五十嵐記念病院2
僕の指は考えるより先に動いていた。
指輪へ触れると、掌へ聖水の小瓶が転がり落ちる。
その瞬間、深夜の視線の先、駐車場に並んだ車の隙間で幾つもの影が蠢いた。
靴底がアスファルトを擦る。
爪が車体を引っ掻く。
腐った喉の奥で、湿った息が鳴る。
そのすべてに混じり、カチ、カチ、と歯の噛み合う音がやけに近く聞こえた。
「う、わぁ……っ」
深夜の声は、声になりきらなかった。
目を大きく見開いたまま動かない。
浅い呼吸だけが、異様な速さで繰り返されていた。
「深夜、手を! 逃げるよ!」
駆け寄り、深夜の手を掴む。
皮膚は冷たく、薄く汗が張りついていた。
深夜の指が、かすかに僕の手を握り返す。
そのまま走り出した。
だが、深夜の足取りは重い。
足裏が地面へ張りついたように、深夜の身体が前へ進まない。
建物の角を曲がった直後、正面へ影が飛び出した。
迷わず小瓶を投げつける。
ガシャンッ。
ガラスの砕ける音に続き、ジュウ、と濡れた肉を焼く音が響いた。
消毒液に似た刺激臭へ、焦げた肉の臭いが混ざる。
胸元を焼かれ、白い煙を上げながらも、そいつは叫び声一つ漏らさない。
僕たちはその脇をすり抜けた。
繋いだ手が、はっきりと震えている。
「深夜、前だけ見て!」
病院の側面を駆けながら、窓と扉を目で追う。
窓という窓には板が打ちつけられ、扉もすべて塞がれている。
背後で幾つもの足音と呻き声が重なり、急速に距離を詰めてくる。
振り返りそうになる衝動を押し殺し、さらに病院の角を曲がった。
「……っ」
裏口が見えた。
ドアノブへ飛びつき、回す。
引く。
が、開かない。
「鍵か……っ」
自分の呼吸が耳元でうるさい。
視線を上げると建物の反対側の角からも、大量の影が溢れ出していた。
挟まれた。
深夜はその場へうずくまり、目を閉じて両耳を塞いでいた。
「深夜!」
肩へ手を置く。
「深夜、僕を見て」
深夜の睫毛が震える。
けれど、視線は上がらない。
息を吸おうとしているのに、喉の奥で引っかかっている。
「ご、ごめ……依代兄ちゃ……」
「……大丈夫だよ」
小さく告げてから、声を張り上げた。
「一激!」
深夜の腕を首へ回し、その身体を背負う。
迫る足音が、もうすぐそこまで来ていた。
どこまで行けるかわからないけど、このまま振り切る。
病院へ背を向け、地面を蹴ろうとした。
その時。
「こっちや!!」
頭上から、場違いなほど明るい声が降ってきた。
見上げると、三階の窓が半分ほど開き、そこから白い何かが放り出された。
病院のカーテンを何枚も結び合わせた、即席のロープだ。
先端が、裏口のドアの上まで垂れ下がる。
「はよ! 掴み!」
窓枠から上半身を乗り出し、女性が叫んでいた。
迷っている時間はない。
「深夜、しっかり掴まって!」
ドアから数メートル離れ、垂れ下がったカーテンへ向き直る。
背後で、何十もの腐った喉が一斉に開いた。
「ヴァアアアアアアッ!!」
伸ばされた指が、深夜の後ろ髪を掠める。
同時に地面を蹴った。
ドアノブへ片足を掛け、そのまま一気に跳ぶ。
バキッ!
足元でドアノブが折れる。
宙へ投げ出された身体を伸ばし、垂れ下がったカーテンを掴んだ。
余った布を腕へ巻きつける。
直後、真下でゾンビが壁へ激突した。
鈍い音とともに腐った肉が潰れ、黒い血が外壁へ飛び散る。
「……っ」
カーテンを支えに、壁へ靴底を押しつける。
一歩。
もう一歩。
背中の深夜が震え、体重が揺れるたびに、結び合わされた布が軋んだ。
縫い目が裂ける音。
カーテンレールが金属音を上げる。
「あと、ちょい!」
女性がさらに身を乗り出し、こちらへ腕を伸ばす。
その手が僕の襟を掴んだ。
「ほら、来い!」
乱暴な力で引き上げられる。
窓枠を越え、深夜を背負ったまま室内へ転がり込んだ。
直後、カーテンレールから金具が弾け飛び、床へぱらぱらと降り注ぐ。
頬に触れた床は、冷たいリノリウムだった。
鼻を刺す消毒液の臭い。
深夜を背中から降ろすと、その場へへたり込み、肩を上下させながら必死に息を吸っていた。
僕も喉が焼けるように痛い。
一激を解いた途端、走り続けた疲労が脚へ戻り、膝が大きく揺れた。
「はっはっは! 大丈夫かいな!?」
女性が高らかに笑う。
「……助かりました。ありがとうございます」
息を整えながら頭を下げる。
女性は肩をすくめた。
「どーいたまして!」
にかっと歯を見せる。
その笑顔を残したまま、声だけが僅かに低くなった。
「まあ……ほんまに助かったんかどうかは、分からんけどな」
女性は乾いた笑いを喉の奥に残しながら、両手を広げた。
「ようこそ──五十嵐記念病院へ」




