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ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第二部:夢の終わり
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8.夏天の下




もしも自分が死ぬ季節を選べるなら、きっと夏を選ぶだろう。


春はいささか感傷的すぎて。

秋はあまりに物悲しくて。

冬の陰気さは好きじゃない。

だからやはり夏を選ぶだろう。

あまねく命は夏天の下、持ちうる限りの輝きを放つ。

だからその輝きに連なって、夏の陽に照らされながら死んでいきたい。


もしも自分が死ぬ季節を選べるなら、それがせめてもの望みだ。











 「お大事にどうぞ」

午前最後の患者が診察室を後にした。ぼくより少し年上、30代のその男性は、仕事のストレスによる体調不良を訴えてぼくの処へやって来た。手順通りに問診を行い、共感治療を行うために男性を伴って施術室へと向かう。カスカはすでに管制室で待機していた。当然そこに橙夜の姿はない。一通りの説明を終えた後、ぼくらは共感を始めた。ホワイトルームを経由し、男性の深層意識階層へ降りていく。彼の心象風景は、壁や天井、それに床にまでびっしり目がついたオフィスだった。自分自身を肯定できないがゆえ、他人の評価に依存し、怯える心がそこには広がっていた。治療計画に基づき、ぼくはその部屋の中央でうずくまっていた感情の具現たる男性に認知変容コードを投与する。治療は完了。経過観察のため、週をまたいでもう一度来るように伝えると、男性は丁寧に礼を述べ、診察室を出て行った。いつも通りの日常は粛々と進む。時計に目を移した。13時を少し過ぎたところ。リンネとの約束の時間だ。リンネとぼく、そしてカスカの三人で昼食を共にする約束をしていたのだ。ぼくは大きく伸びをすると、椅子から立ち上がった。ぎっと椅子が軋む音がする。

 

 閉鎖病棟、リンネの病室にIDを掲示する。どうぞ、という甘い声に促され、ドアが音もなく開いた。リンネはすでに身支度を終えていて、いつか中庭に連れて行ったときと同じ服を着ていた。右のこめかみには三角形の白いパネル。こうして見ると、その役割はともかく、アクセサリーとしては悪くないように思えた。行こうか。ぼくがそう言うと、リンネは嬉しそうに頷く。まるで散歩に連れて行ってもらう犬みたいにはしゃぎながら、リンネはスキップをせんばかりの勢いでぼくの後に着いて来た。病室を抜け、隔壁のロックを解除する。閉鎖病棟から一般病棟への渡り廊下を歩きながら、窓の外に広がる風景を見遣る。夏の昼。今年は雨が少ない。ダムの水不足を切迫した様子で伝えるニュースが、そう教えてくれた。けれどそのニュースはどこか遠くで起こっているようで、現実味に欠けていた。それは無責任な無関心だったかもしれない。ニュースというのはいつもそうだ。出来事の一部分を切り取るがゆえ、事象を矮小化し、あまつさえエンターテイメントにまで貶めてしまう。ぼくらはきっと、本質を知らない。ニュースやネットの情報網はそれを見る人間に万能感を与えてはくれるかもしれないけれど、それは結局空虚な自慰行為にすぎないのだ。いつの間にかぼくの隣に来ていたリンネに視線を移す。転院患者。例の患者。特殊症例。かつてぼくらはリンネをそう記号化し、事象を矮小化していた。しかしそれは時として精神医療の臨床で必要とされる思考であることは否定出来ない。わたしはわたし。そしてあなたはあなた。精神科が医療共感に発展した今でもなお、絶対遵守すべきそのボーダーライン。患者は患者。そして患者もひとりの人間。それを踏まえた上での必要的距離感。ぼくらが相手にしているのは病気ではない。ひとりの人間の心なのだ。


 職員と患者、両方に開放されているカフェテリアに着いたぼくらは、そこでカスカを待っていた。ちょうど昼時のいま、そこには医師も患者も含めたたくさんの人の話し声が、空中に不可視のうねりを作っていた。入院患者の数はそう多くはない。必然的にここにいる大半が病院の職員だった。ある者は食事を摂り、ある者はARのウィンドウに埋もれながら、彼らは各々の時間を過ごしていた。いつも通りの日常。そしてぼくらもその一部。リンネが物珍しそうに辺りを見回しているので、どうしたのかと訊いてみると、ここには初めて来たのだという。閉鎖病棟にいるリンネは、いつも看護師が運んでくる食事を病室で食べていたのだから、当然ここに来ることもなかったのだろう。すごい人だろ。ぼくがそう言うと、リンネは大きく頷いた。それに合わせて栗色の髪が揺れる。まるで花弁が花粉を散らすように、リンネの甘い香りがぼくに伝わってきた。思わずそれに惚けてしまいそうになったとき、雑踏の向こうからカスカがやって来た。カスカは遅れてすまないといいながら、ぼくらの座っているテーブルの空いていた席に腰を下ろした。

「あれ、淵守先生、たばこ吸うんですか」

カスカが座ると同時にリンネがそんなことを訊く。

「ああ。すまない、臭かったか」

リンネは笑いながら、いいえ、気になりませんと言う。ああそうか、たばこを吸っていて遅れたのか。ぼくはカスカに少々の非難を込めてにやりと笑ってみせた。カスカは少し眉を上げ、すまなそうに口角を上げた。ぼくらは皆笑っていた。これまでのことが嘘のように、穏やかな時間だった。

「メニュー、いっぱいあるんですね」

食事を受け取るカウンターの上にずらりと並んだメニューを見ながら、リンネが溜息を漏らした。確かにこの病院はそのあたりがかなり充実している。研修所の味気無い焼き魚定食を思い出しながら、ぼくはリンネが呼ぶまでしばしの感慨に浸った。先生たち、はやく。気が付くとリンネはもうカウンターの前にいて、そこからぼくとカスカを呼んでいた。ぼくらもそこへ向かう。そういえばここに来るのは久しぶりだ。リンネ絡みの事務処理やらで、最近はもっぱら研究棟の部屋で食事をしていたのだ。こういうとき、もし僕にも母親がいれば、ちゃんとしたものを食べろと怒られるのだろうか。想像するしかない。けれど、それはとても温かいもののように思えた。

 

 各々食事を受け取ったぼくらは、ふたたび席に戻る。リンネはガパオ。カスカはチャーハン。ぼくはハンバーグ。リンネが両手を合わせるのにつられて、ぼくらも思わず手を合わせた。いただきます。食べながらふと思った。これはもしかして団欒というやつじゃないのか。そう考えると、顔が綻ぶのを抑えられなかった。炒めたひき肉とタイ米を頬張ったリンネが不思議そうにぼくを見る。いや、なんでもない。ぼくはそう言うと、自分の前にあるハンバーグにナイフを入れた。それにしてもリンネはよく食べる。今しがた注文したガパオだって、大の男も苦労しそうな大盛だ。その折れてしまいそうな細い体のどこに料理が入っていくのか。そんなギャップもぼくの心を一層ざわめかせた。

 AR端末の通知音が団欒に割り込む。別の共感医からだ。急なシフト変更で、ぼくが受け持つ予定だった午後の患者を自分が担当することになったという旨のメッセージだった。ということは、この後数時間は予定が何もない。それは僥倖に思えた。ぼくはリンネとカスカにそのことを伝える。ぼくが診療を外れるということは、必然的にバディであるカスカも時間が空くということだった。

「じゃあ、もうすこしみんなでいられますね」

リンネが嬉しそうに言う。山盛りガパオの皿はきれいに空になり、一緒に頼んだオレンジジュースのストローを玩んでいる。早食いは体に良くないぞ。ぼくがそう言うと、リンネは少し恥ずかしそうにむくれてみせた。でも、ともかく。これで三人の時間は十分に取れることになったのだ。ぼくらは食事を片付けると、それぞれの飲み物を飲みながら話を始めた。リンネがせがむままに、ぼくはカスカと出会ったときの話や研修所であったこと、この病院で働き始めた頃の話なんかを始めた。時折、カスカもそれに加わる。

「淵守先生も共感医なんですか」

「資格自体は持っているけどな。バックアップがメインだ」

じゃあ、淵守先生も藍咲先生みたいに共感できるんですね。リンネがそう言うと、カスカは笑って言った。

「こいつの脳は特別製だからな。俺じゃ敵わんよ」

それは決して嫌味なんかではなく、友人同士の会話にありがちな、そんな言葉だった。そうなんですか。カスカの言葉の意味を捉えかねたリンネが不思議そうに言う。そうか。リンネはデバイスのことを知らないのか。ぼくは周りに聞かれないように声を潜めながら、リンネにデバイスのことを教えた。リンネは声こそ上げなかったものの、目を真ん丸にして驚いた。

「でも納得しました」

あの赤黒い流れからコア記憶を取り出せたこと。リンネを痛みの海から救えたこと。そして逆さの空での出来事。もしかしたら、いやきっと、リンネはそれらのことを心のどこかで知っていたのだ。言葉に出来ない事がようやくすっきり説明された。リンネはそんな表情をしていたからだ。その顔を見て、ぼくもようやく飲み込めた。これは呪いなんかじゃなく、誰かを助けるための力なんだと。カスカがゆっくりと頷く。カスカはぼくを純粋にひとりの友人として、共感医として、そして人間として接してくれた。それがなにより嬉しかった。ぼくは頭のどこかで、自分が人間ではないと思っていた。人の心を蹂躙する力を持った化物。そこには常に疎外感と孤独があった。だがその化物を人間に戻してくれたのは、カスカであり、リンネだったのだ。ぼくは人間との繋がりとか、絆とか、そういうものを信じることができなかった。境遇を持ち出せばそれまでだが、とにかくぼくは誰かが無条件に自分の傍にいてくれることを、どうしても信じることができなかった。そこにカスカが現れた。いい相棒を持ったと言ってくれた。ぼくらはバディではなく、友人になった。そしてリンネに出会った。亡者の声と過去の忌まわしい記憶に苛まれていた少女を、ぼくは助けることができた。リンネはぼくを必要としてくれた。同時に、リンネを必要としている自分の思いに気づいてしまった。











 すっかり食事を終えたぼくらは、外へ出た。実に都合よく売店に帽子があったので、それを買ってリンネに被せてやる。トラッキング用端末を着けたときと同じように、リンネはひどく嬉しそうに笑う。ぶっ倒れられたら困るからな。ぼくは照れ隠しのつもりでそう言ってみた。照れを隠せていたか、その真相は定かで無い。とにかく、ぼくらは芝の植えられた病院正面の広場を歩いていた。リンネは終始笑顔だ。その笑顔は心の底から溢れだしているようで、どこか人工物じみた橙夜のそれとは対極に位置するものだった。それが、その対比がぼくを安心させた。リンネが紛れも無く此岸の人間であることを確認させた。それが嬉しかった。そして、愛おしかった。

「先生たちはこの近くに住んでるんですか」

リンネがぼくらに訊いた。そういえばそんな話をしたことはなかったか。ぼくはリンネに説明を始めた。ぼくは毎朝自転車で病院に来ている。それは別に健康のためとか、自転車が趣味だとか、そんなわけじゃない。自転車で通える距離。その謳い文句につられて物件を契約したぼくは、馬鹿正直に自転車を買って通っている。それだけのことだった。リンネは、うんうん、とか、へえ、とか言いながら話を聞いている。

「淵守先生も家、近いんですか」

「いや、俺は少し遠い」

カスカは病院までバイクで来ている。これは流されるままに自転車で通っているぼくとは違い、完全に趣味性によるものだ。ぼくは生憎とバイクは詳しくないけれど、流線型で、青で、前傾になって乗るそれには、不思議と少年の心がくすぐられる。カスカはぼくをしきりにツーリングに誘う。一応免許は持っているけれど、肝心のバイクがまだだ。収入的にはなんの問題もないのだけれど、腐れ縁とも言える自転車を無下にするように思えて、なかなか決断が出来ないのだった。

 ぼくらは病棟の周りをぐるりと回りながら話をする。途中の自販機でペットボトル飲料を買ってリンネに渡す。リンネは小さな手でキャップを捻り開け、中身をこくこくと飲み下す。その仕草のひとつひとつが、彼女が確かに生きていることを教えてくれた。それに視線を奪われそうになり、見惚れまいと空を見上げる。

 夏の空。ただ、青。いつか読んだ小説を思い出した。殺人を犯し、処刑の時を待つ主人公の独白で構成される小説。主人公は人を殺した。けれどそれはひとつの特殊性、もしくは異常性を持っていた。多くの場合、人間はなんらかの感情が溢れた結果として殺人を犯す。だがその主人公は空が青かったから、という理由で人を殺し、裁かれた。曰く、自分の行為は青空の美しさの代償を求めるものだった。自分は美しい物の美しさを、そのままに享受できない異常者なのだと。桜の木の下には死体が埋まっている。使い古されたそのフレーズに、ぼくはその主人公の心理を重ねあわせた。美しさの具現たる満開の桜。その下に死体が埋まっている。それはきっと、その主人公と同じように、美しさを美しさとして享受できない捻くれた心が生み出した幻想なのかもしれない。意識が現実に戻る。空が青い。空が青い理由。父さんが言っていた。空の青は生きとし生ける物すべてが必要とするがゆえの色なのだと。ぼくは空が酷く幸せ者に思えた。そこにあるというだけで、この星のすべてから必要とされ、存在を認識されるのだから。リンネの願いをいとも容易く体現してみせる空。人間原理。青。

「藍咲先生」

宙に浮きかけていた意識をリンネの声が引き戻す。

「ああ、なんだっけ」

「映画のはなしですよ」

ぼくの思考が明後日の方向に向いている隙に、リンネとカスカは映画の話をしていたようだ。今度はぼくもそれに加わる。昔の病室にはテレビが置いてあったと聞く。今では空間投影式のオンラインモニタが設置され、好きな映画やニュースなんかを自由に見ることができる。リンネはこれまで転々として来た病院で、それを利用してよく映画も観ていたと言っていたのを思い出した。映画か。ぼくは最新の作品よりもむしろ、アーカイブの奥に眠っているような昔の映画を引っ張りだして観るのが好きだ。

「俺はあれが好きだ。あれ」

あれじゃ伝わらないよ。ぼくとリンネは思わず吹き出してしまった。カスカはバツが悪そうに頭を搔きながら、ぽつりぽつりとストーリーの断片を伝えてくる。人間そっくりのロボットが主人公。息子の代わりに彼を受け入れる家族。徐々に疎外されていく主人公。他のロボットたちとの出会いと別れ。そして何でも願いを叶えてくれるという妖精を求める旅。そこまで聞いて、ぼくはある古いSF映画のタイトルを思い出し、カスカに伝えた。

「それだ。アーカイブにあったのを観てな。良かったよ」

SFがベースではあるが、あくまでヒューマンストーリー的なその映画が好きだというのは、カスカにしては意外だった。へえ、そういうのも観るのか。珍しい。ぼくが言うと、カスカは失礼だと言わんばかりの顔で反論してきた。別に俺だってドンパチやる以外の映画も観るさ。ぼくらのやり取りを聞いていたリンネが、ぷっと吹き出した。鈴が転がるように、心の底から面白いという風に、笑う。つられてぼくらも笑顔になる。また、皆笑っていた。

「君はどの映画が一番好きなんだ」

ひとしきり笑った後、カスカがリンネに訊く。そうですねえ。リンネが考えこむ。髪をくるくると弄ぶその癖が、ぼくをどきりとさせる。

「あれが好きです、女の子ふたりが旅をするやつ」

また漠然とした答えだな。ぼくが言うと、さっきのカスカを思い出したのか、リンネが恥ずかしそうに笑う。

「ちゃんと覚えてますよ。文明が滅んだあとの世界で、ドーム型の都市で暮らす女の子たちのはなし」

ああ、あれか。ぼくとカスカが同時に言う。古いというほど古くもないその映画は、ぼくにも強い印象を与えたものだった。地球規模の核戦争で文明が滅び、生き残った人々は過去を封印してドーム型の都市に閉じこもる。主人公の少女ふたりは、過去の世界に関心を持って調べる最中、かつて存在したニホンという国に興味を持ち、都市を飛び出してニホンを探す旅に出る。確かそんなストーリーだ。

「あれは面白かったな」

ぼくが言うとリンネは嬉しそうに、そうでしょ、と答えた。あんな風に旅するのって、きっとすごく楽しいと思うんです。リンネは遠くの空を見ながら、まるでその先に天空の城があるかのように言う。そうだな。きっと楽しいかもしれない。旅。都会人が田舎へ行くことをそう形容することもある。けれどそれは、いつでも便利な暮らしに戻れることを保証された、ただの道楽でしかない。リンネが言うのは、そしてぼくが思い描くのは、きっと違う。すべてを投げ出して、帰る場所を捨てて、ただ道の続く限り進み、道なき道をも進む。あてのない旅。始まりも終わりもない世界。

「旅、してみたいか」

思わずそんなことをリンネに訊いてしまった。リンネは少し考えたあと、言った。

「この三人で行きたいですね」


 リンネがカスカのバイクを見てみたいと言ったので、ぼくらは病院裏の駐車場に向かった。なにせ大きい建物だけに、その裏に回るのもそれなりの距離を歩かなければならない。帽子を買ってよかった。リンネの頭に乗るそれを見ながら、思った。太陽は光と熱を放ちながら、相変わらず天に座している。その光はぼくの心のすべてを暴こうとしているようで、なにか後ろめたい気持ちを抱かずにはいられなかった。駐車場に着いたぼくらは、バイク専用のスペースに向かった。一応、研究所と病院の駐車場は分かれているが、それを厳密に守る者はそう多くないのが現状。そんななかで病院用駐車場のバイクスペースをきちんと利用しているカスカは、律儀というか真面目というか。実にカスカらしかった。やがてぼくらの前に一台のバイクが現れた。青い流線型。二人乗りもできる大きなそれは、主人の帰りを待つ馬か何かのように鎮座していた。以前、ツーリングに誘われた時にバイクを持っていなかったぼくは、それなら後ろに乗せてくれと言ったのだけど、カスカはそんなこっ恥ずかしいことはしないと頑なだったのを思い出した。乗る者の居ない後ろのシートは、気のせいかもしれないけれど、どこか寂しげだった。

「すごい。かっこいいですね」

わあっとリンネが歓声を上げる。カスカは酷く自慢気な表情だった。それが妙に可笑しくて、笑みがこぼれてしまう。カスカはこのバイクを本当に大事にしていた。傷がつかないようにコーティングし、こまめに点検をし、自分でもいじくる。これといって趣味を持っていないぼくにとっては、カスカのそんな行為のひとつひとつがどこか羨ましく映った。一応義務的に自転車を点検したりはしているが、カスカのそれとは別の次元のものだ。カスカは言う。機械とは、乗り物とは、極限まで使い潰され、最後には役目を終えて壊れる。それが美しいんだと。それこそがマシンに込められた存在理由の全うにほかならないのだと。まあもっとも、これは昔の映画監督の受け売りだがな。カスカはいつか、そんな話をしてくれた。傷ひとつなく、それこそまるで青空のように澄んだボディのこのバイクも、いつかはその役目を全うし終え、消えゆく最後の光を放ちながら壊れていくのだろうか。俗物的なぼくは、それをもったいないと思ってしまったのだけれど、同時にどこか納得している部分もあった。

「乗ってみるか」

カスカがリンネに訊く。いいんですか。リンネは目を輝かせながら答えた。カスカはバイクが倒れないように支えながら、リンネに乗るように促す。リンネはスカートの裾を気にしながら、シートに跨った。小柄なリンネとごついバイク。その対比は妙に絵になっていた。リンネはハンドルに手を伸ばし、握ろうとする。体が小さいので、前傾で跨るというよりもほとんどうつ伏せのような姿勢になってしまう。リンネが照れくさそうに笑う。そこでぼくらはまた笑った。リンネはありがとうございましたと言ってバイクを降り、ぼくらの方に向き直ると、突然思いついたかのように言う。

「写真、撮りませんか。三人で」


 リンネの提案を却下する理由がなかったぼくとカスカは、それに応じることにした。いやむしろ、それはとてもいい案に思えた。三人での写真。なんてことない、当たり前の日常の一コマ。ぼくらがぼくらでいるための基準点として、いつでも思い出せるように。ぼくは自分の携帯端末を取り出すと、手近に停まっていたバイクのシートに置いた。少々心許ないが、なんとかバランスを保ってくれている。携帯端末はそのカメラが捉えた映像をぼくの目の前に投影する。青いバイクを背にしたリンネとカスカ。ふたりに指示を出しながら、絶好のポジションを探る。光量、ピント、それらを端末が自動的に調整し、最適な画像をぼくに返す。やがて定まったアングルを端末に保持させると、ふたりのもとへ戻る。

「撮るぞ」

ふたりに声を掛けた後、ぼくの前に浮いているウィンドウを操作し、シャッターを切る。端末から送られてきた写真を表示させ、三人で眺める。青いバイクの前で、いつものように表情少なげなカスカ。慣れていないせいで変に歪んだ笑顔のぼく。そしてふたりの間で満面の笑みを湛えながらピースサインをするリンネ。世紀の絶景には遠く及ばない。けれどどんな風景よりも大切で、貴い日常の一コマ。ちょっとした感慨に浸りながら、ぼくはウィンドウを操作し、カスカの端末とリンネの病室に写真を送った。











 その日の診療を終え、ぼくは研究棟の部屋にいた。ぼくの机の上には小さなディスプレイが置かれている。カレンダーや時計、テレビとしても機能するそれを、今はフォトフレームとして使っていた。昼に三人で撮った写真。作業の手を止め、それを眺める。家族写真。唐突にそんな言葉が頭に浮かんだ。ぼくには家族と呼べる家族がいなかった。当然、家族写真なんてもの、望むべくもなかった。でも、もしかしたら。この写真は近似値としての家族写真と呼べるかもしれない。いや、ぼくはそう呼びたかった。カスカも、そして今ではリンネも、ぼくにとってはかけがえのない存在なのだ。それを家族と呼ぶことは、間違いだろうか。いつかリンネとした逆月ミカゲの著書の話を思い出した。血の繋がらない人たちの集まり。寝食を共にしながら形成されていく、ゆるやかで、しなやかで、強い繋がり。ぼくがずっと望んでいて、そして手に入れられなかったもの。リンネが奪われてしまったもの。

 ぼくらはきっと、皆生きるのが下手くそだった。必死に生きようとして、その実前には進めていなかった。辛いことを辛いと言えず、助けて欲しいときに声を上げられず、ぼくらは、ぼくは、世界の隅で呪詛の言葉を呟いて生きていた。ぼくは世界に期待していた。世界がぼくの存在を認めてくれることを期待していた。そしてその期待は時として裏切られた。それと同じように、リンネも、もしかしたらカスカも、願っていたのかもしれない。誰かにここにいていいと認められることを。生きていてもいいと許されることを。そして誰かと分かり合いたいということを。

 ぼくは人と繋がりたかった。そしてぼくは共感と出会った。人の心の中に入る技術を得た。人の心の痛みを取り除く仕事に就いた。カスカに出会った。同じ願いを抱く男に出会った。リンネに出会った。リンネの痛みを知った。リンネの願いを知った。リンネの中に巣食うものの正体を知った。

 人の心の集積たる集合的無意識。人の無意識の集合。その正体は怨嗟の声だった。本質的に人は人を呪う生き物だと、『リンネ』は言ってのけた。ぼくはそれを否定したかった。人間の本質が怨嗟だと、認めたくなかった。性善説を信じたかった。けれど世界は、『リンネ』は、それを残酷に否定した。人間の本性のおぞましさを目の当たりにして、ぼくはどうしていいかわからなくなった。でも、それでも、あんなにきれいに笑うリンネがいるのだ。誰よりも真摯なカスカがいるのだ。ぼくはパンドラの箱の中身を知った。災厄の渦を目の当たりにした。けれど、いややはり、最後には希望が残るのだ。カスカと、それにリンネがいる限り、ぼくは世界に期待してもいいと思える。ふたりがいるこの世界を肯定してもいいと思える。それで十分だった。


 作業を終えたぼくは、端末をロックし、スリープ状態にする。荷物をまとめ、部屋の電気を消し、ドアをロックする。いつものルーチンワーク。いつも通りの日常。駐輪所に待っているぼくの自転車のことを思い出した。カスカほどとまではいかないけれど、もう少し愛着を持って接してやってもいいか。そんな風に、思った。


 その日、ぼくらは間違いなく幸せだった。それは誰にも否定することの出来ない真理であり、真実だった。


 けれど、夢はいつか終わるのだ。信じたくはなかったけど、それもまた真理だった。












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