男の子
深夜は母親と二人暮らしだった。
父親とは小さい頃に別れてから一度も会っていないらしい。
家族三人で笑い合った記憶はなく、父と離れて暮らすと決まった日も──「もう喧嘩を見なくて済む」とだけ思ったそうだ。
「お父さんがいなくなってから、お母さんすごく頑張って……どんどん偉くなって……帰ってこない日が増えたんだ。だから今回もそうだと思ってたんだけど……」
深夜の目が、部屋の片隅のカレンダーへ吸い寄せられる。
日付には小さく×が書いてあり、その連続が五日目になっていた。
×は几帳面に揃っているのに、最後の一つだけ妙に強く押されていて、紙がほんの少し毛羽立っている。
「最初は家政婦さんが作り置きしてくれてたご飯を食べてたんだけど、いつもの日にその人も来なくて……」
深夜はそこで、言葉を一度噛んだ。
次に出てきたのは説明じゃなく、喉の奥の乾いた音だった。
「……冷蔵庫、開けたくなくてさ」
そう言いながら、ちらりと床に目を落とす。
プロテインバーや栄養食の袋が散らばっている。
中身はもうないのに、袋だけが軽くてやけに目立つ。
「そうか。一人で辛かったね」
依代の声は淡々としている。
優しくしようとしていないぶん、嘘がない。
深夜は頷いた……ようにも見えた。
ただ、前髪が落ちて、表情がよく見えない。
「……違う。辛かったのは僕じゃない」
少しの間のあと、ポツリと零すようにつぶやく。
「……ずっと辛かったのはお母さんの方だった。僕が見ないふりしてた分だけ。帰ってきても誰も迎えない家にお母さんは帰ってこなきゃいけなくて。お母さんは……もっと長い間……ずっと一人だったんだから」
そこまで言って、深夜は口を閉じた。
そのまま両手の指を、膝の上で絡め直す。ほどけない結び目みたいに。
「……わかってたんだ。それなのに……」
言葉が滑らかに出てこない。
思い出を語るというより、責める言葉を一つずつ拾って並べている感じだった。
「……たまに家ですれ違いそうになると、逃げるみたいに部屋に戻って……」
深夜の肩が、ほんの少しだけすくむ。
怖いのは母親じゃなく、自分が何も言えないことの方だったのかもしれない。
「『ごはんだよ』って言われても……返事しなかった。……聞こえないふり、した」
そこで深夜は一度だけ唇を歪めた。
笑おうとしたのではなく、痛みを誤魔化す癖が勝手に出た。
「最後にちゃんとお母さんの顔を見たのが、いつだったかも思い出せない」
声が小さくなる。
小さくなるほど、逃げ道がなくなっていくことにも気づかずに。
「……迷惑ばっかりかけた。死にたいって何度も思った」
深夜は言い切ってから、すぐに首を横に振った。
取り消すのではなく、自分で自分を止めるみたいに。
「……でも、死ねなかった。怖いとかじゃなくて……多分、ずるいだけで」
言葉の端が震える。
震えを見せたくなくて、深夜は顔をさらに伏せる。髪がカーテンみたいに落ちた。
「……きっと、お母さんも……僕なんて、いない方がいいって……そう思ってたんだろうな」
言いながら、深夜は依代を見ない。
依代の反応で、自分の言葉が確定してしまうのが怖いからだ。
「だから──だから、帰ってこないんだっ」
最後の一息が、息にならなかった。
深夜の目の端に溜まったものが落ちて、パジャマの膝に小さな濃い点を作った。
依代は少し黙った。
慰めの言葉を探しているわけじゃない。慰めが「正しい」と思えないだけだ。
依代は、深夜へ半歩寄る。
それから、あえて軽く言う。
「……お母さんを、探しに行こうか」
深夜の身体がびくりと跳ねた。
拒絶ではなく、驚きで。次に来る痛みを予測した反射で。
「……え?」
「だって、帰ってこないんだろ。だったら迎えに行こう」
深夜はすぐに首を振る。
首を振りながら、椅子の脚を手で掴む。指先が白くなるほど。
「無理だよ……。僕が行ったって、迷惑なだけだよ……。きっと、もう……僕のこと、嫌いなんだ」
言い切ったあと、深夜は依代を見た。
見た、というより確認した。
今言った言葉を、この人は笑うのか、否定するのか。
依代は「違う」と言わない。
そんな保証を依代は持っていない。
「……そうかもしれない。けど、そうじゃないかもしれない。深夜は、まだ聞いてないだろ。本人の口から」
深夜の喉が、かすかに鳴った。
恐れと期待が同じ場所で引っ張り合って表情が固まる。
「……だって……もし……本当に『もういらない』って言われたら……僕、どうすれば……」
深夜は両手で頭を抱えた。
逃げる姿勢なのに、逃げられない場所に座っている。
依代は近づき、深夜の手首を掴む。
強くない。
拒まれたらすぐ離せる程度の、逃げ道を残した触れ方だ。
「深夜。今ここで待ってても、答えは来ない」
深夜は息を止めた。
その反応に、依代は一瞬だけ口を噤む。
強く踏み込めば、この子は閉じる。まだ、そこまでの信頼はない。
だから依代は、言葉を「借りる」。
自分の気持ちではなく、深夜の好きな物語から。
「……怖いまま、前に出るやつを──ヒーローって呼ぶんだろ」
深夜の指が、少しだけほどけた。
それでも、視線は下のままだ。
「……ほんとに、そう思う?」
依代は頷く。断言じゃない。深夜が受け取れる分だけ。
「思う。少なくとも、深夜が好きなやつはそうだった」
深夜は小さく息を吐いた。
吐いた息が、泣き声の一歩手前で震える。
「……僕、ほんとは……」
声が割れる。
「毎日……謝ろうって思ってた。……部屋のドアの前まで行って……」
深夜は拳を作って、ほどけないまま膝の上に置いた。
震える拳を見られたくなくてさらに握り締める。
「でも、言えなかった。言ったら……『明日から』って言わなきゃいけない気がして。……僕、明日が怖くて」
涙が落ちる。
落ちてから、深夜はそれを拭く。乱暴に。
泣いている自分を許せない拭き方だった。
「優しくされたのに、ムカついて……『うるさい』って……思って……」
そこまで言って深夜は止まる。
言葉の続きが、たぶん一番痛い。
「……僕が悪いの、分かってた。分かってたのに、直せなかった」
依代は黙って聞いていた。
下手な慰めを挟めば、この告白が嘘になると思ったから。
少し間が空いて、依代が言う。
「……怖くて当然だよ。……でも」
この言葉が届きますように、と願って紡ぐ。
「怖いまま行けば、深夜はもう自分を嫌いにならずに済むよ」
ひと際強く拳が握られ、ぎゅう、という音が聞こえた後、深夜は頷いた。
頷いたけれど、その頷きは勝利じゃない。敗北の上にようやく積んだ、小さな一段だった。
「……お母さん、待ってるかな……? 僕のこと、嫌いじゃないかな……?」
依代は、ここでも「大丈夫」と言わない。
それは深夜の成長を奪う言葉だから。
「それは──行って、確かめるしかない」
深夜は、しばらく黙っていた。
それから、依代の袖をつまむ。指先だけ。
触れてもいいか分からない距離感の、ぎりぎり。
「……依代……兄ちゃん……」
呼び方に迷いがある。
親しさではなく、頼っていい相手かどうかの確認が滲む。
「……一緒に、来てくれる? 僕、途中で……怖くなったら、戻りたくなるかもしれない」
それは弱さの宣言だった。
でも同時に、逃げたい自分を自分で見張る、決意の形でもあった。
依代は袖をつままれたまま、短く頷く。
「置いていかない。……ただ、歩くのは深夜だ」
深夜の喉が震える。
その言葉が嬉しいのに、まだ信じ切れない目をしている。
それでも、深夜はぽつりと呟く。
「僕……会いたい。お母さんに……ちゃんと、謝りたい……!」
言い切った瞬間、深夜の肩から力が抜けた。
抜けた反動で、深夜は一歩だけ前へ出る。
抱きつくほどの距離ではない。けれど、逃げない距離だ。
深夜は泣きながら、依代の胸にぶつかるように寄りかかった。
すぐに我に返ったのか、少しだけ身体が硬直する。
他人に甘えるのが、まだ下手だ。
依代はその体をしっかりと抱きしめる。
抱きしめながら、深夜の背中の薄さに一瞬だけ眉が動く。
その意味を、依代はまだ知らない。
──今日だけは、気がすむまで泣けばいい。
そう思ったのに、依代は口に出さなかった。
言った瞬間、これは「許し」になってしまう。深夜が自分で立ち上がる前に終わってしまう。
深夜は、依代の服を掴んだまま、小さく、何度も頷いた。
強くなったわけじゃない。
ただ、逃げ続ける自分に、初めて「待った」をかけた。
その一歩が、この先の深夜を作る。
依代だけが、それに気づいていない。




