表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第二部:夢の終わり
15/16

14.最果の夏


愛は目には見えない。

友情は目には見えない。

言葉は目には見えない。

絆は目には見えない。


人と人とを繋ぐのは、

いつだって目には見えないものだった











 橙夜は、ぼくらの目の前に立っていた。どうやってここに。そんな疑問を先読みしたかのように、橙夜が答える。

「METROにバックドアを仕掛けました。それとラボのシステムをリンクさせたんですよ。それにしても地上ユニットと衛星二機を使ったシステムがコアになっているとはね。少々驚かされましたよ」

ぼくはMETROの方を見る。父さんがどこか諦めたように話し始めた。

「橙夜アケルの言う通り、METROの中枢は我々3ユニット。そのうちカストールとポルックスは衛星として軌道上に、私は地上に配置されている。これは本来なら機密なんだがね」

よくもまあ調べたものだ。父さんが呑気に言う。それにしてもMETROそのものにハッキングを仕掛けるなんてことが可能なのか。いやそれをやってのけた奴が目の前にいる。だからそれは別に問題じゃない。問題は。

「お前がカスカを殺した」

「それは違いますよ。ぼくが手を下したわけじゃありません」

飄々と言ってのける、そのすべてに怒りがこみ上げる。

「復讐をするつもりですか。あなたは僕の世界への復讐を手酷く否定した。そのあなたが、自分から復讐という手段を選ぶんですか」

橙夜は論理的だった。至って理知的に言ってみせた。一方のぼくは、意識体がヒトの形を保っているのが不思議なくらいの激情に支配されている。

「ああ。ぼくはお前に復讐する。別にぼくは復讐を否定しない。ただお前がリンネを利用しようとしたから、否定してやっただけだ。お前の境遇には同情してやる。憐れんでもやる。だが、いくらぼくの言葉が矛盾していても、論理的じゃなくても、今のぼくはお前の在ることが赦せない」

世界への復讐という大義を否定したぼくが、個人への復讐を肯定しようとする。それは矛盾だった。裏切られたから復讐する。それが短絡的で底が浅いと切り捨てたぼくが、友人の仇を討とうとしている。それは一貫性を欠いていた。自分でもわかっている。けれど、カスカは死んだのだ。それだけが、真実であり、事実であり、現実だった。そしてもうひとつ。無責任な同情や憐れみは、最上の侮辱だ。ぼくはそれを知って、橙夜に同情してやった。ぼくは橙夜のすべてを否定してやった。お前はいてはいけない。在ってはいけない。

「橙夜アケル。君の意志は人類の害になるものだ。METROはそれを看過できない」

カストールが言う。橙夜が現れる前、METROは橙夜への判定を更新すると言っていたのを思い出す。

「METROは君の存在を害と判定し、否定することにした」

ポルックスがその裁定を伝える。橙夜は今度こそ、すべてに否定された。ヒトの意識を繋げるMETROに否定されるということは、人類の総意、すなわち世界に否定されることに等しい。そうだよ。もうお前に居場所はない。カスカを殺したお前に、リンネを傷つけたお前に、人類を滅ぼそうとしたお前に、居場所なんてないんだ。

 ぼくは自分のデバイスが起動するのを感じた。脳の伝達バランスは正常に戻ったらしい。意識体の右手に、周囲の意識場が集まってくるのを感じる。橙夜に言葉はなかった。そして表情もなかった。この世全てのものに否定された男は、ただそこに在った。右手に集まった意識場が収束し、強い光を放ち始めた。ぼくは一歩ずつ、ゆっくりと橙夜に近づいていく。橙夜がぼくの方に向き直った。その目に宿っていたのは、怒りとも悲しみともつかない感情だった。その目でぼくを睨みつけている。それは皮肉にも、仮面のようだった彼の見せた、唯一の人間らしい表情だった。

 ぼくが右手をかざすと、収束した意識場の一部が飛び、橙夜の四肢を縛り付けた。ぼくは一歩ずつ、ゆっくりと橙夜に近づいていく。リンネはどんな顔で見ているのだろうか。ふと、そんなことを思った。それからカスカのことを思い出した。カスカの記憶を思い出した。カスカの感情を反芻した。

 手を伸ばせば触れられる場所まで来た。橙夜は相変わらずその人間味溢れる目で、ぼくを睨みつけている。ぼくの右手には莫大な意識場が集まっていた。それはデバイスの出力限界を遥かに超えたものだった。橙夜の肩越しに、カストールとポルックスが無言で手を前にかざしているのが見えた。ぼくは右手を強く、強く握り締めた。

「消えてなくなれ」

その光で、橙夜の胸を貫いた。その瞬間、ぼくの右手に集まっていた意識場のエネルギーが一気に開放され、橙夜の意識体は跡形もなく吹き飛んだ。後にはただ、右手を前に突き出すぼくだけが残った。











 「済んだか。ユウ」

父さんが、そう言った。

「望み通り、人類の害は消してやった。それで。ぼくらに何を望む」

METROは言った。

「選択を。人類の在り方を決める、選択を」

ぼくはリンネを見た。リンネの力がすべての始まりであり、そして終わりでもある。ぼくはリンネの意思を知りたかった。ぼくの考える選択は、結局ぼくの頭の中にしかなくて、それは同時にリンネの意思を無視することにもなる。それは橙夜の考えていたことと何も変わらない。だからぼくは、『ぼくら』で決めたかった。

「リンネ」

ぼくはその名を呼んだ。リンネはゆっくりとぼくの方を見た。そしてリンネは、いつか自分の症状を話した時のように、滔々と語り始めた。

「わたしは、世界と人間に絶望しています。それは、今も変わりません。今は先生がいてくれるけれど、それでもやっぱり、世界は人を傷つけるものだと思います」

ぼくは黙って聞いていた。

「わたしの中には、世界中の人たちの悪意が集まっていました。それが集合的無意識の本来の姿じゃないとしても、人間の心はそうやって悪意に染まらざるを得ないんです。確かに人間は善とか悪とか、簡単に分類できるようなものじゃありません。誰だって善の部分も、悪の部分も持っているんです。その善悪の割合がどちらに傾くかで、善人か悪人か、決まるんです」

多義的存在としてのヒト。人間は天秤のようなものだと思う。リンネが言った。ぼくがリンネに向けていて、カスカに向けていたのは善意。反して、橙夜に向けていたのは、紛れもない悪意であり、害意であり、殺意。ぼくは世界に傷つけられた被害者だったかもしれないが、カスカの仇という大義を掲げた加害者にもなった。

「今のぼくはどっちだと思う」

ぼくは少し意地の悪い質問をしてみた。リンネは笑って言った。

「どっちも、です。先生は善人だけど、悪人でもあります。いつだってヒトは、重ね合わせの状態にあるんです」

感情を発露させ、外界に観測されてもなお、その重ね合わせは破れることがない。そういう意味では、箱の中の猫とはまた違った状態にあると言えるだろう。

「生きていれば、いいことも悪いこともある。わたしは家族を殺されました。ひとりぼっちで病院をたらい回しにされて、誰も助けてくれませんでした。だけど、先生はわたしを助けてくれた。それは、いいことでした」

リンネは言葉を続ける。

「三人でお散歩したり、写真を撮ったり、とっても楽しかったんです。でも、今度は淵守先生が。だから思うんです。やっぱり世界はどうしようもなく不均衡で、不平等だって」

リンネの言葉にはさっきのような強い罪悪感は感じなかった。カスカの遺志のおかげだろうか。カスカ。ありがとな。心の中で、礼を言った。

「希望と絶望は差し引きゼロじゃないと思うんです。最後にはプラスにもなるし、マイナスにもなる。世界が抱えているのは、そういう不均衡なんです」

「君はこれからどうしたい」

ぼくはリンネに訊いた。

「この不均衡を、正したいんです」

それは、ぼくと同じ答えだった。


 もしも神様とかいう奴がいるのなら、なぜ人間をこんな出来損ないの姿にしたのかを問い質したかった。ぼくは邪推する。そうしたほうが、神がコントロールしやすいからなのかもしれない。人間の心は、そして集合的無意識は、文字通り海みたいなものだと思う。潮の流れの違い、深さの違い、水温やそれに伴う生態系の違い、塩分濃度の違い。海は不均衡なシステムだ。けれど、総体としてそれはうまいこと機能を果たしている。その答えは完成したシステムだからだ。システムは常に自己を最適化させ、持続させるための解を導く。なら、人間の心の海である集合的無意識はどうか。海との違いはただ一つ、意識場という、そして心という不確定要素そのものがシステムを形作っているという点だ。もしも海のシステムが根本的にバランスを崩したとしても、数万年というサイクルでそれを修復してみせるだろう。なら人間は。人間の心のバランスが崩れ、人類世界のバランスが崩れれば、人間は自滅とも言える道を辿るだろう。悪意は特定の場所に吹き溜まり、そこから世界に向かって物理的害悪を撒き散らし始める。人間は弱い。心も弱い。そしてヒトの世はとても脆い。

 ぼくは人の心を知りたいと思った。人と心を通わせたいと思った。そして共感医になった。多くの患者を、社会へと送り出してきた。そしてリンネと出会った。リンネを助けることができた。カスカは親友だった。そしてリンネも大切な存在だった。あまりに少ないけれど、ぼくは確かに人と心を通わせることができたのだ。皮肉にも、共感を使わずして。

 けれどぼくは、集合的無意識の意識場の海で多くの孤独を聞いた。偏在する痛みを見た。人と関わることができずに、自分で孤独な死を選ぶ人を見た。人の輪から一度外れれば、二度と戻れないという絶望を見た。血を分けた肉親とすら、心を通わせることが出来ない諦観を見た。世界は、心は、孤独に満ち満ちていることを知った。誰かを知りたくて近づけば、その分だけ傷つく。まるで二匹のハリネズミのように、世界は葛藤で満ちている。


 「人間は、誰かに認識されないと存在を維持できないんです」

リンネが言う。それはリンネが孤独の中で見出した真理だった。

「先生は、空が何で青いか知っていますか」

考えるまでもなかった。

「必要とされるからだ」

リンネは笑って頷いた。

「もしも、人間が空と同じようになれたら、もう誰も孤独を感じなくていいと思いませんか」

リンネの望みを容易く体現してみせる空。青空。空気の青、海の青。必要とされる青。もしも、それと同じような存在に人間がなれたら。人は独りじゃない。それが、その言葉が、本当の意味での真理になる。

「答えは決まったみたいだな」

黙って話を聞いていた父さんが言った。ぼくとリンネは黙って頷いた。











 父さんは、ぼくらの選択を実行する前にふたつ必要なことがあると言った。まずひとつは、リンネの脳に投与されたナノマシンについて。色々なことがありすぎて、それはぼくの頭の隅に追いやられていた。橙夜は消え去った。だが、別の誰かがそれを利用しないとも限らない。それにここに来るにあたってそれはMETROが提示した条件でもある。ぼくとリンネはMETROの前まで歩み寄った。白と黒の双子と、間に立つ父さん。父さんはリンネに近づくと、二本の指で額に触れた。その触れた部分が、一瞬ぱっと光った。父さんが指を離す。

「ナノマシン自体はすでに脳と一体化している。除去は難しい。だがそのネットワークに干渉して、制御系を無力化した。これでもう誰も使うことはできない」

これでリンネは自由の身となった。リンネの心はリンネだけのものに戻った。橙夜が遺した最後の悪意は、こうして消え去った。


 もうひとつやっておくことがある。父さんが言う。もっともこれは必ずしも必要なことじゃない。だがお前たちがこれからも生きていく上で必要なことだ。ぼくが怪訝な顔をしていると、父さんは再びリンネの額に触れた。さっきと同じように光が生まれる。今度はその光が、リンネの意識体の全体を覆い始めた。ぼくはそれにただならぬものを感じたけれど、父さんが反対の手でぼくを制した。大丈夫だ。害を与えるわけじゃない。そう言った。

 光に包まれるリンネに、ある変化が起こり始めた。その姿が二重に見える。細胞分裂のように、リンネの意識体がふたつに分かれていく。一方はさっきまでのリンネ。そしてもう一方は。

「久しぶりね。藍咲先生」

『リンネ』は微笑みながら、そう言った。

「こうしてちゃんと会うのは初めてかな。わたし」

『リンネ』はリンネに向かって言った。

「わたしを、ずっと助けてくれたんだよね」

リンネが言う。父さんが言った『やっておくこと』。ぼくはそれに気づいた。そしてふたりのリンネも、それを理解しているようだった。

「あたしは、わたし」

「うん。わたしは、『あたし』」

ふたりのリンネは互いに手を取って、そう言った。

「ありがとう」

リンネが涙を湛えた目で『リンネ』を見る。

「そんな顔しないでよ。あたしはわたしの心の一部。見えなくなっても、消えることはないんだから」

リンネが何度も大きく頷く。その動きに合わせて涙が宙を舞った。

「先生、助けてくれてありがとう。これからも、わたしをよろしくね」

『リンネ』の姿が徐々に薄くなっていく。父さんはリンネの共感回路の機能を正常化したのだ。集合的無意識から悪意を選択的に拾い上げるその歪みを、正したのだ。それはつまり、もう『リンネ』の存在がなくても、リンネは正常な心を保つことができるということでもあり、『リンネ』との別れを意味してもいた。

 『リンネ』の体は透けていき、やがて見えなくなった。その最後の瞬間に、彼女が満面の笑みで頷いたのを、ぼくもリンネも、確かに見た。それで十分だった。











 お前たちがどんな決断をしようと、俺はそれを肯定する。カスカの遺志の中にはそんな感情があった。ぼくらは今、すべてを変える選択をしようとしている。だがその前に、ぼくはぼくに決着を付けなければならない。

「父さん」

ぼくはその目をまっすぐに見据える。あの時と寸分違わぬその姿。

「謝罪やら懺悔の言葉は後回しにしてくれ。ぼくは言いたことが山ほどあるんだ」

孤独。ひとり。家族。ぼくが欲しかったもの。喪ったもの。

「ぼくは、産まれてきてよかったのか」

核心。そして確信。不確かな疑念。リンネに向かい合っていた父さんは、ぼくの方に歩み寄った。

「ぼくは、ぼくでよかったのか」

嗚咽。情けないと思いながら、抑えられない。

「ぼくは寂しかったんだ。ずっと独りだったんだ。おじさんとおばさんはぼくを邪魔者扱いしていたし、施設でも独りだった。なんでだ。なんで父さんはぼくを置いていったんだ」

決壊したダムのように流れ出る感情と言葉。ぼくの意識体は、いつの間にか子どもの姿になっていた。ああ、そうか。これがぼくの『内なる子供』。ぼくと父さんの姿は、まさにあの日と同じものだった。父さんはぼくに目線を合わせるようにしゃがみ込み、そして話し始めた。

「あの向日葵畑を覚えているか」

頷く。

「あの時、私はすでにMETROの統治者となるのが決まっていた。それは決定ではなく、命令に近かった。私には研究者としてそれを拒否することは出来なかった。だが、少し懺悔をさせてくれ、父親としてはそれを拒否するべきだったんだ」

父さんはぼくの頭に手を置く。

「お前の母さんはな、お前が物心付く前に事故で死んでしまったんだ。それから私は、お前を育てながら研究に没頭したよ。喪失を埋めるかのようにね。だがお前ももう知っている通り、心の穴はそう簡単には埋まらない。むしろもっと心を要求してくる。だから私は、その穴が求めるままに心を消費していった。お前を研究室に連れて来て仕事をしていた事もあった」

ポイントアルファより以前の記憶。ぼくにはもうない記憶。

「お前を心から愛していた。同時に、自分の仕事にも誇りを持っていた。私には、そのうち片方を切り捨てることなんてできなかったんだ。だから統治者に決まった時、私はとても悩んだ。悩んだ結果、METROを取ってしまった」

ぼくは、切り捨てられた。

「だから最後に、お前と約束をしたんだ。意図しない形ではあったが、お前との約束はこうして果たすことができた」

「ぼくはモルモットにされたんだぞ」

「すまなかった。辛い思いをしたな」

「父さんはぼくを棄てた」

「そう捉えられても仕方がないな」

子どものぼくは、父さんの肩に両手を振り下ろした。何度も振り下ろした。父さんはそれを優しく受け止めながら、ぼくにそう言った。ぼくはそれから、いかに自分が辛い思いをしたか、寂しい思いをしたか、父さんに激しく感情をぶつけた。父さんはそれを受け止めて、最後には強く抱きしめてくれた。

「お前はもうひとりじゃない。そうだろ」

リンネがいる。そして、カスカの遺志がある。

「お前は誰かに必要とされているんだ。だから生きなさい。その誰かのために。そして自分のために」

ぼくの意識体は、その言葉に呼応するようにもとの姿に戻った。父さんが頷く。ぼくも頷いた。それで、十分だった。












 世界を形作るのは人間。だとすれば、世界が間違っているのは、人間のせい。父さんがぼくを置いていったのも、リンネが家族を奪われたのも、カスカが死んだのも、そしてきっと、橙夜が世界を呪ったのも。世界とは人間であり、人間とは世界だ。世界が変われば人間は変わる。人間が変われば世界も変わる。そして今、ぼくらはそのどちらもを変える力を手にしている。そのどちらもを変えうる選択をしようとしている。

 橙夜は確かに敵だった。カスカの仇であり、リンネに害をなす者だった。だからぼくは復讐を果たした。動機はいたって個人的なものだ。橙夜が人類を滅ぼそうとしていたから止めたのではなく、自分の愛する者を傷つけたから消した。ぼくは世界を救うつもりはなかった。結果として、世界を救ったことにはなったとしても。では本当の敵とはなんだ。橙夜は確かに敵だった。けれど橙夜を本当の敵と呼ぶことには、やはり違和感があった。

 ぼくは心を治す医者だ。患者たちを傷つけてきたのは、いつだって社会であり、世界だった。ぼくを、リンネを、カスカを、父さんを、そして橙夜を傷つけ、追い詰めたのもまた、世界だった。だとしたら、本当の敵とは。

 ぼくらは世界に完璧さを求めていた。誰も孤独に泣くことのない世界。誰も理不尽に傷つかなくてもいい世界。それは痛みや苦しみのない世界とは少し違う。痛みや苦しみの存在を消すことはできない。それらのない世界とは、すべてが平坦で、変化のない固定された地獄だ。ぼくは痛みの存在そのものを否定したいわけじゃない。ただそれが、特定の誰かにだけ降りかかることが赦せないだけなんだ。

 

 ぼくはリンネの手を取った。自分の意識をリンネと共感させる。ぼくの心を受け取ったリンネは、少し考えたあと、ぼくの目を見て話し始めた。

「先生は、神様っていると思いますか」

万物を創り、万象を司るもの。

「いて欲しいと思った。だけど、きっと、いない」

神は人知を超えた完璧さを持っていなければならない。ゆえに、神の創造物は完璧でなければならない。だとしたら、この世界の不出来さが、人間の不出来さが、そのまま神の不在の証明ではないか。

「わたしも同じ。いて欲しかった」

人間を傷つけるのは、いつだって人間であり、人間が作る世界だった。ぼくらは世界に失望していた。ああ、きっとこれは、橙夜の考えていたことと同じなのかもしれない。そして今からぼくらがしようとしていることも、橙夜のそれと大差ないのかもしれない。どんな小奇麗な大義を掲げたって、その根底にある動機が同じなら、それは何も変わらない。けれど、確かに言えることがあった。ぼくもリンネも世界に失望している。だけど、それでもまだ期待する気持ちがあった。希望の存在を期待する気持ちがあった。それは自己を正当化しようとする詭弁かもしれない。だとしても、ぼくらは自分の意思を正しいものだと、信じきる義務があった。それが選択を託されたものの、あるべき姿だった。

「ぼくは傲慢だと思うか」

リンネに訊く。

「人間の世界を作るのは、人間の心です。みんなその一部です。だから、それを変えたいと思うことは、変える権利は、誰もが持っているものだと思うんです」

人間の持つたったひとつの平等。世界を変えたいと思う権利。変えようとする意思。

「だから、みんな傲慢なんです」

リンネは笑って言った。


 ぼくはデバイスを起動させた。リンネと共感し、そこから得られた集合的無意識の情報を元にコードを組み始めた。父さんと見た向日葵を想起した。それから青空。再会の約束は果たした。そしてぼくは言いたいことを言った。父さんと話ができた。ぼくは父さんに棄てられたと、ずっと思っていた。父さんがぼくに孤独を押し付けたと思ってきた。その思いは今でも完全に払拭されたわけではない。けれど、その時の父さんが何を考え、何に葛藤していたかを知ることができた。だから、それでいい。ぼくは確かにそう思った。

 養親の家を思い出した。そこにいた犬を思い出した。名前はもう、思い出せない。でもそいつは、ぼくの友達だった。それから施設を思い出した。あの子のことを思い出した。『辛い思いをしている人』を、今もどこかで助けている彼女を思った。

 意識場を逆流させ、共感回路に干渉するメソッドを組み込む。人は誰もが集合的無意識の一部だ。本当は皆、ひとつに繋がっている。けれどそれは無意識のものだから、気づくことはできない。だから人は孤独に傷つく。リンネは言った。青空と、必要とされるがゆえの青と、同じ存在になれたら。

 集合的無意識をデータベースと捉え、そこから特定の感情を拾い上げる。リンネはずっと、人間の悪意の器だった。偏在する悪意を、その身に背負わされていた。橙夜はそれを世界に撒き散らそうとしていた。もしかしたら形は違うけれど、ぼくが今やっているのも同じことなのかもしれない。

 集合的無意識への接続プロトコルを設定する。人間の感情が創りだす海。痛みや苦しみは希釈され、多様な心が空に無色の虹をかける。世界の不均衡を、そして不平等を正すための、たったひとつの冴えたやりかた。


 コードが完成した。これですべての痛みと苦しみは集合的無意識の中に均等に拡散し、同時に全人類の共感回路の覚醒が始まる。ぼくとリンネと、そしてたぶん、カスカの願い。世界の不均衡は矯正され、誰もが集合的無意識を通じて自分が世界と繋がっていることを感じられる。橙夜とMETROはリンネの能力と共感回路を、人類の進化だといった。なら、ぼくが作ったこのコードはそれを後押しするもの。あとはこれを集合的無意識に打ち込むことで、すべてが終わり、変わる。人間は本当は誰もが世界の一部だ。だから世界を変えたいと思う傲慢さは、肯定されていいものなのだとリンネは言った。ぼくらは世界に失望している。それと同時に期待もしている。世界をより良くしたいと思う一方で、自分たちを傷つけ続けた世界に報復をしたいと思う気持ちもある。ぼくとリンネは、そのどちらもを成そうとしていた。選択には責任が伴う。だからぼくとリンネには、この世界を見届け、関わり続ける義務があった。


 リンネ、カスカ、橙夜、父さん。そしてこれまでぼくが送り出してきた患者たち。人間の脳が発生させる意識場と、それを応用した共感技術。変わっていく社会。終わっていく世界。夏の青空。誰かひとりだけが苦しまなくてもいい世界。誰も孤独に泣かなくてもいい世界。ぼくとリンネの答え。そしてカスカの遺志。

 ぼくらが想起したそれらの記憶と感情に呼応し、周囲の意識場が集まってくるのを感じた。それらはぼくらを迎えているようにも、救いを求めているようにも見えた。その意識場の奔流の向こうに、父さんの顔が見えた。あの時と同じ顔。果たせた約束。父さんが口角を上げて小さく頷いた。ぼくも同じように頷く。言葉はもう必要ない。光の奔流がすべてを塗りつぶした。











 ぼくとリンネは青の中にいた。それはちょうど、雲もない高層の空のようにも見えた。集合的無意識は、人類の総意は、ぼくらの思いに呼応してこの風景を見せている。今まさに終わろうとしている世界。そしてぼくらが作ろうとしている新しい世界。リンネはせわしなく首を動かして、辺りを見回している。

「静かですね」

「ああ」

ぼくはリンネの手を握ったまま、そう答えた。声が不思議な具合に反響する。

「リンネ」

「なんですか」

共感を使えば言葉は要らない。でも、大事なことは言葉で伝えたかった。

「ありがとな」

リンネは不思議そうな顔をしている。

「ぼくの処に来てくれて、ありがとう」

リンネは大きく目を開いたあと、いつものように柔らかく笑った。

「先生」

「なんだ」

リンネの口が言葉の続きを紡ぐ。その言葉は、ぼくの心に確かに入っていった。ぼくは頷いて答えた。


 ぼくとリンネは青の中に浮かんでいる。ぼくらの繋いだ手に、強い光が生まれた。ぼくとリンネの意識場、それにデバイスを使って組み上げたコード。世界を変える魔法の呪文みたいなもの。ぼくとリンネとカスカの、希望と失望、喜びと怒りの集積。世界に対するぼくらの宣言。もしくは宣戦布告。繋いだ手を掲げる。光は、まさしく光の速度で打ち上がり、天高く登った後夏の花火のように弾けて拡散した。光が世界に降り注ぐ。ぼくとリンネは、それをしっかりと目に焼き付けた。ぼくらの中にあったのは、祈りのようなものだった。






そしてその夏、世界は終わった。

 








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ