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退廃都市の記録係  作者: theo
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第61話 鐚

 朝の搬送ラインは、いつも通り無機質な音を立てていた。

 金属ローラーが回る低い唸り、天井裏を走る空調の風切り音、遠くで何かの装置が規則正しく打つ拍動。どれも特別なものではないが――今日のコンベヤだけは、見慣れているはずの景色を少しだけ“別物”にしていた。


 環はラインの前で腕を組み、流れてくる品目を一つずつ見送っていた。

 薄いトレーに載った工具、封を切られていない補給用の部材、検査待ちの小瓶、ラベルの貼られた部品箱。どこかの工場からでも運ばれてきたのだろう。


 それ自体は珍しくない。だが、それらの間に紛れ込むようにして“それ”はあった。

 ――古びた硬貨だった。


 正確には硬貨の形をした何かだ。

 直径は小銭ほど。厚みも小銭ほど。だが色は銅でも銀でもない。

 くすんだ灰茶にところどころ赤黒い点が滲んでいる。錆びていると言えばそう見える。だがただの腐食ではない。表面のどこかが濡れてもいないのに湿って見えた。

 環はそれを指先でつまむ直前まで見つめた。


「……また変なのが来たな」


 その声に隣でトレーの仕分けをしていたアキが顔を上げた。

 彼女は環の視線を追って、流れてきた硬貨を見た。


「え、何ですかこれ。普通の小銭じゃないんですか? 古銭みたいですけど……」

「普通ならわざわざ見張りの目が増えるような騒ぎにはならん」

「じゃあ訳ありですか」

「多分な」


 環がトレーから拾い上げると硬貨は妙に軽かった。

 軽いというより、重さの感覚が定まらない。

 持ち上げた瞬間には空虚な紙片みたいで――しかし掌に乗せているとじわじわと重さを主張してくる。指に吸いつくような嫌な落ち着きのなさがある。

 アキは身を乗り出し、目を細めた。


「……模様が入ってますね」

「見えるか」

「はい。何か文字っぽいのも……でも読めないです。円の中に円があるような……?」


 環は頷いた。

 “鐚”は見ようとするたびに印象が揺れる。

 文字に見えたと思えば傷に見え、傷に見えたと思えば装飾に見える。

 確かなのはそれが“何かの表記”として置かれていることだけだった。


「触るな」

「もう触ってるじゃないですか」

「まだ俺だけだ」

「私も触っていいですか」

「やめておけ」


 アキは素直に手を引っ込めた。その素直さに環は少しだけ目を細める。

 彼女は妙なものほど、好奇心で突っつきたくなる性格だ。

 だが今回は環の声色から危険度を察したらしい。


 コンベヤは止まらない。

 硬貨は次のトレーへ、次のトレーへと流れていく。

 その数、ひとつ。ふたつ。

 最初は目立たない。けれど、三つ目が来たところでアキが小さく息を呑んだ。


「……え、またですか」

「気付いたか」

「気付きますよ。だって今度は私の前に来ましたもん」


 トレーの上にまた同じ硬貨が乗っていた。

 さっきのものと区別がつかない。

 環は手元の一枚をポケットにしまい、今度はトレー上の一枚を観察した。

 同じく、くすんだ灰茶。

 同じく、角度によって錆のようにも古銭のようにも見える。

 同じく、見れば見るほど“ただの硬貨”ではない気配が強くなる。


「ベルトコンベヤからお金が流れてくるって、かなり変ですね」

「金は金でも訳ありだろう」

「それはそうですけど……」


 アキは言いながら、少し考え込むように顎を引いた。


「これ……数を数えたほうがいいですか?」

「一応な」


 環はトレーを一つずつ送りながら出てきた硬貨の枚数を数え始めた。

 一回の搬送で一枚、数分空いて一枚、また数分空いて一枚。

 ばらつきがある。だが、単発ではなく明確に“供給”されている。


「さっきから気になってたんですけど」

「なんだ」

「これ、誰も気付かなかったんですかね。お金なんて、絶対拾う人いると思うんですよ。使えなくても、売れたりしますし」

「拾えなかったか、増えたかだろうな」


 環は次の一枚を指先で弾いた。

 乾いた音がした。ただの金属音ではない。

 硬貨がトレーの縁に当たっただけのはずなのに音がやけに長く残る。耳の奥に薄い残響としてへばりつく。アキは少し身を引いた。


「今の音、変じゃありませんでした?」

「ああ」

「変な音がする硬貨ってもうそれだけで嫌ですね」

「俺もそう思う」


 環はそう言ってから、トレーの先を見た。

 ベルトコンベヤの上には、まだ同じものが載っている。

 まるでこちらの反応を待っているみたいに。


 硬貨は“何かの代わりになる”。

 その性質を考えれば、ベルトコンベヤに流れてくる意味は一つではない。

 本来そこにあるべきではないものの穴を埋めるため、あるいは不足を偽装するためにこうして流れ込んできたのだろう。


「アキ」

「はい」

「手元の補給箱を開けてくれ」

「はあ……いいですけど」


 アキは首を傾げながらも、近くの補給箱を開けた。

 中には細かな消耗品が並んでいる。これらで“対処”できる異常はわずかだが、企業から支給されたささやかな対処法の一つ。福利厚生と言ってもいい。

 ネジ、留め具、小型の接続部品、予備のラベル、識別用の封止材。

 そのうちの一つ――小さな固定用パーツが、ぽっかり空いていた。


「あっ」

「見えたか」

「これ……一つ足りないんですね」

「本来はそういうことになる」


 環は硬貨をつまんで、空いた場所にそっと置いた。

 カチ、と乾いた音がした。

 その瞬間、アキの目が大きくなる。


「……ぴったりですね」

「ああ」

「でもそんなはずないですよね? だって形は全然違うじゃないですか」

「違うように見えるだけかもしれん」


 アキは補給箱の中身を見比べた。

 空きのあった区画に硬貨はちょうど収まっている。

 押し込んだわけでも歪ませたわけでもない。

 まるで最初からそこに入ることが決まっていたかのような収まり方だった。


「……なんか嫌ですね」

「何がだ」

「間違ってるのに入っちゃう感じが気持ち悪いです」


 環は頷いた。

 その感覚は、かなり近い。

 硬貨はただ偽装するのではない。

 “そうであるべきだった”という顔をする。

 見ている側の記憶や判断に、土足で踏み込んでくる。


 環は補給箱を閉め、次のトレーを見た。

 そこにも一枚。また一枚。今度は二枚連続で流れてくる。


「増えてますね」

「そうだな」

「これどこまで増えるんでしょう」

「増えるというより、埋まっているのかもしれん」

「埋まる?」

「不足を埋める。空きを埋める。欠けを埋める。そういうものだ」


 アキは少しだけ眉を寄せた。

 彼女は言葉の意味を噛み砕く時、必ず一拍置く。

 その一拍が、彼女の思考の形を見せる。


「じゃあ、今このコンベヤのどこかに“足りないもの”があるってことですか?」

「多分な」

「でも何が足りないかなんて分からないですよ」

「普通はそうだ」

「見つけようがないじゃないですか」

「だから厄介なんだ」


 搬送ラインの音が、少しだけ大きく聞こえた。

 空調の風ではない。金属が鳴る音でもない。

 もっと乾いていて、もっと薄い。硬貨がトレーの上で立てるあの嫌な残響に似た音が、連なっている気がした。アキがコンベヤを覗き込む。


「……なんだか、数が増えてません?」

「気のせいじゃない」

「ですよね」


 環は目を細めた。

 搬送口の奥、トレーが現れるたびに、小さな硬貨が一枚ずつ増えている。

 しかも、さっきまでなかったはずのものが、別のトレーにも混ざり始めた。

 ネジ箱の隅、ラベルの裏、封止材の袋の内側。

 そこにあるはずのない場所に、硬貨は平然といた。


「……怖っ」

「やっと実感したか」

「だってこれ、もう“物”じゃなくないですか。隙間に入ってるだけで勝手に増えるんですよ」

「認識の問題かもしれないな」

「もっと嫌な言い方しないでください」


 アキは口を尖らせたが、手は止めなかった。

 彼女は近くの空箱を手に取り、内側を確認する。

 空であるはずの箱の底に一枚の硬貨。そこに置かれていた事実だけが、こちらを先に知っていたかのように妙に自然だった。


「……あった」

「何がだ」

「空箱のはずなのに入ってました」

「空箱ではなくなったな」

「そういう言い方が今一番嫌です」


 環は硬貨を一枚拾い上げ、光にかざした。

 硬貨の表面は、光を返さない。光を吸い込むように鈍く暗い。

 にもかかわらず角度を変えると一瞬だけ金属光沢が走る。

 それは鏡の反射ではなく、こちらの視界を撫でるだけの反応に近い。


「今から一つ実験をする」

「やめてくださいって言ってもやるんですよね」


 環は硬貨をトレーの上の空いた区画に置いた。

 区画はさっきから何度見ても空いていたように見える。

 だが硬貨を置いた瞬間、周囲の小物の並びがわずかに変わった。

 ずれていたはずの封止材の束が揃い、傾いていたラベルがまっすぐになる。

 空いていたはずの場所が、きっちり埋まった“状態”になる。


「……見ました?」

「見た」

「なんか、今ちょっと整いましたよね」

「ああ」

「偶然じゃないですか?」

「偶然でここまで露骨には揃わん」


 アキは唇を結んだ。

 嫌な予感を飲み込もうとしている顔だった。


「これが代わりになってるんですか」

「そう考えるのが自然だ」

「でも代わりって、何の代わりです?」

「さあな」

「……さっき足りなかった部品の代わり?」

「その可能性はある」

「でも、それだけじゃない気がします」


 アキはコンベヤの先に目を向けた。

 既に流れは続いている。

 硬貨は、部品の欠けだけではなく、空白そのものに寄り添っているようだった。

 箱の空き。並びの乱れ。仕事の段取りの抜け。物の不足。

 そして――言葉にしきれない、置き去りにされた感覚。


「……先輩」

「なんだ」

「これ、代わりが必要になる場面ってすごく人間くさいですよね」


 環は、すぐには答えなかった。

 アキは続ける。


「壊れたら直したいし、失くしたら埋めたいし、足りなかったら何かでごまかしたくなる。そういう瞬間ってきっと誰にでもありますよね。ちゃんとしたものじゃなくてもとりあえず間に合わせたいって」

「あるだろうな」

「だったらこれって“便利なもの”なんでしょうか」

「便利だから危険なんだ」


 アキは少し黙った。

 環の言葉を反芻しているらしい。


「……確かに」


 そのときだった。

 トレーの流れが、ぴたりと途切れた。

 搬送ラインは止まっていない。音も続いている。

 だが、トレーの上から硬貨が消えた。

 正確には硬貨が“増殖”をやめた。


「終わったんですか?」

「いや」


 環は即答した。


 手元の補給箱を開ける。

 さっき硬貨を入れた区画を見た。

 そこには確かに硬貨があった。

 だが、補給箱の中身が――ほんの少し違う。


「アキ」

「はい」

「今、数を数えろ」

「え?」

「全部だ。部品も、ラベルも、留め具も」


 アキは慌てて箱の中身を数え始めた。

 そして途中でぴたりと止まる。


「……一個、増えてます」

「どれだ」

「これです」


 彼女が指したのは、規格外の小さな金属片だった。

 本来そこに入るべきものではない。

 だが、形だけ見れば、補給用部材の一種に見えなくもない。

 そして何より――見れば見るほど硬貨と同じく“代わり”の顔をしていた。


「……それ、さっきまで無かっただろう」

「無かったです。絶対に」

「じゃあ、今ここで“何か”が補われた」

「何をですか」

「分からん」


 アキが喉を鳴らした。


「じゃあ、これを残したままにしたらまずいってことですか」

「可能性は高い」

「でも、捨てたらいいんですよね?」


「そう単純でもない」


 環は箱を閉じた。

 金属片は、さっきまで硬貨があった場所を埋めるようにして収まっている。

 まるで、硬貨の方が移動したのではなく、こちらの方が“最初からそこにあることになった”とでも言いたげに。


 アキはコンベヤを見つめたまま、ぽつりと言った。


「……なんか、私たちの仕事ってこういうのばっかりですね」

「何がだ」

「気づいたら、変なものの“正しい置き場所”を探してるんです。壊れたものを直すんじゃなくて、壊れてることに合わせて整えるというか」

「そういうこともある」

「なんでこんなに嫌なのにどこか納得しちゃうんでしょう」


 環は答えなかった。

 代わりに、コンベヤの上を見た。もう硬貨は流れていない。

 だが、空になったトレーの端が、なぜか少しだけくすんで見える。

 さっきまでそれがあった場所には何もないはずなのに何かがあった痕跡だけが残っていた。


 アキもそれに気づいたらしい。

 彼女は小さく肩をすくめる。


「……消えたんじゃなくて場所を変えただけですかね」

「そうかもしれん」

「じゃあ、結局どこに行ったんでしょう」

「さあな」


 環はトレーをもう一度見た。

 整った補給箱。増えた金属片。空になった搬送ライン。

 そして妙に落ち着いた沈黙。


「少なくとも一つだけは言える」

「なんです?」

「これはただの硬貨ではない」

「はい、それはもう分かりました」

「“何かの代わり”になる」


 アキは少し困った顔をして、それから静かに頷いた。


「……何にでもなれるのが一番怖いですね」

「ああ」

「じゃあ、どうします?」


 環はまだ閉じたままの補給箱を見下ろした。

 その中の金属片が、箱の内側からこちらを見返してくるような気がした。


「まずは流れてきた分を記録する」

「それだけでいいんですか?」

「今はな」

「今は、って?」


 環はわずかに口元を動かした。


「“代わり”が増える前に何が足りなかったのかを見失わないようにする」


 アキはその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。

 やがて少しだけ笑う。


「……難しそうです」

「難しいな」

「でもやるしかないですね」

「ああ」


 搬送ラインは何事もなかったように回り続けている。

 トレーは次の区画へ進み、空気はいつもの温度に戻りつつある。

 だが、環とアキには分かっていた。

 今日流れてきた硬貨は、もう単なる異物ではない。

 何かが欠けた場所に静かに入り込む。そして入ったことすら忘れさせる。


 その日の終わり、二人は補給箱の数を二度確認した。トレーの列を三度見直した。

 流れてきた硬貨の枚数を、紙に書き残した。どれも無駄かもしれない。

 

 それでもやらなければならなかった。

 あの硬貨が何であれ、まだ“終わっていない”気がしていたからだ。そして一度、何かを埋めるために現れたものは次にどこへ空白を作るのか分からない。

 そのことだけが、妙に確かだった。

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