第一話
──冷たい。臭い。粘つく。
トイレのタイルに頬をこすりつけて、三野原あかりは呼吸をする。彼女の赤い瞳は、すでに生気を失っていた。
眼前には掃除用のモップにもたれかかってこちらを笑って見下す少女がいる。尾上碧依だ。少し青みがかった黒いボブヘアー。青色の瞳。小柄で幼い印象の少女である。
彼女はあかりのことを一ヶ月前からイジメている。数人の友達を使って、こちらを囲んでくる。
トイレのタイルの汚さは、すでに慣れてしまった。
一ヶ月前までは仲が良かったのに。なんでこうなってしまったのだろうか。
「わたし言ったよね? 学校に来るなって。家から出るなって。なんでそんな簡単なことを守れないかなぁ?」
そんな理不尽な。その言葉を返すことも諦めた。きっと彼女には通じない。
「じゃあわたしは次の授業の準備をするから。こいつから目を離さないで」
「え、私たちが? なんで──」
碧依が睨むだけで、取り巻きの少女たちは黙る。
あんな小さな体でどこにそんな迫力があるのだろうか。だれも彼女に逆らおうとしない。
肩を落とした女子たちは、鬱憤を晴らすようにあかりの顔にモップを押しつけた。
鼻を突き抜ける臭いに、喉の奥から吐き気がこみ上げてきた。
もう、早く終わって、そう思ったときだ。耳鳴りがする。鼓膜が破れそうなほどの振動に、心臓が早鐘を打った。
気がつけば、辺りが静かになっていた。何があったのかと、顔を上げた。
女子高生たちは固まっている。少し触れてみたが、動く気配はない。
「何が……?」
周囲を見回す。トイレの窓から伸びていた日差しがなくなっている。
暗い──そう感じた瞬間に、肌寒さが体を襲う。
今は昼のはずだ。この暗さはあり得ない。
奇妙な出来事の連続に、あかりの頭の理解は追いつかない。
ゆっくりと立ち上がり、状況を理解しようとした。途端、体勢を崩すほどの振動が起こる。思わずトイレのドアに手をついた。
廊下に出る。息を飲んだ。
すべての生徒たちが動きを止めていた。あかりだけ切り離されたような気持ちになり、寂しさが胸の中に渦巻く。
──異常だ。
再び振動が起こる。先ほどよりも近い。
それが建物を揺らしている音だと気がついたのは、大きな咆哮が聞こえてからだ。
思わず近くの教室に入り、窓の外を見る。グラウンドに立つのは、巨大な黒い影──それが立っていた。
「何あれ……?」
現実離れした光景に、思わず後退りする。椅子に躓いて、尻もちをついた。
黒い影は何やら暴れ回っている。まるで蚊を追い払うかのような動きだ。
腕を振る。その瞬間、何かがこちらへ飛んできた。
窓が割れる。頭に響く音に、思わず悲鳴をあげた。
恐る恐る目を開けると、体中傷だらけの碧依が倒れている。
彼女はいつもの制服姿ではなく、青いフリルのドレス姿だった。よく朝の番組で小さい子向けの魔法少女のような格好だった。
大きく息をつき、顔をゆがめる彼女。いじめた相手が弱っているのを見て、あかりは何を思う間もなく駆け寄る。
「大丈夫……!?」
あかりの言葉に、碧依は驚いたように顔を上げる。
「あかり! なんで……!?」
痛みを我慢するように歪む表情に、どこか悔しさが混ざっている。
手を地面につき、フラフラになりながら碧依は立ち上がった。
「なんであかりがいるの!?」
怒鳴る。その圧倒されるような気配に、あかりの喉の奥が干上がった。
その様子を見てか、碧依は小さく舌打ちをする。
「とにかく、あかりには関係ないから消えて!」
「関係ないって……」
「お願いだから消えて!」
あかりが何かを言う前に、碧依が飛んでいく。こちらに向かってきていた巨大な黒い影に、攻撃を再開する。
あの碧依が、よくわからない何かと戦っている。だから、自分をストレスの捌け口にしていたのだ。
彼女を理解しきれなかった悔しさに、思わず拳を握り込む。
もしかしたら自分にも戦う力があれば、碧依とまた分かりあえるかもしれない。仲良かった“時間に戻れる”かもしれない。
気がつけばあかりは足を踏み出していた。助けようと、手を伸ばす。
光が彼女のことを包み込む。気がつけば、自身の服装は変わっていた。ピンク色のそれは、魔法少女と言って差し支えない格好だ。
高一にもなって、という抵抗感はある。それでも自分も戦えることを知って高揚感を得る。
先ほどの碧依の飛んだ姿を思い出して、見様見真似で窓枠を越えた。空を蹴るように足を動かすと、速度が加速する。
──分かる。私は、元から知ってる。
目を閉じ、心の中で唱える。彼女の手にはいつの間にか大剣が握られていた。
振り上げ、黒い影に振り下ろす。




