五十嵐記念病院3
「なんや! 弟ちゃうんかい!」
看護服の女性は、話しながらもてきぱきと手を動かした。
僕たちの腕や首元を確かめ、噛み跡がないかを調べる。そのまま消毒綿を開き、深夜の額の擦り傷へ当てた。
手当てを受けながら、ここへ来るまでの経緯を簡単に話した。
「あんな大事そうに背負ってくるから、てっきり兄弟や思ったわ! はっはっはっ!」
豪快に笑いながら、彼女は深夜の額を手際よく拭いていく。
深夜はむっとして唇を尖らせたまま、ちらりと僕を見てから視線を落とした。
「……お兄ちゃんみたいなもんだよ」
「ほぉ〜? ゆきずりの関係の割に随分懐かれとるなぁ。ほんならウチのことはお姉ちゃんって呼び!」
わしわしと乱暴に頭を撫でられ、深夜は無言で顔を背けた。
「元気やなぁ! せや、自己紹介まだやったな!」
彼女は自分の胸を親指で指した。
「ウチは放出伊豆子や。放出って書いて、はなてん。珍しいやろ?」
「放出さん。……改めて、助けていただきありがとうございます」
僕がぎこちなく言うと、伊豆子さんは顔を近づけて覗き込んだ。
「伊豆子でええで! 見ての通り白衣の天使やで! 何を警戒することがあんねん!」
「人を見た目で判断しない世代なんです」
「それ悪い意味で使うことあんねや」
伊豆子さんは、はっはっは、と喉を鳴らす。
「まあ、こんな世の中じゃ仕方ないか!」
そして、廊下の奥を親指で示した。
「ここは地域の避難所でな。中は安全や。生き残りもぎょうさんおる。みんなに会えば、君もそんな警戒せんでええことが分かるわ!」
「はぁ」と短く応え、渡り廊下の先へ目を向けた。
「お母ちゃん、ここにおったらええな」
伊豆子さんが深夜に笑いかける。横顔から覗く八重歯が印象的だった。
深夜は目を逸らしながらも、ほんの少しだけ頷いたように見えた。
「さ、こっちやで。そんな広い病院でもないし、すぐや」
くるりと方向を変え、伊豆子さんが歩き出す。
僕も一歩遅れてついていこうとした時、不意に深夜が左手を握った。
その手は、まだ小さく震えている。
「依代兄ちゃん……さっきは……ごめんなさい……」
顔を伏せたまま、声も小さかった。
「……うん。謝らなくていいよ。初めてだったんだ。仕方ないよ」
しかし、深夜は首を振った。
「仕方なくない。……僕、分かってたんだ。出さなきゃって」
唇が震える。
「なのに……動けなかった。肝心なところで、また……逃げた」
深夜の視線は床へ落ちたまま動かない。
「……外に出るって決めたのに。怖くても、やるって……決めたのに……結局また、逃げた」
「……こんな僕だから嫌いになったんだ。会えても……『いらない』って言われるよ」
僕は、握られた左手を見下ろす。
「まだ会ってもいないのに、お母さんの言葉まで決めるのは早いよ」
深夜が、ゆっくりと顔を上げる。
「でも……きっと、そう言う」
「それは深夜の言葉だよ。お母さんの言葉じゃない」
深夜の唇が震えた。
「今日、動けなかったのは本当だよ」
握られた手に、少しだけ力を返す。
「でも、動けなかったことと、逃げたことは同じじゃない」
「深夜は僕の手を握った。怖くても、そのまま一緒に走った」
「それに、家を出たことまで嘘になったわけじゃない。深夜は自分で外に出ると決めて、ここまで歩いてきた」
「でも……肝心な時に、できなかった」
「……うん」
深夜の指が、僕の手を強く握る。
「だから、ここで終わりにしなければいい。生きてさえいれば次の機会がある。その時に、もう一度やってみよう」
「また……動けなかったら……?」
「その時も、僕が手を伸ばすよ」
「何回も……?」
「何回でも」
深夜は俯いたまま、鼻をすすった。
その時、廊下の先から伊豆子さんの声が飛んできた。
「置いてくでーーー!?」
深夜がはっと顔を上げる。
僕の手を離し、袖で乱暴に顔を拭った。
「……行こう、依代兄ちゃん」
小さな背中が走り出す。
伊豆子さんが振り返ってにやついた。
「なんやぁ? 泣いとったんかぁ? 寂しいんなら、お姉ちゃんのおっぱい吸うとくか?」
深夜が顔を真っ赤にする。
「いらないよ! そんな貧乳!」
深夜は耳まで赤くしたまま伊豆子さんを追い越し、ずんずん先へ進んでいく。
「誰が貧乳や! ってかあんた、どこ行くか知らんやろ! お〜い!!」




