屋上・サバイバル・デッド5
予備鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
内側で机を引きずる音がして、わずかに扉が開いた。
「依代!」
隙間から無月の顔が覗く。
僕の姿を確認した瞬間、張り詰めていた表情が明るくなった。
その視線が、すぐ後ろに立つ教頭へ移る。
笑みが妙な形で止まった。
「……教頭先生?」
まあ、無理もない。
松風と二人で調理場から連れ出した教頭は、歪んだ銀縁眼鏡に、血の付いたワイシャツという格好だった。
包丁は取り上げてある。
ゾンビに噛まれた痕がないことも確認した。
「話はあとだ。早く入って」
無月と四方田さんが机を押さえ、僕、松風、教頭の順に屋上へ入る。
扉を施錠すると、再び古い机が積み上げられた。
僕たちが戻ったことに気づき、ブルーシートの下にいた生徒たちも顔を上げる。
しかし、食料らしいものを持っていない僕らを見ると、安堵しかけた表情が少しずつ曇っていった。
無月は教頭を簡易屋根の下へ座らせ、正面へ腰を落とした。
「なるほど。では先生は、騒動が起きたあと、ほかの先生方を先導して避難しようとした」
「そうなんだよ、無月君」
教頭が深く頷く。
「混乱する教員たちへ、私が責任者として冷静に指示を出したんだ。生徒を置いて逃げるわけにはいかないからねぇ」
「その途中で、狂った生徒たちに襲われた。ほかの先生方は散り散りになり、先生は食堂の調理場へ避難した」
「そういうことだ」
教頭は膝の上で拳を握った。
「私もねぇ、最後まで皆を助けようとしたんだよ。だが一部の教員が冷静さを失ってしまってねぇ。勝手に動かれては、私一人の力ではどうにもならない」
無月が教頭を見つめる。
教頭の肩は、その視線が向けられてから震え始めた。
「調理場にあった包丁も、生徒を守るために確保したんだ。君たちを襲うつもりなど、もちろん──」
「……そうですか。事情は分かりました」
無月は平坦な声で話を切った。
教頭は勝手に肯定されたと思ったのか、目頭を指で押さえながら顔を背ける。
涙は出ていなかった。
教頭は書道の選択授業を担当していたが、受講した生徒からの評判は壊滅的だった。
性別で態度が違う。
自分の話ばかりする。
機嫌次第で叱ったり、同じことを見逃したりする。
ほかにも細かい悪評は絶えない。
僕は授業を受けたことがなかったので、噂が誇張であることを願っていた。
今のところ、あまり期待はできそうにない。
「あ、あの……!」
か細い声が割り込んだ。
四人の生徒が、僕らの近くまで来ていた。
先頭に立っていたのは、小泉だった。
学ランの裾を何度も指で摘まみ、俯いたまま僕の前へ押し出されるように立っている。
そのすぐ後ろに、赤間、若生、鹿野。
小泉が正面。
赤間が半歩前へ出て、若生さんは笑いながら横へ回る。
鹿野さんはガムを噛みながら、僕と扉の間へ立った。
見覚えのある囲み方だった。
沢田石も、小泉も、何度もこの形で逃げ道を塞がれていた。
若生さんだけは手を出さず、いつも少し離れたところで困ったように笑っていた。
「ちょ、ちょっといいかな、依代……」
小泉は顔を上げない。
「その……食料は、見つかったのか……?」
そんなに俯いていたら、眼鏡が落ちるのではないかと心配になる。
「手ぶらじゃん」
赤間が小泉の肩越しに言った。
「何も見つからなかったのか、それとも探しもしないで逃げ帰ってきたのか、どっちだよ?」
赤間はあからさまに僕との距離を詰めた。
「赤間、そんな言い方やめなよ」
若生さんが困ったように眉を下げる。
赤間が舌打ちし、半歩だけ退いた。
「依代君だって、怖い思いをして戻ってきたんだから」
それから僕へ、柔らかく微笑みかける。
「でも、食料がないとみんな困っちゃうね」
退きかけていた赤間が、もう一度僕へ顔を向けた。
鹿野さんがガムを噛む音だけが、やけに大きく響いた。
「お前ら、依代を一人で行かせといて──」
松風が前へ出る。
僕は片手を上げて制した。
松風は不満そうに眉を寄せたが、その場に踏みとどまる。
「君たちぃ、こんな状況だからこそ全員の和というものをだねぇ……」
教頭が立場上の義務だけで口を挟む。
止めに入ったはずなのに、その顔はひどく面倒そうだった。
「ねえ、無月。止めなくていいの?」
四方田さんが声を潜める。
無月は僕の右手へ一度だけ視線を向け、それ以上は動かなかった。
「なんだよ、その目」
赤間が手を伸ばし、僕の胸ぐらを掴んだ。
「痛い目みねぇとわから」
「一激」
赤間の手首を掴む。
一歩踏み込み、軸足を払った。
次の瞬間には、赤間の身体が宙へ浮いていた。
背中からコンクリートへ叩きつける。
「がはっ!」
肺から空気を吐き出した赤間をうつ伏せへ転がし、その腕を背中側へ捻り上げる。
屋上が静まり返った。
教頭は口を開けたまま固まっている。
これまで関わらないふりをしていた生徒たちも、一斉にこちらを見ていた。
「ごめん。急だったから、学ランが少し傷んだかもしれない」
赤間を見下ろして言う。
「く、くそっ……放せ、ボケが!」
捻り上げた腕へ、ほんの少し力を加えた。
「……折るよ?」
赤間の身体が強張る。
「痛っ! やめろ! 分かった! 分かったから!」
懇願を確認し、ゆっくりと腕を放す。
赤間は肩を押さえながら転がり、荒い息を繰り返した。
「……赤間が悪いよ。依代君、大丈夫?」
若生さんは倒れた赤間より先に、僕へ心配そうな顔を向けた。
「うん。大丈夫」
若生さんは小さく安堵したように笑った。
鹿野さんはガムを噛むのをやめている。
小泉だけが、戸惑ったように僕と赤間を交互に見ていた。
無月の口元が、ほんの少し緩んでいた。
これ以上話すこともなかったので、右手の指輪へ触れる。
銀色の輪が淡く光った。
最初に取り出したのは、大きな米袋だった。
屋上の床へ置く。
ドスン、と重い音が響いた。
次にパンや麺類。
段ボールに入った野菜。
肉、卵、豆腐。
缶詰や調味料。
食堂から回収した食材が、何もなかったコンクリートの上へ次々と積み上がっていく。
生徒たちの顔が、一つずつ上がった。
「え……」
「何、それ……」
「本当に、取ってきたの……?」
誰かが立ち上がる。
別の生徒もシートの下から這い出し、積み上がる食料を呆然と見つめた。
送り出す時には目を逸らしていた顔が、今度はよく見えた。
「依代君、すごい」
最初に声を上げたのは若生さんだった。
その目は積み上がる食料を追い、淡く光る指輪へ移り、最後に僕の顔で止まった。
最後に、食堂の寸胴鍋を取り出す。
蓋を少しずらした瞬間、白い湯気が立ち上った。
中華卵スープの、ほのかな塩気の香りが屋上へ広がる。
「スープだ……」
誰かの声が震えた。
安堵の息が、あちこちで漏れる。
泣き出す生徒までいた。
送り出す時には一つも上がらなかった手が、食料を運ぼうと次々に伸びてきた。




