おばあちゃん
「すごい!」
リビングへ移り、指輪から水と非常食を取り出してテーブルへ並べると、少年は目を輝かせた。
「その指輪、そんなこともできるの?」
何もなかった指先から物が現れるたび、身を乗り出して覗き込む。
「僕以外にも、あの世界に行った人がいたんだ……」
ペットボトルを握ったまま、どこか安心したように呟く。
少年は、真坂深夜と名乗った。
十三歳で、近所の中学校に通っているらしい。
ただ、二か月ほど前から学校へ行けず、ほとんど自分の部屋からも出ていなかった。
昼と夜が逆転し、起きる時間も食事もばらばらになっていた。
騒動が起きた日も眠り込んでいて、外の喧騒には気づかなかったという。
学校へ行けなくなった理由を尋ねると、深夜はペットボトルの縁を指で擦りながら俯いた。
「深夜は、向こうでどんな暮らしをしてたの?」
「おばあちゃんと一緒に暮らしてたんだ」
深夜は乾パンを一つ摘まみ、恐る恐る口へ入れた。
「……ビスケットみたい」
少しだけ笑ってから、口の中のものを水で流し込む。
「部屋で寝てて、起きたら知らない森の中だった。昼なのに暗くて、木がすごく大きくて……」
その時の景色を探すように、深夜の目が宙を彷徨う。
「怖くて、ずっと泣いてたんだ。そしたら、どこかから『どうしたんだい』って声がして」
「顔を上げたら、おばあちゃんが立ってた。何が起きたのか分からなくて、何も言えなかった。でも、おばあちゃんがぎゅって抱きしめてくれて……」
ペットボトルを握っていた指が、わずかに緩んだ。
「すごく、あったかかった」
「優しい人に会えたんだね」
「うん」
迷いのない返事だった。
「家に連れていってくれて、帰れるまでずっといていいよって言ってくれた。最初はあんまり話せなかったけど、何も聞かずにご飯を作ってくれて」
深夜がもう一つ乾パンを口へ運ぶ。
今度は急いで噛みすぎたのか、乾いた咳を二度こぼし、慌てて水を飲んだ。
「少ししたら外にも出られるようになって、お手伝いもしてたんだ。水を汲んだり、薪を運んだり。おばあちゃん、腰が痛いって言ってたから」
「それで、エゴのこともおばあちゃんに教えてもらった」
深夜は手を前へ伸ばし、先ほど壁を作った場所を指す。
「向こうでは、僕みたいに別の世界から来た人を勇者って呼ぶんだって。勇者は、みんな特別な力を使えるって」
「最初はすっごくびっくりしたよ。何もないところに壁が出るんだもん」
「面白くて、いろんなところに出してみたんだ。近くに出したり、遠くに出したり。大きくしたり、何枚も作ろうとしたり」
「ずっと試してたら、急に身体が動かなくなって、最後は壁も出なくなっちゃった」
「身体が動かなくなるまで試してたんだ」
「……楽しくて」
照れくさそうに前髪を触る。
話を聞く限り、壁を出せるのは深夜から十メートルほど離れた場所まで。
大きさは最大で十畳ほどまで広げられるが、遠くへ出すほど、大きく広げるほど消耗も激しくなるらしい。
深夜が水を一口飲むのを待つ。
「じゃあ、こっちへ戻ってきてからのことを聞いてもいい?」
深夜の指が止まる。
「今、外がどうなっているか、どこまで知ってる?」
先ほどまで緩んでいた表情が、目に見えて曇った。
「……何も分からない」
手元へ視線を落とす。
「戻ってきてから、部屋とトイレとキッチンにしか行ってないから」
リビングの窓は、厚いカーテンで閉ざされていた。
カーテンの裾には、動かされないまま積もった埃が細い線を作っている。
換気されていない空気には、腐った食べ物の酸っぱい臭いと、染み込んだ死臭が混ざっていた。
普段なら顔を顰めるほどの臭いにも、深夜は反応しない。
もう臭いに気づいていないようだった。
何から話すべきか、言葉が出てこなかった。
深夜が乾パンの袋へ指を伸ばす。
ビニールが、カサ、と鳴った。
「……でも、何かが起きてるのは分かってるよ」
声が少しだけ震えていた。
「外から変な音がしてたし、電気もつかないし……」
袋の端を指で何度も折り曲げる。
「それに……」
深夜は俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「お母さん……ずっと帰ってこないんだもん」




