脱出
吉祥寺駅方面へと向かう。
街路は沈黙し、かつて賑わっていた景色は今や死の静けさに覆われていた。
道路のあちこちにはゾンビが散らばり、こちらの動きに気づいて顔を上げる。
だが、片側二車線の広さのおかげで進路はかろうじて保たれていた。
「っ……」
車が通らなくなった大通りの中央を、ゾンビの大群を引き連れて全速で走る。
もともと道にうろついていたゾンビも列に加わり、後ろは巨大な黒い波のように膨れ上がっていく。
もはやモンスタートレイン。
エゴによって強化された身体は速度を保っていたが、肺は焼けつくように痛み、筋肉は警鐘を鳴らし始めていた。
加速しながらも、身体の芯がどんどん削られていく。
エゴは万能じゃない。命を燃やす火花にすぎない。
──もう少し……もう少しだけ持て……
五日市街道へと曲がり、目標を捉える。
だがそこで思わず舌打ちした。
「最悪……」
目の前には、乗り捨てられた車で詰まった渋滞がびっしりと並んでいた。
突破するには減速を強いられる。──致命的だ。
「緊急事態ということで……ッ」
最後尾の車を踏み台にし、そのまま先に続く車へと跳び移る。
ボンネットが凹むベコンという音が足元で鳴るたび、ゾンビたちの怒声のようなうなり声が迫る。
視界の隅には、集団の先頭が車を回り込みながら殺到してくるのが見える。
皮膚が裂け、血管が浮き出た顔をぶら下げ、よだれを垂らして走ってくる。
その姿は、もはや人の形をした飢餓そのものだった。
その気迫に、全身の肌が総毛立つ。
だが、止まったら終わる。
心中で悪態を吐き捨て、最後の一台を跳び越え、目的の雑居ビルに着地。
足元が一瞬グラつく。──体力が、本格的に危うい。
それでも顔を上げると、背後からゾンビたちが咆哮とともに迫っていた。
車など障害でもなんでもない。身体ごと叩きつけて、車体を揺らしながら追ってくる。
呻く足に鞭を入れ、雑居ビル脇の非常階段を一気に駆け上がる。
赤く錆びついた鉄製の非常階段を、谷々は狂ったように駆け上がった。
一段一段が鉛のように重い。踏み込むたびに脚が軋み、火がついたような太ももが今にも破裂しそうだった。
カンカンカン──鉄を踏み鳴らす音が連なり、その直後、下階からも別の金属音が追いかけてくる。
──違う。これは、階段の音じゃない。
踏み外して転がる音、鉄に激突する音、鈍い咆哮と共に這い上がる、死者たちの音だった。
「ッ……元気だな」
絞り出すように呻き、最上階へと最後の一歩を踏み出す。
屋上扉に体当たり。重い音と共に押し開けると、熱気と腐臭が混じった風が吹き抜けた。
屋上は閑散としていた。給水塔、空調のダクト、さびた柵以外に目立ったものはない。
──次の行動に迷う猶予はない。
速度を落とすことなく、いやむしろ加速しながらダクトに飛び乗る。
その瞬間、ビキビキと脚が悲鳴を上げる。
限界だ。身体はすでに叫んでいる。ここで止まれと。
だが止まることはできなかった。
命の火を《一激》に預けた瞬間から、もう選択肢はなかったのだ。
屋上の端が見える。隣のビルの屋上との距離──およそ5メートル強。
……ギリギリ届くかもしれない。いや、届かないかもしれない。
けれど、ここで止まれば背後の亡者たちに喰われる。考えるまでもなかった。
聖水の栓を抜き、振り返らずに背後へ放り投げる。
パキャッ。
乾いた音。
焼ける肉の匂い。
悲鳴とも怒声ともつかない叫び。
すべてを背中に残して、谷々はダクトの端を蹴った。
「──っ」
足が宙を離れた瞬間、視界が揺れる。
浮遊感とともに、全身の筋肉が引き裂かれるようにきしむ。
都会の空。
遠くで響くサイレンの名残。
下ではゾンビの咆哮が風のようにうねっている。
そのすべてを遠ざけるように、谷々の身体が空を舞った。
──届け。
意識が、隣のビルのヘリだけを射抜いていた。




