だから!」


それでも、握る力だけは緩まなかった。


目の前で人が人ではなくなっていく街を走り抜けていくと、辿り着いたのは五十嵐記念病院だった。


院内は混乱のるつぼ。


血を流す者。 泣き続ける子ども。 玄関へ机や椅子を運ぶ人々。


それでも、外よりはまだマシだった。

壁があり、 扉があり、立ち止まって息を整えられる。


助かった。


ほんの一瞬……そう思ってしまった。


瞬間、風が吹いた。


閉じた病院の中で。

髪が逆立つような圧が、玄関ロビーを横切った。


「……え?」


数秒遅れて、背後から悲鳴が聞こえた。


玄関ガラス扉の向こう。

さっきまで隣にいた夕美が、外の地面へ倒れている。


「夕美!」


迷わず玄関へ走るが、すでに封鎖が始まっていた。


机が押し込まれ、椅子が積み上げられる。


「待て! 開けろ!」


押し返そうとした。

でも、何人もの腕に掴まれ後ろへ引きずられる。


「夕美がまだ外にいるんだ! 開けろッ!」


その刹那、封鎖の隙間から外が見えた。


地面に倒れた夕美へ……死体の群れが殺到している。


無数の腕が身体を押さえつけ、服が裂け、皮膚が引き剥がされる。


夕美は俺を見ていた。

口を開いて、何かを言おうとしていた。


けれど喉を噛み裂かれ、声は出なかった。


「あぁあぁあああっぁああああああ!!!!」


叫び続けた。

何もできないまま、最後まで。




「それが最初の奇跡だったと知ったのは、少し後だ」


処置室の薄闇で、門脇さんの手が一度だけ開き、すぐに握り直される。


拳が白くなるほど力を込めているのに、震えてはいなかった。


「気づいたら、周りの連中は全員泣いてた」


唇が僅かに歪む。


「腰を抜かして、床に座り込んで、手を合わせて……奇跡だって」


僕は何も言わずに聞いた。


「外で倒れて、襲われている人がいるのにもう誰もそっちを見てなかった」


押さえていた怒りが、声の端から滲み出す。


「全員殺してやろうかと思ったよ」


言い切ったあと、門脇さんは目を閉じた。

短く息を吐く。


「……だが、後からそれがビッグマザーとかいうエセ神の仕業だと知って気が変わった」


再び開いた目から、熱が少しだけ引いていた。

代わりに冷たいものが残る。


「だから調べ始めた。ビッグマザーとは何なのか。奇跡は誰が、どうやって起こしてるのか」


一度、言葉を切る。


「だが、調べてる間にも、周りの奴らは変わっていったんだ」


門脇さんの口調から怒りが消えた。


「最初は、ありがたいだった」


一本、指を折る。


「次に、疑うなになり」


もう一本。


「最後は疑う奴が悪いになった」


そして手を下ろした。


「最初は、俺以外にもビッグマザーを探ってる奴がいたんだ。露骨に反抗する奴までな」


「でも、そういう奴はいつの間にか消えた」


「消えた?」


「ビッグマザーを探る者、信仰に従わない者は神隠しに遭って消える。しかも、誰もがそれを仕方ないことだと捉えてやがる」


「信仰に逆らった、和を乱したのだから仕方ないってな。正気とは思えねぇ」


吐き捨てるような声だった。


「だが、俺も復讐も果たせずに消されるわけにいかねぇからな。大っぴらに調べるのはやめたんだ」


「しかし、態度に出てたんだろうな」


口元が歪む。


「気づけば、誰も俺の隣に立たなくなってた。話せる人間一人いない」


最後の言葉に、怒りはなかった。

ただ長く続いた事実を、そこへ置いただけのような。


「ずっと一人だったよ」


処置室へ沈黙が落ちる。

廊下から足音が近づき、扉の前を通り過ぎていった。


その音が完全に消えるまで待ってから、僕は口を開く。


「……門脇さん、性格悪いですもんね」


門脇さんが、ぽかんと僕を見る。

数秒後、堪えきれなかったように吹き出した。


「ははっ……今それ言うか?」


「思っていることを隠せないのは、いいところかもしれません」


「褒められた気がしねえな」


「褒めてはないです」


一度、言葉を切る。


「でも、門脇さんみたいな人が少しくらい報われたらいいなとは思います」


門脇さんの笑みが止まった。

驚いたように僕を見たあと、誤魔化すように鼻を擦る。


「……ありがとな」


「感謝はやめてください。似合わないですよ」


「お前な……」


門脇さんは処置台の端へ腰を下ろし、長く息を吐いた。


張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。


「これで俺がビッグマザーを狙う理由は分かっただろ」


「……ええ。だから、禁忌の間を探ろうとした僕を見て同類だと思ったわけですね」


「そういうことだ。ビッグマザーを探るなら協力関係が築けると思ってな」


「僕の目的はあくまで深夜の失踪にビッグマザーが関わっているかの確認ですが、今の話を聞いてますますビッグマザーの関与は疑わしくなりました」


「あぁ、直接にしろ間接にしろ、この病院で起こることの裏にはまず間違いなく奴がいるはずだ」


門脇さんは難しい顔で顎に指先をあてた。


「それで、門脇さんはどこまでビッグマザーの正体に迫ってるんですか?」


「期待させて悪いが、はっきりしたことは何もわかってねぇ」


「だが、俺はこれまで毎回礼拝に参加してる」


「祈りの間で、声を聞くあれですね」


「ああ」


門脇さんが頷く。


「あの声、そもそも妙だと感じなかったか?」


「妙というと?」


「綺麗すぎるんだよ」


言葉を探すように、顎へ手をやる。


「感情を込めて喋ってる人間の声じゃない。加工された朗読みたいというか……」


「言われてみれば不自然なほど抑揚は整っていましたね」


昨夜、天井から降ってきた声を思い出す。


「それだけじゃねえ」


門脇さんが声を落とした。


「あの声を聞く機会が増えるほど、院内の連中は少しずつ変わっていったんだ。それこそ、最初は半信半疑だった奴まで」


「どのように?」


「最初は、ありがたがってるだけだった。それが次第に崇拝へ変わって、最後には存在そのものへ感謝し始める」


門脇さんは眉間へ皺を寄せる。


「命を助けられたんだから感謝するのは分かる。だが、全員が全員信者になるか? 人間ってのはそんなに単純な生き物だったか?」


昨夜の礼拝堂が浮かぶ。

同じ言葉を唱え、同じ方向へ頭を下げる信者たち。


「信仰というより、刷り込みに近いですね」


「ああ」


門脇さんが短く答えた。


「それと、昨日の奇跡だ」


「ゾンビの群れを吹き飛ばしたものですね」


「ああいうの、昨日が初めてだと思うか?」


「違うんですか?」


「あれで三度目だ」


門脇さんは処置台から立ち上がる。


「状況は毎回違う。だが、共通してることが二つある」


人差し指を立てた。


「一つは、ゾンビの脅威から救われること」


二本目の指を立てる。


「もう一つは、あまねが祈りの場を開くことだ」


昨日の出来事を頭の中で並べ直す。


狩猟班の帰還。

群れが近づいているという報告。

院内の人間を礼拝堂へ集める、あまねさん。


「マッチポンプですか……?」


「そこまでは分からねえ」


門脇さんは首を振る。


「だが、奇跡を見せるために状況を利用してるのは間違いない」


「礼拝の間は、院内の人間がほとんど集められるんですよね」


「ああ。幹部も含めてな」


門脇さんの目が細くなる。


「だが、本当に全員が揃ったことは一度もない」


僕は口を挟まず、先を待った。


「例外的にあまねは毎回いる。礼拝を仕切る側だから当然だ」


壁際へ歩き、さらに声を落とす。


「逆に一ノ瀬は、最初と最後に顔を出すだけだ。奇跡が起きる時に必ず消えてる」


門脇さんが頷く。


「ほかにもいなかった奴がいる。枚方が消えてた時もあったし、その時は一般信者も何人かいなかった」


「確認していたんですか」


「毎回な」


即答だった。


「誰がいて、誰がいなかったか。できる限り覚えてる。間違いねえ」


「……信仰にとって最も重要な場を欠席する理由があるとすれば」


「現場にいたからかもな」


門脇さんが答えた。


「あの奇跡を起こす側として」


「奇跡には院内の人間が関わっている、と」


「あくまで推測だ」


門脇さんは否定しなかった。


「ほかにも、誰にも姿を見られていない第三者がいる可能性は高い」


「そんな人間がいるとすれば……」


「居場所の候補は一つしかねぇ」


そう言って門脇さんは唇の端を歪めた。


「一ノ瀬がいる限りあそこには近づけねえ」


「それでも、いずれ俺は一人でも行くつもりだったがな」


「突破する方法があるんですか?」


「ねえよ」


即答だった。


「手段がねぇことはやらねぇ理由にならねぇだろ」


そういって僕を見る。


「だが、そこへお前が来た」


口元が僅かに持ち上がる。


「二人で協力すれば、少しは可能性が見えてくるだろ」


僕は返事をしなかった。


「……協力する前に一つ、確認してもいいですか」


「なんだ」


「禁忌の間でビッグマザーを見つけても、深夜の安全を確認するまで手を出さないと約束できますか」


門脇さんの表情から、薄い笑みが消えた。


「ガキを巻き込むつもりはねえ」


「質問への答えになっていません」


門脇さんが黙る。


「ビッグマザーしか、深夜の居場所を知らないかもしれません」


僕は続ける。


「先に殺せば、深夜を助ける手段まで失うかもしれない」


「分かってる」


「では、約束できますか」


門脇さんは目を逸らさなかった。

長い沈黙のあと、低く答える。


「……絶対に止まれるとは言えねえ」


正直な返答だ。

だからこそ危うい。


僕は門脇さんの顔を見た。


この人の情報は、もう必要ない。

同行を断ることもできる。


けれど、断ったところで止まる人ではないというのもわかった。


僕が一人で禁忌の間へ向かえば、門脇さんも別の方法で動く。


先に一ノ瀬へ接触し、騒ぎを起こされれば、禁忌の間へ近づく機会そのものが失われかねない。


一緒に行けば、深夜の安全を確認する前に復讐へ動く可能性がある。


放置することも、信用することもできない。


「……もう一人、話に加えます」


門脇さんの眉が寄る。


「誰だ」


「伊豆子さんです」


その名前を聞いた瞬間、門脇さんの顔が険しくなった。


「正気か?」


声が一段低くなる。


「あいつは信仰側だぞ」


「その可能性はあります」


「可能性どころじゃねえ」


門脇さんが処置台から立ち上がった。


「あいつはビッグマザーに近い人間かもしれねえ。下手すりゃ、神隠しをやってる側だぞ!?」


「否定はできません」


「だったら」


「だからです」


門脇さんが、意味が分からないという顔で僕を見る。


「伊豆子さんを信用しているわけではありません」


「なおさら意味がわからん」


「信用できないまま、背後に置いておく方が危険です」


門脇さんの口が止まった。


「伊豆子さんは、深夜が消えたことを知っています。今も院内を探してくれています」


僕は続ける。


「僕たちが何も伝えずに動いても、いずれ同じ場所へ辿り着く可能性があります」


「だからって、禁忌に踏み込むことまで話すのか」


「最初からすべて話すつもりはありません」


「深夜がエゴを使った直後に消えたこと。ビッグマザーにとって、深夜の存在が不都合だった可能性があること」


門脇さんの目が細くなる。


「反応を見るつもりか」


「はい」


昨夜、伊豆子さんは言った。


子どもたちを救いたいと。


あれが本心なら、深夜が消えた原因を是が非でも確かめようとするはず。


あれが嘘なら。

ビッグマザーの関与を口にした時点で、何かしらの反応が出る。


「伊豆子さんが、深夜とビッグマザーのどちらを優先する人なのか確かめます」


門脇さんは険しい顔のまま、僕を見ていた。


「伊豆子さんがビッグマザー側なら、僕たちの動きを止めようとするでしょう」


「止められたらどうする」


「その時は……」

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