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男の子

深夜は俯いたまま、乾パンの袋を握り締めていた。


「深夜」


僕は閉め切られたカーテンへ目を向けた。


「今、外には人を襲うものがいる」


袋を弄っていた指が止まる。


「人を……襲う?」


「噛まれた人も、同じものになる。ゾンビって言えば、分かるかな」


深夜は数秒、何も言わなかった。

それから、引き攣るように口元を緩めた。


「……何それ」


「漫画じゃないんだから」


深夜の目が、閉ざされたカーテンへ向く。


厚い布の裾には埃が溜まり、床との境目に灰色の線ができていた。


長い間、動かされた跡がない。


僕は立ち上がり、カーテンの端へ指を掛けた。


深夜の肩が小さく跳ねる。


「見る?」


深夜はカーテンを見つめたまま、しばらく動かなかった。


やがて、小さく頷く。


指一本分だけ隙間を作った。


深夜は恐る恐る椅子から立ち上がり、前髪の隙間から窓の向こうを見た。


道路の中央を、一人の男が歩いている。


左腕は肩から失われ、破れた袖の奥から白い骨が突き出していた。


顎の半分は砕け、片方の足を引きずるたび、アスファルトに黒ずんだ血の筋が伸びていく。


人だったものが、何かの気配を探すように首を揺らす。


「ひっ……」


深夜の顔が引き攣った。


両手で口元を押さえたまま、呼吸だけが浅く速くなっていく。


僕はすぐにカーテンを閉めた。


光が消え、部屋が元の薄暗さへ戻る。


「ここだけじゃない。報道では、国外でも同じことが起きてた」


深夜の視線がゆっくりと持ち上がった。


細い息が指の隙間から抜けていく。


「じゃあ……」


唇が震える。


「お母さんは……?」


深夜は母親と二人暮らしだった。


父親とは幼い頃に別れて以来、一度も会っていないらしい。


家族三人で笑い合った記憶はなく、父親と離れて暮らすと決まった日も、もう喧嘩を見なくて済むと、それだけを思ったそうだ。


「お父さんがいなくなってから、お母さん、すごく仕事を頑張って……どんどん偉くなって……」


「帰ってこない日が増えたんだ」


深夜の目が、部屋の片隅に掛けられたカレンダーへ吸い寄せられる。


母親が帰ってこなかった日付の下に、小さな×が三つ並んでいた。


「だから、今回も仕事だと思ってた。いつもみたいに、そのうち帰ってくるって」


深夜の目が、カーテンへ戻る。


その向こうに、先ほど見たものがまだ立っているように。


「もしかしたら……あれに襲われたのかもしれない。噛まれて……お母さんも、あんなふうになってたら……」


最後まで言えず、深夜は口元を押さえた。


「……でも」


深夜が床へ目を落とす。


「もしかしたら……」


プロテインバーや栄養食の空袋が、床に散らばっていた。


「僕に会いたくなくて、帰ってこないのかもしれない」


「……どうして、そう思うの?」


深夜は膝の上で両手の指を絡めた。


「学校に行けなくなってから、僕、お母さんの顔を見るのが怖くなったんだ」


指が、ほどけない結び目のように絡み合う。


深夜の視線が、閉じられた部屋の扉へ向く。


「お母さん、どれだけ疲れて帰ってきても、必ず僕の部屋の前まで来てくれた」


「起きてる? ご飯作るよって」


声が、わずかに震えた。


「今日は返事をしようって、いつも思ってたんだ」


深夜の指に力が入る。


「でも、足音が部屋の前で止まると……声が出なくなって」


「しばらくすると、ご飯を置く音がするんだ」


深夜は耳を澄ませるように顔を傾けた。


「そのあと、足音が遠くなって……寝室のドアが閉まる音がする」


声をかける母親と、聞こえないふりをする深夜。


扉一枚を挟んだまま、そのやり取りだけが何度も繰り返された。


「お母さんが寝てから、ドアを開けた」


「ご飯は冷たくなってて」


深夜の手が、さらに強く絡み合う。


「電子レンジを使ったら起こしちゃうから……そのまま食べた」


「……本当は、ありがとうって言いたかった」


深夜の声が掠れる。


「ごめんなさいって言おうとも思ってた」


「でも、家ですれ違いそうになると部屋に逃げて……」


前髪が落ち、表情を覆う。


「最後にちゃんとお母さんの顔を見たのが、いつだったのかも思い出せない」


深夜の目から雫が落ちた。

パジャマの膝に、小さな濃い点ができる。


「僕なんて、いない方がいいって思った」


息を吸うたび、細い胸が震えていた。


「お母さんも、本当はそう思ってたんだよ」


「だから、無事でも……僕に会いたくなくて帰ってこないんだ」


「帰ってきてほしくない?」


「違う!」


顔が跳ね上がった。

今までの小さな声とは違う。


反射的に飛び出した、強い否定だった。


深夜自身も驚いたように目を見開き、すぐに俯く。


「……違う。帰ってきてほしい」


唇が何度か動く。


「会いたい」


絞り出したあと、深夜は首を振る。


「でも……会いたくない」


頭を抱え、椅子の上で小さくうずくまる。


「……お母さんを探しに行こうか」


深夜の身体がびくりと跳ねた。


「外に……?」


「うん」


「あんなのがいるのに?」


カーテンへ向けられた目が、恐怖に引き攣る。


「外に出たら、死ぬかもしれないじゃん」


「そうだね」


深夜の顔がさらに強張った。


「でも、この部屋に残り続けることもできない。食べ物も水も、いつかなくなる」


「……じゃあ、どうすれば」


「僕と一緒に、お母さんを探しに行こう」


深夜は椅子の脚を掴んだ。


指先が白くなるほど、強く。


「簡単に言わないでよ」


「僕の気持ちなんて分からないでしょ」


「外に出るのも怖いんだよ」


声が一気に大きくなる。


「お母さんに会えたとしても、嫌いだって言われたらどうするの!?」


「もういらないって言われたら……!?」


一息に吐き出した声は、最後には泣き声へ変わっていた。


そんなことない。


きっと待ってる。


嫌いなわけがない。


そんな保証のない言葉で、今だけ深夜を落ち着かせることもできた。


けれど、それでは深夜が作った答えを、別の答えで塗り潰すだけだ。


「……深夜の好きなヒーローは、強かった?」


突然の質問に、深夜が目を瞬かせる。


「……弱いよ」


「負けないヒーローだった?」


深夜は小さく首を振った。


「何度も負けてた」


「戦うたびに怪我して……全然、格好よく勝てなくて」


「それでも、ヒーローだったのはどうして?」


深夜の口が止まる。


「……逃げなかったから」


かすかな声だった。


「深夜がボクくんを好きなのは、深夜も逃げたくないからだと思う」


深夜の目から、もう一粒涙が落ちた。


「でも、僕はずっと逃げてたから」


「お母さんからも……学校からも」


「うん」


「逃げたことは、逃げなかったことにはできない」


深夜の顔が歪んだ。


絡めていた指が、痛みに耐えるように強く握られる。


「でも、次は分からない」


深夜がゆっくりと顔を上げた。


「お母さんが何を思っているかは、お母さんにしか分からない」


深夜の肩が小さく強張る。


「でも、会いに行くかどうかは、深夜が決められる」


一度、息を置いた。


「言えるうちに言った方がいい」


思っていたより、低い声が出た。


「言えなくなってからじゃ、遅いから」


濡れた瞳が、再びこちらを向く。


「正しい方なんて、僕にも分からない」


一度、言葉を切った。


「だから、怖くない方じゃなくて、深夜が望んだ方を選べばいい」


深夜の唇が震える。


何かを言おうとして、口を閉じた。


握り締めていた手が、ゆっくりと開いていく。


「……怖い」


「うん」


「外に出て、またあんなのを見たら……動けなくなるかもしれない」


「うん」


「お母さんに会えても、また何も言えないかもしれない」


「うん」


「また逃げるかもしれないよ」


「うん」


深夜の喉が小さく鳴った。


「……依代、兄ちゃん」


呼び方には、まだ迷いがあった。


親しさというより、頼っていい相手なのかを確かめる響きだ。


「一緒に、来てくれる?」


「もちろんだよ」


深夜の表情が、ほんの少しだけ緩む。


「僕は一緒に行く。でも、決めるのは深夜だ」


その言葉に、深夜は唇を結んだ。


膝の上に置いた手を見つめ、何度も浅く息を繰り返す。


それから、顔を上げた。


「……会いたい」


声が震える。


それでも、今度は途切れなかった。


「お母さんに会いたい」


「ちゃんと、謝りたい」


涙でぐしゃぐしゃのまま、それでも深夜は顔を上げていた。


深夜は椅子から立ち上がり、倒れ込むように僕の胸へ額を押しつけた。


両手が宙に残る。

深夜の肩が、胸元で小さく震えている。


少し遅れて、その背中へ腕を回す。

深夜は声を押し殺しながら、何度も、何度も頷いた。

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