12.双生の星
きょう-かん 【共感】
[名](-スル)
他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。
また、その気持ち。
◆
METROシステムを名乗ったその声は、ぼくの端末に座標データを送ってきた。目で端末を操作し、地図と照合する。現在地から一時間弱。街から離れた山中を指していた。
「君と御門リンネ。ふたりでそこに来て欲しいんだ」
橙夜のそれとも違う、感情の起伏を感じない声がそう告げる。METROシステムが人格を持っているなんて話、聞いたこともない。普通に考えれば、これは橙夜の側の人間が仕組んだ罠だ。しかし。
「違うよ。藍咲ユウ。ボクは嘘は言わない」
ぼくの疑念を読んだのか、声は続けざまにそう言った。
「読んだ。確かに適切な表現ではあるね」
こいつ、ぼくの思考を本当に読み取っているのか。
「そうだよ。デバイスを介して君の思考を読んでいる」
は。いつかのように間の抜けた声が出た。デバイスを介して思考を読む。そんな芸当ができるものがいるとすれば、それは本当に。
「理解できたかな。ボクは嘘は言わない」
だが、相手が本当にMETROだったとして、ぼくがこの状況で素直に従う道理はない。
「もちろん無条件に従えとも言わない。御門リンネに埋め込まれたナノマシン。その完全停止を約束しよう」
声は確かにそう言った。自分の思考が筒抜けになる気味悪さを感じずにはいられない。しかし先の見えない現状、それはたったひとつの道に思えた。リンネの脳の外部制御装置。その最後のスイッチは依然橙夜に握られている。いつそのボタンが押されるとも限らない。ならば、取るべき道はやはりひとつだった。ぼくはナビの示す座標に向かって、バイクを方向転換させた。
◆
日は稜線の向こうへと没し、その紫の残光でもって空を染め上げる。ぼくにはなぜだかそれが、太陽の最後の抵抗に思えてならなかった。バイクはぼくらを乗せて進む。街の姿は消え、申し訳程度に舗装された道を進む。双璧となって立ち並ぶ木々の影は、どこか化け物じみていて、その奥に何かしらの怪異を見出してしまいそうで、ぼくはただ、目の前に浮かぶウィンドウと道だけを視界に留める。
そんな風景に変化が訪れたのは、それから数キロ進んだところだった。目の前が開け、古い工場にも見える建物が現れた。地図情報を確認する。半世紀以上前に破棄された研究施設のようだった。その神殿のごとき荘厳な門の前まで来ると、文字通りぼくらを向かえるために、それは金属の叫びと共にゆっくりと開いた。ぼくはスピードを落としながらそれをくぐった。門をくぐってすぐ、正面に入り口が見えた。その手前でバイクを停める。ぼくとリンネはバイクから降り、各々のヘルメットをマシンに引っ掛けると、一度だけ目を合わせた。例によって、そこには不可視の会話があった。ぼくらは頷き合うと、建物の中へと歩を進めた。
ぼくは思考した。声の相手にそれを読ませるために。さあ、来てやったぞ。それに答えるように、端末から子どもの声が発せられた。
「内部の情報を送ったよ。この部屋まで来て欲しい」
新たなウィンドウが開き、建物内の見取り図が表示される。その一箇所で光点が明滅している。ぼくはリンネの手を掴むと、歩くスピードを早めた。
半世紀以上前に打ち捨てられた施設。しかし内部の電源は生きている。ぼくらが進む方向を先回りするように、天井に備わる照明が道を照らした。リンネの手に力がはいるのを感じる。ぼくも同じように握り返した。大丈夫だ。心配ない。そんな感情を加えて。
施設の中は入り組んでいた。さながら巨人の腹わたのように、うねる通路、いくつもの分岐、並ぶドアの数々。それらを越えながら、ぼくらは光点を目指して進んでいた。METROの目的はわからない。リンネに用があるのはまだ理解できる。その能力はMETROにとってもイレギュラー、特殊なもののはずだ。だがぼくは。単なるリンネの案内役として呼ばれたわけではない。そんな気がしていた。METROはぼくに何を見せるつもりなのだろうか。繰り返し思考をするが、位置情報を送ってきたきり、声は聞こえなくなった。
いくつかの扉をくぐり、階段を降り、エレベーターに乗り、ぼくらは光点の示す場所に近づいていた。ぼくらの足音だけが響く静寂の中、ついに最後の扉が現れた。ちょうど銀行の金庫のような、巨大な円形の扉。その円周上には無数の金属の棒が生えている。ぼくらがその前に立つと、その鉄の棒がひとりでにずれていき、円形の扉の封印が解かれた。何かの電子音が聞こえた後、その大きさに不釣り合いな滑らかさで、音もなく扉が開いた。ぼくらはまた、顔を見合わせた。同じように頷き合い、扉の向こうに現れた通路に足を踏み入れた。
短い通路の先にあったのは、巨大な機械の柱を中心にした空間だった。無数の計器が放つ明かり。部屋中が機械で囲まれていることを除けば、それはまさしく古代の神殿のように見えた。やおらその柱の根元が照明に照らしだされた。光の中には椅子のようなものが鎮座している。
「ようこそ。藍咲ユウ。御門リンネ」
今度は端末からではなく、空間全体に子どもの声が反響した。
「まずはそこに座ってくれ」
ぼくらは無言で椅子に向かって進んだ。近くで見ると、病院にあった意識場同調システムによく似ていることが分かった。ぼくらは声に促されるまま、それに身を預けた。強烈な既視感。初めてリンネと共感したときのことが、強く想起された。思えばあれがすべてのはじまりだった。リンネのカルテを引き継ぐ作業をしていた時間が、とてつもなく昔のことのように思える。椅子には病院のシステムと同じく、ヘッドパーツが付いていた。ぼくはその裏側の黒を眺めている。あきれるほど多くの事が起こった。そのひとつひとつが、走馬灯のごとく目の前の黒に浮かんでは消える。
「はじめよう」
METROがそう言うと同時に、視界の中心に向かって周囲の風景が吸い込まれていく。ぼくらの知らない世界の裏側が、ここに現れようとしていた。
◆
目の前には、壁も天井も真っ白な空間が広がっていた。ホワイトルームによく似ているが、いつもは向かい側にあるはずの、相手の意識に通じるドアがない。怪訝に思っていると、空間にある変化が起こり始めた。ちょうど箱を開いて分解していくときのように、壁や天井が外側に向かって倒れるように外れ始めた。剥がれていく天井と壁の間から外側が見える。黒い中に白い無数の点。これは、宇宙か。足元に目を落とす。そこにあったのは限りなく地球に似た球体。ただしそれは青と緑で形作られる、ぼくらのよく知るそれではなく、無数の緑の光が集まってできている。脳神経の活動をモデル化したものを連想した。ぼくらの足元のそれは、巨大なシナプスネットワークの集合体に見える。
「それは人類の意識場の状態を可視化したものだよ」
目の前にふたりの子どもが立っている。緑の瞳をした彼らは、まるでクローンのように似通っていた。ただしひとりは白髪に黒い服。もうひとりは黒髪に白い服。太極図のように対照的な風体をしていた。
「はじめまして。藍咲ユウ。御門リンネ。ボクはSystemUnit-α、個体識別名カストール」
黒髪の少年が言う。
「ボクはSystemUnit-β、個体識別名ポルックス」
白髪の少年が言う。
「ボクらはMETROシステム。その中枢ユニット」
ふたりの声が重なる。機械というほど無機質でもなく、かといって人間ほど有機的でない声。
「METROシステムはネットワーク分散型並列演算式だったんじゃないのか」
「確かにその方式も併用しているよ。ただシステムのあり方を方向付けるためには、中枢の概念が必要なんだ」
カストールと名乗った少年が説明した。理屈の上では納得できる回答だった。しかしシステムのあり方とはどういう意味だ。METROシステムとはそもそも何だ。
「ボクらの役割について説明する必要があるね」
白髪のポルックスがぼくの思考を読んだのか、そう言った。
「ボクらはお互い別々の目的を持って作られ、動作している。METROシステムは、ボクら相互の折衝によって運営されているんだ。カストールは共感による人類世界の安定のため、ボクは意識場による次のステージへの進化のため。互いに異なる方向性を持って動作し、システムを動かしている」
「次のステージへの進化とはどういう意味だ」
必死に理解しようと頭をフル回転させる。リンネはきっとぽかんとしているだろうが、今は仕方ない。
「それに応える前に、METROについて教えてあげよう」
ポルックスが虚空に手をかざすと、文字が現れた。
『Medical Empathic Treatment and Re-evolution Optimize SYSTEM』
頭文字が光り、METROの単語を形作った。医療共感施術および再進化最適化。直訳ではそうなる。ぼくはあっけにとられていた。METROはメトロポリスのメトロから取られたと説明されていたからだ。それが略語だったとは。だがともかく、問題はそこではない。前半部分は理解できる。医療共感施術のためのシステム。だが後半は。
「前半部分はカストール、後半部分はボクを指している。ボクの役割は、意識場の存在を自覚した人類を次の段階へと進化させることにある」
ポルックスが話し終えると、浮かんでいた文字が消えた。人類の進化。しかしこのところよく聞く言葉だ。METROの片割れが人類の進化を目的にしているのなら、ぼくとリンネをここに呼んだ理由はひとつしかない。
「リンネの能力が目的か」
「否定はしない。御門リンネが人類の進化の最前線に立っているという事実は、依然として変わらない。彼女に備わった集合的無意識との共感能力は、人類を確実に進化へ導くだろう」
ポルックスはどこか楽しげだった。
「お前たちの言う人類の進化とは何だ」
ポルックスが笑顔で答えた。その笑顔は明らかに人工物であるはずなのに、橙夜のそれよりも人間味を感じた。
「意識場を介した非言語的コミュニケーション手段の確立。全人類が共感によって繋がる齟齬のない自明の世界」
橙夜の研究レポートを思い出した。人間の脳には先天的に共感回路が眠っていると。つまり、ポルックスの目的とは。
「そう。端的に言えば、人類の共感回路の覚醒。ボクはそのためにあらゆる人間の脳と意識場を解析してきた」
つまり、橙夜の研究結果よりも先にその結論に辿り着いていたということか。だとしたら橙夜のやつはまるで道化じゃないか。そこには憐れみにも似た感情があった。自分の発見だと、これこそ求めていたものだと、そう思ったものが実はすでに周知の事実だったとしたら。こんなに虚しいことはない。
「人間のコミュニケーションは不完全だよね。言葉ひとつをとってみても、それが正確に意図通りに相手に伝わることは、そう多くない。だから齟齬が生まれる。もったいないと思わないかい。無駄に傷つけ合うのってさ」
カストールはそう言うと、ぼくらの周りにいくつもの映像を映しだした。それはつい数時間前、橙夜が見せてきたものと同じようなものだった。暴力と悪意。齟齬が生み出すありふれた悲劇の数々。人はどうしてこんなに分かり合えないんだろう。誰かが無責任に、そう言った。
人間は分かり合えない。相互理解とは漸近線。ぼくのそんな信条、あるいは哲学に対して、METROは揺さぶりをかけてきた。もしも全人類がシステムに頼らず共感ができたら。誰もが相手の心を見ることができ、感情や記憶や思考を共有できるようになったとしたら。それは。
「君は求めていたんだろう。そして同時に諦めていた。完全な相互理解を」
カストールは周りに浮かぶ映像を眺めながら、言った。
「それは君だけじゃない。全人類の総意でもあり、等しく抱く願いでもある」
カストールと同じ声で、ポルックスが言う。
「リンネをどうするつもりだ」
ぼくはあくまで敵対的にそう言い放った。彼らを完全に信用するつもりは毛頭ない。
「METROシステムの形式は、正式には量子生体ハイブリッドAIコンピュータという」
発作のように、ぼくの中に動揺が生まれた。量子、生体、ハイブリッド。それは、つまり。
「そう、ボクらの他に生体ユニットが組み込まれているんだ」
吐き気がこみ上げてくる。生体ユニット。おそらくそれは、生身の人間の。
「単純に共感システムを運営していくだけなら、AIだけでも十分だったんだ。だけど意識場の深層領域の探索には、どうしても人間の脳が必要なんだ。機械では意識場の同調が限界だからね」
ぼくは咄嗟に横に立っていたリンネを庇った。彼らの意図が理解できてしまったからだ。
「御門リンネには、次の『統治者』としてMETROの中枢を担って欲しいんだよ」
リンネもようやく彼らの言わんとすることが理解できたらしい。ぼくが庇うために差し出した腕を掴んだ。ふざけるな。そんな要求を飲めるわけがない。ぼくはカストールとポルックスに向かって叫んだ。ふたりは呆れたような表情を浮かべている。リンネはようやく外の世界に出られるところまで来たんだ。それを、こんな形で奪われるなんて。
「別に死ぬってわけじゃない。システムの一部にはなるけれど、人格も記憶も同一性も保持したまま生き続けられるんだよ」
こんなに魅力的なのに、どうしてわかってくれないの。ポルックスの言葉にはそんな響きがあった。彼らには理解できないんだろう。肉体を持って、土を踏みしめ、空気を吸い込み、他者と触れる温かさを。当然だ。AIにそれが理解できるわけがない。いくら人間の意識場を解析したところで、AIは所詮AIでしかないのだ。
「御門リンネの能力は、君も知っての通り現段階では人類唯一のものなんだ。METROはそれを組み込むことでさらに意識場の、そして集合的無意識の深淵を探索できるようになる。それは人類にとって新たな地平が開けることと同義なんだ」
集合的無意識の深淵。あの悪意の海の底。それが新たな地平とは、ぼくにはどうしても思えなかった。あれは人間の作り出した地獄の具現だ。ヒトの痛みで作られた、世界を歪ませる重力源だ。あれには踏み込むべきじゃない。ぼくの感情が、理性が、そう言っている。
でも、リンネはどう思っているんだ。不意にそれが怖くなった。リンネはさっきから黙ったまま、ぼくの腕を掴んでいる。その表情には、怯えとも怒りとも違う感情が浮かんでいた。戸惑い、だろうか。
「ほら、怖いでしょ。人の心が見えないって」
ぼくの内心を見透かしたように、ポルックスが挑発的な言葉を投げる。
共感は確かに社会のあり方を変えつつあった。人の心は目に見えない。真理と思われてきたその前提を突き崩したのだ。人々は見えない他人の心にずっと怯えてきた。だから傷つける。だから傷つく。共感はそれを変えるものだった。この数十年で犯罪件数は有意に減少している。医療共感の普及によって、長期化する精神疾患も確実に減少している。人は傷つけることも、傷つくこともなくなってきているのだ。それは誰にも否定出来ない、客観的で科学的な事実だった。それでもなお、傷つけ、傷つく人はいる。世界から裏切られたと言って報復を企てるものがいる。
「それはまだ人間の世界が不完全だという証拠だよ」
では完全な世界とは何だ。誰も傷つかず、傷つける必要もない世界。皆が穏やかに生きることのできる歪みのない世界。ぼくはリンネの中で集合的無意識に対峙した。人類の無意識の集合体が悪意そのものだと知った。性善説が偽りだと知った。おそらく、それが世界の歪みの中心。人間が人間であるがゆえに抱えざるを得ない負の感情。他者とどれだけ分かり合えたとしても、必ず訪れる破局の時。それが人間の不完全性の証明なのだろうか。
「誰もが齟齬なくコミュニケートできる世界とは、歪みのない自明な世界」
カストールが言う。相手の心が自明のものとして捉えられ、一切の齟齬のないコミュニケーションが可能な世界。けれど、ぼくはどうしても納得できなかった。果たしてそれが完璧な世界なのだろうか。人間の共感回路を目覚めさせ、METROの言う自明な世界を実現することで、人間の心の有り様は本当に変わるのだろうか。
「ひとつ、訊きたいことがあります」
ぼくらの会話を黙って聞いていたリンネが、とうとう口を開いた。その口から何が飛び出すのか、はっきり言ってぼくは恐れていた。ああ、心が見えないってのはこういうことなのか。
「集合的無意識の本当の姿って、何ですか」
リンネの言葉はぼくの予想にないものだった。集合的無意識の本当の姿。まるであれが本当じゃないような物言い。そんな気持ちが伝わったのか、リンネがぼくの顔を見て言った。
「だってそうじゃないですか。人間の心の集合体が悪意そのものだなんておかしいですよ。もっと沢山の感情があったっていいはずじゃないですか」
ぼくは息を呑んだ。言われてみれば確かにおかしな話だ。本来多様で多義的な存在であるはずの人間の、その心の集積が悪意一色で染まっているなんて。ぼくは自分の浅はかさを恥じた。目に見えたものがすべてだと思ってしまっていた。リンネには驚かされたばかりだ。ぼくなんかより、ずっと冷静で客観的だった。
「そう。君の言う通りだよ、御門リンネ。君たちが見てきたのは、集合的無意識の一側面でしかない」
リンネはまるで自分の回答が正解だと確信した上で答え合わせをしたかのような表情だった。あの悪意の塊が一側面でしかないとして、どうしてリンネの中にはそれが現れていたんだ。
「御門リンネ。君の共感回路は少し変わっていてね。特定の情報を選択的に拾い上げる特性を持っているんだ」
ポルックスが解説を始めた。
「君の言う通り、本来なら多義的存在であるヒトの集合的無意識は、意識場に乗った多様な感情が形成する無色の海なんだ。それが集合的無意識の本当の姿」
リンネはまっすぐにポルックスを見据えて聞いている。
「君の共感回路も、元々はその無色の海を捉える力を持ったものだった。でもそれはあるきっかけによって変質した」
リンネの共感回路を変質させるきっかけ。脳機能がその方向性を変更させられるほどの出来事。
「気づいたかい。君の両親の事件だよ」
両親を目の前で惨殺されるという経験。『リンネ』はそれによって扉が開いてしまったと言っていた。ぼくはようやく理解した。リンネはそのショックで集合的無意識との共感能力に目覚めた。しかしトラウマの影響が強すぎたせいで、選択的に負の感情を拾い上げるように回路が変質してしまった。
「正解。だから君たちの見たものはあくまで一側面。御門リンネの共感回路が集合的無意識から拾い上げた負の感情だったというわけ」
眼下に広がる光の球に視線を落とす。地上の人類が形作る意識場の集合体。光でできた星。もしかしたら、今足元にあるこれこそが、集合的無意識の姿なのではないだろうか。
「よかった」
リンネのその言葉は、心の底からの安堵がこもっていた。ぼくはそれがなにより怖かった。リンネがMETROの言う条件を承諾してしまいそうで怖かった。いや、ぼくはリンネが手の届かない場所に行ってしまうことが怖かったのかもしれない。けれど、リンネの言葉に宿っていたのは、安堵の感情だけではなかった。それはまるで赦しのようだった。そうあって構わないと、受け入れ、肯定するような響きがあった。
集合的無意識は悪意の塊ではない。ならばヒトの心の本質もまた、必ずしも悪意ではない。性善説とか性悪説とか、そんな二元論で語れるほど、人間は単純じゃない。誰かを愛おしく思う気持ちもあれば、同じくらい誰かを憎む気持ちもある。ヒトの心は白でも黒でもない。そのときどきによって、触れるものによって色を変える無色なのだ。そう、それはよく分かった。だけど、ぼくにはどうしても腑に落ちないことがある。
それは悪意の偏在。痛みの偏り。
ぼくがそうであったように、リンネがそうであったように、そして橙夜もそうであったように、悪意や痛みはすべての人間に平等に降りかかるとは限らない。それは明らかに偏在している。明るく健気に生きようとする者には災厄が降りかかり、悪意で他人を傷つけて飯を食っている者はのうのうと生きながらえる。
ぼくはようやく思い至った。世界の歪みとは、世界を歪ませるのは、偏在する痛みだ。もしも人間が完全に平等なのだとして、もしも神様とかいうやつが人間を等しく裁定するとして、救われる者と救われない者がいるのはなぜだ。ぼくはリンネの顔を見た。そしていつか、リンネが見せてくれた家族写真を思い出した。あんなに幸せそうな家族が、一人のどうしようもない悪人によって壊された。そしてリンネはわけのわからない痛みと今日まで戦い続けてきた。そしてあまつさえ、その力のせいでこんな場所にまで連れてこられた。リンネは世界に失望していた。楽しく笑って生きる人がいる一方で、そんなふうに何もかもを諦めて、痛みを背負って生きる人がいる。その不均衡を肯定することが、ぼくにはどうしてもできない。
ぼくは心を診る医者だ。ぼくのところにやってくるのは、多くは感受性が高く、他人の感情の機微に敏感で、それゆえに傷つきやすい人たちだ。本来なら、彼らの持つパーソナリティーは何よりの美徳として讃えられるべきものなのだ。ぼくのところへなんか来ないで、賞賛と陽の光を浴びて胸を張って然るべきものなのだ。
「分かったかい。藍咲ユウ。今の世界は不平等で不均衡なんだ。痛みは偏在し、悪意は吹き溜まり、優しい人間ほど傷つく。そんな歪んだ世界なんだ」
それはカストールの声だったのか、ポルックスの声だったのか。METROはぼくに言う。
「共感回路を覚醒することで、世界はゆるやかに均衡を取り戻すだろう。偏在する痛みは広がって薄まり、皆が陽の光を浴びて笑って生きていくことができるようになる」
それは、ぼくの思う完璧な世界。喜びも、悲しみも、善意も悪意も、すべてが均衡で平等な世界。特定の誰かだけが傷つくことなく、特定の誰かだけが傷つけることのない、完璧な世界。しかし。
「そのためにリンネを渡すわけにはいかない」
今のぼくは天秤のようなものだ。リンネという特定の個人か、それとも世界か。リンネを一個人として存続させるとすれば、METROの言うヒトの進化はもっとずっと先の事になるだろう。もしかしたらぼくらが生きている内には実現しないかもしれない。対して、ここでリンネを行かせれば、ぼくの望んだ歪みのない世界が生まれる。
それは葛藤だった。しかし一方で、リンネを天秤にかけている自分自身に激しい怒りも感じていた。ぼくはどんなことがあってもリンネを守り、共に進むと誓った。そのリンネを自分の理想のために明け渡す。それは橙夜の計画と大して変わらないものだった。人類の進化には犠牲が付き物。そんな美辞麗句で自分を納得させようとしている自分に怒っていた。
「君の葛藤は実に人間的だね。藍咲ユウ。でもよく考えてみなよ。システムの一部になるって言っても、別に死ぬわけじゃない。一生命としての存在は続くんだよ」
唆すようにMETROが言う。でも違うんだ。そうじゃないんだ。AIにはわからないかもしれない。機械である彼らにとっては、生体ユニットと生身の人間はそう大差ないのかもしれない。でも違うんだ。人間であるってことは、自分の手足で世界に触れて、他人に触れて、温度や匂いや光を感じて、そして生きているってことなんだ。
そうだ。ぼくは忘れていない。リンネとの約束。必ず外へ連れて行く。そして三人でした約束。ぼくはバイクを買って、三人でツーリングをする。目的地は一面の向日葵。ぼくのはじまりの場所。そしてリンネの思い出の場所。ぼくらは人間として、生物として、生身の存在として、それらを果たさなければならない。いつの間にかリンネの声がその思考に重なるように聞こえてきた。だから。
「わたしは、システムにはならない」
それがリンネの意思。何者にも侵されない確固たる信念。カストールとポルックスは落胆したように言った。
「しょうがないな。それなら」
ポルックスが腕を上げる。間を置かず、リンネが苦しそうな声を上げた。
「やめろ。何をしてる」
「わからないかな。ボクらは選択肢を与えていない。これは決定事項なんだ」
ポルックスは不可視の力でリンネを拘束している。ぼくは咄嗟にデバイスを起動させようとした。しかし橙夜に崩された伝達バランスのせいで、起動しない。そうこうしている内にもリンネは苦しそうに喘いでいる。くそ。どうしたら。
「ボルックス。それにカストールも。止めなさい」
声がした。それを聞いたポルックスは腕を下げ、リンネの拘束を解いた。カストールとポルックスの後ろに光の柱が現れる。その中から、誰かが出てきた。
「どう、して」
反射的にそんな声が漏れた。
「ユウ、お前はやっぱり約束を守ってくれたな」
どうして。その言葉が脳内を支配する。
「父さん」
「久しぶりだな、ユウ。私がSystemUnit-Ω。METROの現統治者だ」




