6.Christmas Present
亜子は同僚であり、親友の伊東美佳が絵本を読む姿をぼんやりと眺めていた。
正座した膝の上に、二歳の女の子を乗せ、小さな手の平をふにふにと優しく揉んでいる。女の子は美佳がゆっくりゆっくりと読み進める物語に夢中なようで、時折亜子の指を強く握り締める。亜子はその感触に思わず微笑んだ。
「藤城さん」
物語にのめり込むように前のめりになる女の子のお腹を空いていた片手を回してそぉっと抱きなおした。愛おしい重みと温もりが膝に戻ってくる。
「ねえ、藤城さんってば」
隣から聞こえてくる言葉にようやっと気付き、隣に視線を移した。
「ごめんなさい。何か言いました?」
隣に座っている女性は苦笑交じりに応える。以前から図書館の常連で、亜子とも顔馴染みの稲葉智美だった。
「なかなか気付かないからもう少しで大きな声出すとこだったわ」
図書館の子供クリスマス会の読み聞かせ中だ。声を潜めて話し掛けたのだが、亜子がなかなか気付かないので困っていたようだ。
「ごめんなさい。ちょっとまだ慣れていなくて」
「慣れていない?」
「ええ……藤城っていう苗字に」
首から下げられたネームプレートは抱っこしている女の子の邪魔にならないよう、背中側にプランと垂れている。そこには『藤城 亜子』と書かれていた。
膝の上の女の子のお腹に添えられた左手の薬指には、シンプルなプラチナのリングがある。
「ええー。でもご結婚されてもう一年近く経つでしょう?」
相変わらず声は潜められているが、その声色には好奇心が滲んでいる。それだけ、亜子の……というよりは藤城涼の結婚はこの街での大きなニュースだった。
突然現れた美しいハーフの姉弟が始めたサロン・ド・テは瞬く間に評判のお店になった。
テレビや雑誌もその噂に飛びつき、軽食担当の姉の礼奈と、お菓子担当の弟涼のルックスも注目された。勿論フランスで修行したという腕前も相当で、県外からも客が訪れる人気店になった。
出来たばかりの頃から応援してきた身としては、彼らも、彼らの店も人気になるのは嬉しいが、何か面白くない。矛盾はするがそんな思いを抱えてきた。特に大都会からやって来たような非の打ち所のないミーハーな女性が涼に群がるのが面白くない。そんな時、彼が選んだのはカフェに程近い図書館に勤める地元出身の亜子だったのだ。なんだか勝った気がした。涼が目当てだった女性達の足は店から遠のき、店は少し落ち着きを取り戻した。まだまだ人気の店ではあるが、のんびりとした時間を過ごせる以前の姿に近づきつつある。客足はそのまま利益に繋がるから、経営者としては困るのではないかと思ったのだが、涼はそんな事は気にしていないようで、かえって静かな時間が戻っていいと言う。
その言葉で、なんとなく彼が亜子を選んだ理由が分かった。
智美は一層笑みを深めた。
「ごめんね。ウチの娘重いでしょ」
亜子は自分の膝の上に目をやった。先程まで物語に夢中だったのに、今はうとうととまどろみ船を漕いでいる。全く、子供というのは予想がつかない。だが大変なのは智美もだ。今智美の膝の上では元気な男の子が美佳の話に手足をバタつかせて喜んでいる。彼らは双子だった。どちらも母親に抱っこをせがみ、亜子は、兄との戦いに負けて駄々をこねていた女の子を抱いていたのだ。
「大丈夫ですよ。真絢ちゃん、おねむかな?」
亜子はそっと横抱きにすると、真絢の頭を自身の胸に乗せた。真絢は少し居心地悪そうに顔を歪ませて頭を動かしていたが、ちょうど良い場所を見つけたのか、そのままスースーと寝息をたてた。
その様子にふふふ、と小さく笑った亜子の表情を見て、智美はおや?と思った。
「一気に二人は大変だけど、でもこうして穏やかな寝顔を見ると疲れなんか吹っ飛ぶわよ」
亜子はそのまま真絢の寝顔をじっと見詰めていた。
* * *
このところ涼を悩ませている事がある。それは、妻である亜子が最近元気が無い事だ。
特に朝は青い顔をして台所に立っている。カフェで余ったケーキを持って帰って来ても、食べる事が少なくなった。
姉の礼奈に聞いても、何故か惚気るなと文句を言われる。全く意味が分からない。
「どうして教えてくれないんだよ。何か知っているなら教えてくれてもいいだろう」
涼はカフェの後片付けをしながらぶちぶちと文句を言うが、礼奈は取り合わない。
「本人に聞きなさいよ。本人が言わなきゃ意味ないわ」
「――聞けないからこうして礼奈に聞いてるんだろう」
「女々しいわね」
他のスタッフ達はこの姉弟の口げんかにも慣れたもので、淡々と片づけを進めていた。
クリスマス・イヴの夜だ。一時も早く、遭いたい人の元に行きたいに違いない。
クリスマスといえば、家族で過ごすものだったフランス時代から考えると、日本のクリスマスは異様なものだった。
「お疲れ様でした」
「お疲れっしたー」
イヴに出たスタッフには、ボーナスとして涼の手作りホールケーキが渡される。店の中でも最高級の七千円もするケーキだ。毎年数量限定で出されるこのケーキは予約開始と同時に完売する程の人気だ。スタッフの中には、これが目的でイヴに出たがる者も居る程だ。
ケーキもはじめは伝統的なブッシュ・ド・ノエルを予定してチラシを作ったのだが、何故か全然予約が入らない。
期待してやって来た客も、チラシを見ると戸惑った素振りを見せて出て行ってしまう。その原因が分かったのは、同じようにクリスマスケーキを予約しに亜子がやって来た時だった。
どうして生クリームのケーキが無いんですか? と問われ、困惑したものだった。それから色々な店を見に行ったら、どの店もクリスマスケーキのメインとして生クリームをふんだんに使ったホールケーキを売り出していた。国が変われば言葉も、食文化もイベントも様変わりする。それを知るきっかけも、亜子がくれたものだった。
「僕が嫌いになったんだろうか……」
呟くような涼の言葉に、礼奈は呆れて溜息が出た。
「あのねぇ……そんな訳ないでしょうが。さ、あんたもさっさと帰りなさいよ。今日はイヴ。愛する人と過ごすんでしょ。亜子ちゃん待ってるわよ」
スペシャルケーキが入った箱を押し付けられ、涼は店から追い出されしまった。
帰宅した家では、亜子が手料理を作って待ってくれていた。それでもやはり顔色が悪い。
「ただいま。あの……ケーキ! 持ってきたよ。亜子さんが好きなクリスマスのスペシャルケーキだよ」
笑顔で箱を開けて差し出すが、甘い香りが漂うと亜子の表情が曇った。
「ごめんなさい……ちょっと、今日は食べれないかも……あのね――」
「僕が嫌いになったの?」
「――え?」
悲しそうに肩を落とす涼に、亜子は驚いた。
「あまり笑わなくなったし、ケーキもあまり食べなくなったし、喜んでくれなくなった……それって――」
「妊娠したの!」
「え?」
「それで、甘い香りでちょっと気分が悪くなる時があって。それでなの!」
「え? ええええええええ!?」
涼は一転して顔を輝かせると力一杯亜子に抱きついて、すぐに飛びのいた。
「ご、ごめん! 痛くなかった? ああああ! 立ってないで座って! け、ケーキはいいよ。うん、今年はお隣さんにでもあげよう! あああ! でも何か食べなきゃダメだよ! 亜子さん何か食べれる?」
涼があわあわしている姿を亜子はポカンと口を開けて見ていた。
すると突然涼の動きが止まる。
「亜子さん! 大事な事忘れてたよ!」
「な、何?」
「亜子さん、ありがとう」
「え……」
亜子は目頭が熱くなるのを感じた。
本当は不安だった。知識はあっても、実際に身体で感じるものは違う。朝食の支度中、匂いで立っていられなくなったり、涼のケーキが食べられない日もある。
妊娠を知ったのは数日前だが、クリスマス前の忙しい涼に話すのは涼の仕事が落ち着いてからにしようと思い、黙っていた。それはたった数日の事だったが、自分ではどうしようもない身体の不調に、亜子は不安で仕方が無かったのだ。
「亜子さん。僕達の赤ちゃんに、キスしていい?」
「え?」
涼は返事を待たずに、まだ平らな亜子のお腹に顔を近づけた。
部屋着のフリース越しに温かい涼の吐息を感じて、亜子は思わず笑みを零す。
「くすぐったいよ」
「いいの。ねぇ、僕達の赤ちゃん。僕達は君に出会える日を楽しみにしているよ。早く会いたいな。でも、急がないで。僕達が良いパパ、ママになれるよう僕達も沢山勉強しなくちゃいけないからね。もう少しだけママのお腹で待っていてね」
涼は亜子のお腹に向かって話し続ける。時折温かいキスを落としながら。
亜子は涼と出会ってからこれまでの事を思い出していた。
雨のエイプリルフールの出会い、七夕の再会、図書館のイベントに協力してくれたハロウィン。そして、クリスマスイヴの告白に、新年のプロポーズ。
沢山の季節を涼と過ごした。
これからはそこにもう一人が加わる。まだ身体で感じる不安はあるけれど、気持ちの不安は涼が一気に吹き飛ばしてしまった。
更に四人になる日が来るだろうか。
いつか時を経て、それは五人、六人にもなる日が来るだろうか。
その頃には、腰が曲がり少し歩くのも大変になっているかもしれない。
そうなっても手を繋ごう。
お互いの息遣いに合わせて、シワシワの手にシワシワの手を乗せて、一緒に歩こう。
これからの季節もずっと、あなたと一緒に過ごしたいから。
<完>
亜子と涼、二人の物語はここで終了となります。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございましたm(__)m