13.無色の虹
本当は、始まりも終わりもきっとない。
円環っていうほどじゃないけれど、
物事は相転移のように連続している。
だから、悲しむことはないさ。
在り方は変わるが、存在は続く。
それはきっと、確信みたいなもの。
それはきっと、希望のようなもの。
◆
話したいことがたくさんあった。言ってやりたいことも山ほどあった。けれどぼくの中に飽和するそれらは、口から出るにはあまりに大きすぎた。ぼくがそんな風に膨大な感情に戸惑うなか、父さんが話し始めた。
「今更どの面下げて、と言われることは承知だが、私はお前たちに話しておかなければならない。選択肢を与えなければならない」
ぼくと同じ癖毛の頭を搔きながら、白衣を着た父さんが言う。その風貌はポイントアルファで見た、向日葵畑の情景と寸分違わぬものだった。
「生体ユニットとなった今の私にとって、意識体の外見とはコミュニケーションを円滑に進めるためのツールなんだ。ユウ、お前が私の事を認識できるような姿を選んだ」
「父さんがシステムの一部に」
ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。父さんは少し考えこんだような素振りを見せた後、答えた。
「簡単にいえば、適合したからだ。私の前頭前野の発達は特異な方向性を持っていた。お前にもそれが遺伝している。心当たりがあるんじゃないか」
異常なまでの共感適性とデバイスへの適合性。そして、形象化。それはぼくを形作る異常さすべての解答だった。
「当時のMETROはそれを取り込むことでさらなる深化が見込めた。理由としてはそんなところだ」
それは一切の詮索も、邪推も、質問すらも受け付けないような明晰な説明だった。ぼくは思わず口をつぐんでしまった。相変わらず頭のなかには綯い交ぜの感情が渦巻いている。父さん、なんでぼくを置いていったんだ。ぼくがどんな思い出この十数年を生きてきたと思ってるんだ。そんな恨みとも愛着ともつかない複雑で多義的な感情はしかし、ついにぼくの口から出ることはなかった。わからない。目の前にした現実との乖離を感じる。
「お前をデバイスの被験者にしてしまったのは、私のミスだ。お前が目をつけられることはわかっていたはずなのにな。すまない、防ぐことができなかったんだ」
METROは研究者に許可を与えるシステムではない。たとえMETROの化身がノーを突きつけても、研究者たちは意に介さずその行為を続行させるだろう。教授が、橙夜がそうであったように。父さんはすまないと言った。くそったれ。今更父親ヅラをしやがって。そう思う一方で、あの日の再会の約束を果たせたという充足感が同時に湧き起こる。それはぼくにとってもどうしようもない葛藤であり、二律背反であり、矛盾だった。
「もういい。もういいんだ。それで、話したいことって何だ」
ぼくはそう言うのが精一杯だった。
「まずお前の脳に移植されたデバイスのことについて」
父さんは人差し指で自分の額を突いてみせた。
「正式な名称は深意識領域探索用ナノマシンネットワークという。本来の目的は共感適性の極めて高い人間の脳を媒介として、意識場の深層領域を探索、観測することにあった。共感現象の発現や意識場の出力増幅はあくまで副次的な機能でしかない」
橙夜は言っていた。デバイスにはおそらく別の目的がある。それはあっさりと明かされてしまった。驚きはない。なんとなくそんな気はしていた、という気持ちだ。むしろその事実を知ってなお、どこか冷めている自分にこそ、驚きを感じずにはいられなかった。ぼくはまっすぐに父さんを見据えている。その両隣には白と黒の少年がいる。まるで、あれが本当の家族だと見せつけられているようで、ぼくはどうしようもなく遣る瀬無い気持ちになった。
「もうひとつは、集合的無意識についてだ」
父さんはリンネに視線を向け、言った。カストールとポルックスは言っていた。悪意の集合体は集合的無意識の一側面でしか無い。本来のそれは多義的感情が形作る無色の海なのだと。
「そうだ。ゆえに世界は絶望に満ちているわけではない。けれど希望に満ちているわけでもない。お前たちにはその本当の姿を見て、感じた上で、人類の行く末を選択して欲しい」
「勝手な言い分だな、父さん。リンネをシステムに組み込むことを前提にしているように聞こえる」
父さんは少し困ったように、くしゃりとした髪を搔きながら言った。
「そうは言っていない。お前たちの在り方はお前たちが決めなさい。私は、METROは、それを見届けてから判断を下す」
父さんはそう言うと、リンネに向かって手をかざした。
「御門リンネ。君の力を少し借りるよ」
リンネは黙って頷いた。それを合図に、ぼくらのいる空間に光が溢れ始めた。ぼくらの肩に唐突に乗せられたのは、人類の行く先。その選択をせよと、父さんは、そしてMETROは言っている。ぼくにはその意図が読めずにいた。光がぼくらを塗りつぶしていく。やがてすべての形は溶け、そこにはただ白い光だけがあった。
空間の発光が収まり、ぼくは目を開いた。そこには緑の光が網の目のように走る光景が広がっていた。宇宙の大規模構造、もしくはニューロンネットワークのように。これが。
「そうだ。これが集合的無意識の本来の姿だ」
足元には水鏡のような地面が広がり、ぼくらの姿と光の集合を写しだしている。無色の海。言い得て妙だとぼくは思った。色を塗り重ねていった結果、辿り着いたのが色のない世界とは。逆さの空で見た彼岸の世界とはまるで違う。多様でありながら純粋。人間の多義性の具現。
「周りの意識場を少し読んでみるといい。今のお前たちにならできるはずだ」
子どもが乗る自転車に添えた手を離すかのような調子で、父さんが言った。世界は絶望だけで出来ているわけではない。それが真実だと、今なら確かめられる。ぼくは周囲を飛び交う光に向かって手を伸ばした。そのひとつが吸い寄せられるように近づき、手に触れた。
ぼくの意識に感情と記憶が流れ込んでくる。共感中のフィードバックとは違う、なにかもっと穏やかで緩やかなものだ。見えたのは、誰かの視界。目の前で少年が本を読んでいる。これは、ぼくか。
「わたしはね、将来共感を使うお医者さんになりたいんだ」
ああ、これはあの子の、施設でひとりぼっちだったぼくに、共感を教えてくれたあの子の意識だ。あの時わからなかった彼女の感情が、今では自分のものとして感じられる。慈愛に満ちた優しさ。彼女はぼくのことを憐れむのでもなく、同情するのでもなく、ただそうしたかったからという理由だけで関わってくれたのだ。記憶が現在に向かって進んでいく。彼女が施設を去った後。ぼくが知らない、今の彼女。大学の風景。友達と談笑する感覚。楽しさ。人と分かり合う喜びに満ちている。さらに時間が進む。何かの研究所か病院のような場所。分厚いドアの向こう、ふたつの大きな椅子のような機器。ああ、そうか。あの子も共感医になれたのか。ぼくの知らないどこかの病院で、彼女はきっと今日も『つらい想いをしている人』を助けている。良かった。安堵に似た感情がぼくを包み込む。やがて引いていく波のように、彼女の意識場はぼくの手を離れていった。
別の光が手に触れ、記憶と感情が再生される。目の前には、ぼくの顔があった。診察室に差し込む朝の光。佐駅ユウコさん。記憶の中のぼくは、視界の主にそう呼びかけた。リンネと出会う前の日、今となっては果てしない過去のように思えるその日の記憶。視界が移動する。施術室に向かっているのだ。彼女の感情が流れ込む。莫大な不安、そして一粒の期待。必死にすがるような、そんな想いを感じる。記憶の中で共感治療が始まった。ホワイトルーム。無意識階層への階段。徐々に薄れていく意識。ここから先は、ぼくの知らない世界だ。フェイズシータにおける主観情報は本人にしか体感できない。ぼんやりとした意識の中、古い家の部屋が現れた。低い目線。子供時代の彼女。目の前には母親がいる。それから父親、そして祖父。それは彼女が痛みを知る前の家族の姿だった。彼女の中にあったのは、得意げな感情だった。すぐに別の記憶が想起される。そうか、テストで良い点を取ったんだな。祖父は満足そうな表情を浮かべている。母親は身をかがめると、彼女の頭を優しく撫でた。笑顔だった。彼女が自分の存在を肯定してもらえた瞬間だった。たとえそれがテストの点という条件付きの愛情だったとしても、その時の彼女はとても嬉しかった。彼女の意識場と共感しているぼくの意識に、春の日差しのような暖かい感覚が流れ込む。けれどぼくはそれが少し悲しかった。条件付きの愛情。子どもはそんな概念、理解できない。だから無条件に褒められたと喜ぶ。それがいたたまれなかった。それでも、彼女がぼくとの共感治療中に幸せだったと思える瞬間を想起できていたことが、せめてもの救いに思えた。ふたたび意識場がぼくの手を離れていく。
周りの意識場に気を取られていて、リンネのことを忘れそうになっていた。隣を見ると、リンネもぼくと同じように周囲の意識場と共感をしているらしかった。リンネは何を見たのだろうか。何を感じたのだろうか。安息の場所を奪われ、世界から切り離された少女は、今まさに文字通り世界と繋がっている。リンネはぼくの視線を感じたのか、こちらを見た。少し見つめ合った後、リンネはにっこりと微笑むとぼくの手を取った。繋いだ手から、リンネが共感した人々の意識が入ってくる。喧嘩をした子どもたち。仲直りをして夕日の道を別れる。学校の放課後。振られた男子の失意。クラスでのいじめ。虐待。やせ細った体で、海を眺める少女。自分を殴る恋人。交通事故。ボロボロで病院に担ぎ込まれる。長い昏睡の果て、家族との再会。不均衡に、不平等に偏在する絶望と希望。悪意と善意。そして、幼い少女を見下ろす視線。その向こうには青空と黄色い絨毯。家族写真。リンネの父親の記憶。命に変えてもリンネを守りたいという意思を感じる。愛されていたリンネ。世界中の誰もが敵に回っても、自分だけはリンネの味方でいるという決意。リンネの両親。失われてしまった世界。
リンネがゆっくりと手を離した。さっきと同じ柔らかな微笑みだが、その大きな両目からは静かに涙が流れている。それはきっと悲嘆ではなく、別れの涙。両親の記憶と共感して知った、彼らの心。唐突に家族を奪われたリンネにとって、十分にそれを悲しみ、別れを告げることは叶わなかったはずだ。今、それがようやく成し遂げられた。リンネはやっと、両親に別れを言えたのだ。ぼくはリンネの腕を取り、体を寄せるとしっかりと抱き締めた。リンネはぼくの背中に腕を回し、柔らかく力を込める。ぼくらはしばらくそうしていた。空間にはただ、光が満ちていた。
やがて周囲の光の集団から、一際明るい光の粒がぼくらの前に現れた。ぼくはリンネから離れると、その光に向き直った。それはまるで分裂していく細胞のように動きながら、やがて人の形を取った。カスカだった。
「よう」
カスカはいつものように、片手を上げてそう言った。ぼくはかつてないほど、心の底から安堵した。よかった。ほんとうに、よかった。カスカ。ぼくはカスカの名を呼ぼうとした。
呼ぼうとした、その時だった。目の前のカスカの体のあちこちから、赤いものが滲んでくる。それはまるで。まるで。上手く息が出来ない。意識体のくせに体が言うことを聞かない。ひゅうひゅうと、妙な喘ぎだけが口から漏れる。
「すまん」
カスカの体から流れた赤は体を伝い、その足元の水鏡を同じように赤く染めていく。なんで。どうして。意味のない言葉しか出てこない。
「よかったよ。お前たちだけでも無事に逃げられたみたいだな」
「なんで。なんでだよ」
衝動に身を任せるように、そう叫ぶ。
「今の俺は残留意識場だ。幽霊みたいなもんだな。お前たちの意識に引き寄せられてここに来た」
そのボロボロの体とは裏腹に、カスカは何でも無いといった風に冷静にそう言う。カスカはリンネの方を見て、心底すまなそうに言った。
「悪いな。約束、守れなくて。せめて藍咲と二人で」
「いやです」
リンネもまた、涙声で叫んだ。
「わたしの、わたしのせいで。淵守先生。わたしのせいで」
リンネは懺悔の言葉を、まるで呪詛のように繰り返す。自分自身を呪うかのように。
「いいや。君のせいじゃない。俺も藍咲も覚悟の上でやったことだ。君は何も悪くないんだ」
カスカの声には、今まで聞いたことがないような優しさが篭っていた。その声で、何度もリンネに言い聞かせる。気にするな。君は何も悪くない。そうだ、悪いのはあの連中なんだ。橙夜。許さない。明確な殺意がぼくの中で蠢き始める。不意にカスカがぼくを制するように手を差し出した。
「藍咲。今は落ち着け、といっても無理だろうが、とにかく俺の話を聞いてくれ」
カスカが掌を上に向けると、そこに丸い光の球が現れた。
「俺の記憶と感情をお前たちに託す。生憎もう時間がなくてな。ここにすべてを込めた」
光の球はカスカの手を離れると、ゆっくりとぼくとリンネに向かって近づいてきた。
「ああそれと、あのバイクだが。お前にやるよ。大事にしてやってくれ」
馬鹿野郎。こんなときに、そんな。それでも、それがカスカの遺志だった。ならばとぼくは頷いて見せよう。それを見たカスカは小さく笑うと、いつも別れるときにするように、片手を上げた。その体が、流れた赤い血も含めて、光に変わっていく。やがてそれはカスカの形を失い、周りの光と同じように不安定に瞬きながら、遠く飛び去っていった。ぼくとリンネの目の前には、カスカが遺していった光だけが残った。父さんと双子は離れた場所からその様子を見守っている。ぼくはリンネの顔を見た。泣き腫らした顔で、リンネが頷く。ぼくらは手を伸ばし、その光に触れた。
◆
カスカ、正確には少年の彼は、家族と暮らしていた。父親と母親と小さな弟。それは確かに家族の形をしていた。けれどそれは家族にあるべき機能を果たしていなかった。カスカは小さな弟の面倒を一人で見ていた。両親は自分の子供達にまったく関心を示さずに、むしろどこか邪魔者として思っていた。その感情の根源がどこにあるのか、幼い彼には知る由もなかった。ただなんとなく、自分と弟はいてはいけない人間なのだと、誰に教えられたでもなく、面と向かって言われたでもなく、そう感じていた。だがそれでも彼が生きていたのは、小さな弟がいたからだった。両親は何もしない。だから必然的に弟の命の運営は、自分が担わなければならなかった。カスカは子どもであり、兄でありながら、同時に親でもあった。それがいかな重責だったかは、想像に難くない。ここにも、絶望が偏在していた。
カスカの寡黙さは、こうして形成されていった。弟の面倒を見るという、本来は親が担うべき役割を押し付けられた彼は、子供らしく振る舞ったり、わがままを言ったり、泣いて笑ったり、そういういろいろを手放さなければならなかった。いつしか彼は諦めた。抵抗は無駄だと、抗うことに意味はないと、子どもながらに悟ってしまったのだ。彼は『恵まれない子どもたち』のように飢えていた。ただしそれは食事という意味ではなく、感情に。彼は感情に飢えていた。心に飢えていた。そして愛に飢えていた。だからその心中には、人から心を受け取ることを諦めると同時に、それと相反する、他人の心への渇望があった。
今にして思えば。カスカの感情が脳に流れ込む。俺の両親はきっと精一杯だったんだ。自分を守るために精一杯で、俺たちに構う余裕なんて、きっとなかったんだ。ぼくとリンネはカスカの記憶を、そんな俯瞰した解説のような声と一緒に追体験していた。
家族の食卓に会話はなかった。だから彼にとって食事とは、団欒ではなく、あくまで生命維持のために必要な本能的行為としてそこにあった。ここにも諦めがあり、痛みが偏在していた。彼は学校でも寡黙な少年だった。けれど決してそれが彼を孤独にしたかと言えば、そういうわけでもなかった。彼はただ静かだった。それは決して誰とも口を効かず、休み時間といえば本を読みふけるといった類いの静かさではない。誰かが話しかければ、ぎこちなくではあるがそれに答え、関わる者には温厚に接し、傍から見ればそれは実に人当たりのいい印象だったに違いない。けれどその瞳の奥にふいに現れる『静か』を、同級生たちは理解できなかっただろう。それは子どもが持つべきものではない。カスカはそれを持たされた。持つことを強いられた。
カスカにとって、自分の家族がそのまま家族という言葉の定義だった。だから学校で同級生たちが、先週末はどこそこに家族で行ったとか、親に叱られたとか、そんなふうに各々の家族の話をするのを、どこか不思議な心持ちで聞いていた。それは彼の家族の定義とは違うものだった。彼の知らない世界だった。しかし子どもであることを諦めさせられた少年は、それを羨ましがることも、妬むことも、まして自分の家族を悪く思うこともなかった。ただ、そうあるから、そうなのだ。おそらくは大人ですら達することのできないひとつの境地。カスカはそれを直感で感じていた。
ある時、カスカの弟が死んだ。事故だった。カスカの目の前で、弟は車に轢かれて死んだ。葬式で両親が泣くことはなかった。それは大人特有の気丈さとか、責任感とか、そういうものではなく、そもそも自分の子どもの生き死ににすら関心がないような風だった。カスカは悟った。自分が家族にいる理由と意味と役割を喪ってしまったことに。彼の中は空っぽになった。葬式に来た大人たちは、カスカの気丈な振る舞いを心の中で褒めていた。あの子は小さいのにしっかりしていて。誰かが無責任に、そう言った。それは、別にそうしたかったからしたんじゃない。そうすることが、自分に与えられた絶対命令だったから、そうしただけだ。
カスカが感じたとおり、弟の死によって、家族から彼の場所は無くなった。以前にも増して両親は冷淡に接し、その存在を暗に否定し続けた。けれどせめて幸いだったのは、両親がカスカを責めなかったことだ。弟が死んだことにすら無頓着だった両親は、その責任をカスカに押し付けることはなかった。だからカスカは、身の丈以上の罪を背負わされることがなかった。せめてもの、救いだった。
ある時、カスカはドキュメンタリー番組を見ていた。その頃はちょうど医療共感の運用も軌道に乗った頃で、信頼の置ける治療法として世間に認知されていた。彼が見ていたのは、一人の患者とその家族、そして共感医が登場する、よくあるタイプの病気とその克服をテーマにしたものだった。高校生だったカスカはそれにクギ付けになっていた。共感という概念自体は、学校でも習うようになっていたし、世間でも共感機器が出回っていたから、当然知っていた。けれど高校生の少年は医療共感については無知だった。それは自分の知らない世界だった。カスカは共感に大きな興味を抱いていた。人の心と直接に触れ合う技術。それは奇しくも、彼が心の中に抱えるもっとも強く、大きく、純粋な願いを叶えるものだった。そして少年は、その番組を見て新たな世界を知った。共感による精神疾患の治療。彼の行く先は、そこで決まった。
カスカの両親は、教育についてもまた無関心だった。だからカスカには首席の成績を叩き出し、多額の奨学金を手に入れるほか、道はなかった。カスカはそうして大学を卒業した。そして医師免許試験と、それに続く共感適性検査に望んだ。結果はどちらも合格。彼には嬉しいという感情よりも、これで先に進めるという実感が先行していた。彼は粛々と物事を進めた。彼は自身の共感適性分析の結果を受け取った。共感医としての適性はあったけれど、それは決して良い数値ではなかった。ならばと彼はもう一つの道、すなわちセラピストの道を選ぶことにした。そこに悔しさはなかった。結果として人の心を理解し、治す仕事ができれば、それでよかった。幸いにしてセラピストとしての適性は、その年のトップと言ってもいいくらいに高く、それも彼の背中を押した。
程なくして研修生となった彼のもとに、ある連絡が入った。研修所の母体となる組織の人間からの呼び出しだった。怪訝に思いながら、彼はそれに従い、ひとりの教授の前に出た。ぼくにとっても見覚えのある顔だ。教授はカスカに言った。研修終了後、この男とバディになってほしいと。それは提案ではなく、命令だった。けれどそのときの彼には、別段断る理由はなかったし、拒否する気持ちもなかった。彼は承諾し、その男の資料を受け取った。
資料を読めば読むほど、彼には信じられないという感情が芽生えた。藍咲ユウ。最重要被験体。深層意識干渉制御デバイス。異常な共感適性。前頭前野の異常発達。そして来歴。藍咲ユウ、すなわちぼくを構成する属性をひとつひとつ手に取り、眺める内に、彼の中に生まれたのは親近感だった。父さんはあんな感じだから実質カウントしないとして、ぼくには家族がいなかった。ずっと一人で養親の家やら養護施設やらを転々としてきた。反して、カスカには家族がいた。けれどそれは家族の形をした、ただの形骸だった。彼もまた、ひとりだった。だから彼にはひとつ、この男に確かめたいことがあった。
午前の座学が終わった昼時、その男がいるという話を聞いて、彼は食堂に向かった。画像で見たその顔は、窓際のテーブルでつまらなさそうに焼き魚をつついていた。彼はゆっくり近づくと、向かいに座って話しかけた。君のバディに内定したと。相手はこの時期にバディが決まることに怪訝な様子だったけれど、同時に何かに納得したようでもあった。ふたりはお互いについて話し始めた。大事なことは一番最初に。だから彼はまず、自分の動機を明かした。俺は人の心を知りたい。人と分かり合ってみたい。それを聞いた相手は、目を丸くしていた。やはり見当違いだったか。少しがっかりしかけたとき、相手がおずおずと言葉を発した。
「ぼくは、ぼくも、人の心と繋がりたいんだ。本当の意味で分かり合ってみたいんだ」
彼の期待は裏切られなかった。その来歴から、もしかしたら自分と同じことを考えていたのかもしれないという彼の希望は、見事に現実になった。だから彼は、不器用な彼は、その精一杯の真摯さでもって、右手を差し出した。
◆
カスカの記憶は続く。ぼくと二人で何人もの患者を治療してきた日々。そしてリンネとの出会い。リンネとぼくとカスカの日々。三人で取った写真。そして現在。遺志。
ぼくはカスカの境遇を知らなかった。もともと自分の話をしたがるような奴ではなかったけれど、何か触れるのが怖い気がして、訊くことができなかった。それをこんな形で知ることになったのは、とても残念なことだった。リンネは隣で静かに涙を流している。ぼくも気づけば涙を流していた。ぼくらの中にあったのは、圧倒的な喪失感だった。カスカは死んだ。いや、殺された。ぼくの大事な友人は、奪われた。喪失感と爆発的な怒り。ぼくの脳はきっと、めちゃくちゃにかき回されたみたいになっていたはずだ。よく大切な人やものをなくすと、心にぽっかり穴が空くという表現をする。概ね同意だが、少し付け加えたい。心に空く穴はブラックホールだ。その強大な重力でもって、残った心の部分も飲み込んで、やがてすべてを虚無にしてしまう。ブラックホールは最期を迎えた星の姿だ。だからぼくにとって、そしてリンネにとっても、カスカは恒星のように圧倒的で掛け替えのない存在だった。だった。そう過去形で思考する自分に腹が立つ。なにか、もう、めちゃくちゃにしてやりたい気持ちが心を支配する。
それでもぼくは、冷静に敵を見据えようとしていた。カスカは最期にリンネに言った。君のせいじゃない。俺も藍咲も覚悟の上だったと。そうだ。その通りだ。リンネは何も悪く無い。リンネは巻き込まれた被害者だ。そしてリンネを被害者にしたのは橙夜アケル。本当の敵は奴だ。本当の敵。その響きには少し違和感があったけれど、今はとにかく。
「橙夜アケルの行動を野放しにしたのはなぜだ」
ぼくは怒りを込めながらも、なるべく冷静に、METROに向かって問うた。
「もちろん問題視はしていたよ。ただボクらの力はまだ人間の行動を直接制御できる段階にないんだ」
カストールが答えた。ポルックスが言葉を引き継ぐ。
「ただし、今回の一件で橙夜アケルに対するMETROの判定は更新されるだろう」
橙夜は自分の過去を明かして、ぼくらに理解を求めてきた。ぼくはそれを泣きわめくガキだと一蹴した。そのガキに、カスカは殺された。METROの裁定なんてもうどうでもいい。ぼくは復讐という目的も、手段も、否定しない。復讐は悪だという偽善的な言葉で、自分を、他人を諌めるも慰めるのも嫌だった。
だからぼくは、この手で。
「殺すんですか。僕を」
METROとぼくらの間に、その姿が現れた。




