4-3
訳あって長期間放置してしまいました。相変わらず展開は遅いですが、年内完結を目指します。
魔法少女、今度はなぜかペンを語る。またこんなことに……。
市役所の西北にある市内で最も大きな文具店に入った四人は、皆でぞろぞろと店内を移動しながら、目当ての品を見て回った。
「これでいいかな」
魅咲はひと綴りの便箋を選んで棚から引き出した。クリーム地の縦罫。左下に、朱色のモミジのプリントがワンポイントを加えている。
「微妙に季節外れ。まだ紅葉してないじゃん」
何に使うつもりなのかこちらもやはり便箋を選びながら、涼子が指摘する。
魅咲はそれを一蹴した。
「いいじゃん。どうせ書いて出す頃には紅葉してるって」
詩都香は呆れてしまう。
「まったく、筆不精なんだから。インクは? 買う?」
「もちろん。どういうのがいいの?」
「ペンと同じメーカーのを使うのが基本だけど、今はどこのメーカーも品質管理を徹底してるし、染料インクならヴィンテージもののペンに入れるんじゃない限り大きな問題は無いはず」
「染料?」
「インクには大きく分けて染料と顔料の二種類あってね。染料はいわば色水。顔料は、変な喩えだけど泥水。染料インクは安心安全。でも、乾いた後でも水で流れちゃう。顔料インクは耐水性が高いけど、その分万年筆の中で乾いたりしたら大変。水に溶けないから、詰まってダメになっちゃう」
「うっ……それは怖いなぁ」
「ちゃんと手入れすれば平気だけどね。今のは安全性も高まってるし、洗浄のための薬品もあるし。それでも色の選択肢は染料の方がずっと多い。ま、主流と言えるかな」
「さっきの詩都香のは?」
「あれはちょっと特殊。染料インクに鉄イオンが含まれてるの」
「イオン……」
傍で聞いていた伽那が、苦々しそうな表情を浮かべた。
「んで、最初は染料の青みがかった色なんだけど、空気に触れて酸化すると黒ずんだ色になっていく。元々の染料の青色から黒っぽく変色していくから、“ブルーブラック”っていうわけ。耐光性も耐水性も高いから、昔はこれがインクの主流だったんだけど、廃液規制する国も出てきて、今では限られたメーカーだけが作ってる。今売られてるブルーブラックっていうのは黒っぽい青って意味で、ほとんどが普通の染料インク」
「ん、よくわかんないけどわかった。なんか怖いし、染料にする」
説明を聞いていたのかいなかったのか、魅咲はあっさりと心を決めたようだ。
「じゃあさ、さっきの私のサインはずっと残っちゃうわけ?」
涼子が交ざってきた。
「そういうことになるかな。何百年も前の文字が残ってるくらいだし。酸性だから条件によっては紙をボロボロにしちゃうこともあるけど、今のインクはその辺大丈夫みたい」
「何百年かぁ。ちょっといいね」
涼子は遠い目をする。何百年も先を見つめているのだろうか。
四人はそんな会話をしながら、高級筆記具の扱われている一角に移動していた。
「インクってたくさんあるんだねえ」
伽那が感嘆の声を上げた。
「ほとんどが染料インク。顔料のはちゃんとそう書いてあるから。ここ最近は各社が新色出してるし、限定品もあるし、ここのお店のオリジナルもあるしね」
魅咲もさっそく色見本の冊子を手に取る。
「目移りしちゃうなあ。とても決めらんない」
「それならメーカーで絞るってのもありかな。せっかくペンがモンブランなんだから、インクもモンブランにする? あ、この“パーマネント”ってついてるのは顔料インクね。……ていうか気になってたんだけど、お祖父さんから送られてきたときにインク瓶ついてなかった? この靴の形したヤツ」
「あー」魅咲はしばらく瞳を上方に向けて記憶を手繰り寄せる。「あったかもしれない。気にしなかったけど」
「いや気にしろよ。次の色はじっくり決めることにして、とりあえずまずそれを使ったら? モンブランはインクも結構高いよ?」
言われて手元の色見本に目を落とした魅咲が、ぐ、と顔を離した。三千円を超えるものもある万年筆用のインクの中では、モンブランは中価格帯と言えるが、高校生が文房具に使うにはなかなか覚悟の要る値段である。
「そうしよっかなー。この場ではなかなか決められなさそうだし」
そう言いつつなおも未練を残して色見本を繰る魅咲から、詩都香は伽那の方に視線を移した。棚に陳列されたインク瓶を眺めて陶然としている。
「伽那はさっきのペンにどんなインクを入れてるの?」
詩都香が尋ねると、伽那はカートリッジインクの中のひとつを指差した。
「たぶんこれ。ユキさんがいっしょにくれたんだけど」
「ウォーターマンのミステリアス・ブルーか。まあ、基本ね」
「でもこれだけ選択肢があるとちょっと迷っちゃうなあ。色を変えて気分転換しちゃおっかなあ」
伽那は腕組みしてくるくると瞳を動かした。
「魅咲にも言ったけど、インクを変えるときはペンの中をよく洗うようにね」
伽那はまだまだ決まりそうにないな、と判断した詩都香は、選んだ便箋を片手にコーナー内をあちこち見て回っていた涼子のもとに向かう。
「涼子、決まった?」
涼子は首を振った。
「ううん。やっぱり詩都香に決めてもらおうかな、って」
「え〜? ……まあいいか。どんなのがいい? ていうか予算は?」
詩都香としては、まずそれが気にかかる。
「普通どれくらい?」
「うーん、ピンキリかなぁ。千円で買えるのもあるし、国産だと一万円前後で金ペンが買える。でも舶来物の金ペンだと、三万円以上が普通」
さすがに今ここで店頭販売されてはいないであろうが、新車が買えてしまう値段の限定品もあれば、一億円を超えるものさえ存在するのである。
「何が違うの?」
そう問われると、詩都香も困る。
「ペン先とペン軸の素材と大きさ、それからやっぱりデザインや装飾かな」
実用性という意味では、高いからいいというものではない。ないが、高いものにはやはりそれ相応の理由がある。そこに価値を認めるか否かは人によるということだ。
「……うーん、まあ、目安はこんなもんかなぁ」
涼子は両手の指を全部立てた。
おお、と詩都香は声を上げてしまった。それならモンブランも含めてかなり選択の幅が広がる。
「それじゃ、デザインも含めて考えようか」
「うん、よろしく」
詩都香と涼子は連れ立って各メーカーのコーナーを回った。
詩都香の考える本命もあるにはあるものの、涼子にとっても万年筆は決して安い買い物ではないはずだ。これを買いなさい、と軽々しく提案するわけにもいかない。
「まずこの辺がペリカン。万年筆の愛好者が大抵一本は持ってる王道ね。これがスーベレーン。だいたいのところ、Mの後の数字が大きくなるほどサイズと値段が上がる。こっちのトレドっていうのはまた別だけど」
「詩都香のはこれだね?」
涼子がケースの中の一本を指差した。
「そ、M805。あ、一桁の数字が5になってるのは金属部分がシルバーになってるヤツね」
「なるほど〜。こうして見ると綺麗だね」
涼子は陳列ケースの上にかがみ込むようにして一本一本吟味している。
最終的には本人に決めてもらうつもりでいるが、詩都香としては、涼子にはあまりペリカンは似合わないような気もする。もちろん素晴らしいペンではあるのだが、涼子が持つにはシックに過ぎる。
「この辺がウォーターマン。で、隣がシェーファーで、こっちがパーカー。パーカーのデュオフォールドはマッカーサー元帥が使ったことでも知られてて……」
「あ、これ伽那の?」涼子がさっさと説明を遮る。知り合って一週間にしてこの扱いの詩都香である。
「うん。カレンも可愛い色のはあるけど」
「まあ、かぶるのもねえ」
カレンのデラックスなど、華やかである。が、涼子が持つにはまだインパクトが弱い気がした。取り出すのを見た人が、お、と目を惹かれるようなものがいい。
「国産もあるよ。たぶん、書きやすさで言えば最高」
三大メーカーの万年筆を見て回る。国産万年筆は日本人向けに調整されており、各メーカーが職人技でしのぎを削っている。シェア一位を誇るパイロット、ユニークなペン先でファンを獲得しているセーラー、中価格帯ながら評価の高い♯3776シリーズで攻勢に出ているプラチナ。この店には置いていないようだが、溜息が出るほどに美しい漆塗りの軸で知られる中屋万年筆のペンも、詩都香は一度触ってみたいと思っている。
基本的なモデルは日本人好みのシックなデザイン。その他にもセルロイドを使った可愛らしいものもあり、ラグジュアリーラインになると軸に銘木が使われていたり、蒔絵の装飾が施されたりしている。
だけど、やっぱり涼子には……。
「ここがグラーフ・フォン・ファーバー=カステル。クラシック・コレクション」
「うわっ、高っ。ずいぶん細長く見えるね」
「実際にはキャップを挿して使うことはまずないから、そこまで長くはないんだけどね」
展示する際にはプラチナコーティングを施された大きなキャップを尻軸に挿してあるが、いざ書いてみようとすると、ボトムヘビーでバランスが崩れがちになる。
「こっちも細長くて高いよ。カランダッシュのバリアス・コレクション。涼子もエクリドール持ってたよね?」
カランダッシュといえば、なんといっても涼子も所有しているエクリドール・コレクションや、より安価な849コレクションなどのボールペンが有名だが、高級万年筆も作っている。色も鮮やかなレマン・コレクションに、軸の素材に趣向を凝らしたバリアス・コレクションなどである。どちらも、詩都香には手が出ない価格だ。
詩都香の言葉を聞いた涼子はしばらくの間きょとんとしていたが、やがて「あ、これか」とショーケースの中のエクリドールを指差した。
「涼子ってば、知らないで使ってたの?」
だとすると貰いものか。何も知らずに自分用に選ぶようなものではない。ボールペンとしての性能は、二万円内外のエクリドールも三千円台の849も変わらないのだから。
「あ、これちょっといいかも」
と涼子が指差したのは、バリアスではなくレマンの方だった。やはりカラフルなものに心を惹かれるらしい。
「決まった〜?」
と、そこに伽那がやって来た。
「まだ。やっぱり万年筆って一生もんだし……って、おい」
伽那の手にするバスケットを見て、詩都香は声を上ずらせてしまった。中にはパイロットの“色彩雫”シリーズのインクが二十以上収められていた。おそらく全色である。
「全部買う気なの?」
「ん」
伽那は力強く頷いた。詩都香や魅咲のように衝動買いに走ることのない伽那だが、時折こうして自分の趣味に合致したものには惜しげもなく小遣いを費やす。
詩都香としてはカレン一本では到底使い切れない気もするのだが、止める筋合いでもない。
「そういえば、さっき漱石がどうこうって言ってたけど、わたしも前に読んだよ、『余と万年筆』ってヤツ」伽那が珍しく文芸部らしいことを言い出した。
「漱石が使ってたペリカンって、詩都香の持ってる万年筆?」
「ううん。わたしも昔勘違いしてたんだけどね、あれは別物。漱石が後で内田魯庵からもらって愛用してたオノトって万年筆があるでしょう? あれを出してた会社がデ・ラ・ルーっていうんだけど、そこが販売してたペリカンっていう名前の廉価万年筆なの。漱石が言ってたみたいに、インクがボタ落ちしたりすることもあったみたい。まあ、漱石も万年筆を使う心構えがなってないとは言えるけど」
「文豪に説教する女子高生……」
傍らの涼子が呆れたように呟く。
「そのオノトってのは売ってないの?」
と、伽那。文豪に憧れるのだろうか。
「日本で何年か前に当時のオノトの再現モデルが限定で復刻販売されたり、オノト・カンパニーっていうメーカーが立ち上がったりしたけど、元祖のデ・ラ・ルー社はもう万年筆を作ってない。もっとお金になるもの、というよりお金自体を作ってる」
「お金自体?」
伽那が首を傾げた。
「うん、紙幣。もともと印刷業の会社だったから」
「うわあ」涼子がのけぞってみせる。「そりゃたしかにお金自体だ」
それから涼子は、伽那に身を寄せて心持ち声を潜めて尋ねた。
「……ねえ、伽那。詩都香って何でもこんな調子なの? カメラオタクなだけかと思ってた」
詩都香の耳にも丸聞こえだったが。
「カメラ? わたしは詩都香とカメラの話したことないけど、詩都香ってカメラにも詳しいの?」
「どうもそうみたい。それで、わたし全然詳しくなんかないですよ〜、みたいな顔してる」
「ああ、それはいつものこと」
詩都香は我慢できなくなって口を挟んだ。
「あ〜、二人とも? わたし程度で詳しいなんて本当に言えないんだってば。現行品じゃなくてヴィンテージものになるとほとんどわからなくなるし」
二人はいったん詩都香の顔をちらりと見てから、今度こそひそひそ声で何事かささやき交わした。
居心地の悪さを感じた詩都香は、涼子の袖を引っ張った。
「ほら、行くよ。次が本命」
涼子は怪訝そうな顔をした。
「本命? 今までのは前座?」
「前座ってわけじゃないけど……涼子が気に入ったのがあったら、って思って」
「それじゃ次が詩都香のオススメってこと?」
「うー、まぁ……」
詩都香は頰の辺りを掻きながら頷いた。
いわゆる“センス”なるものに関して、詩都香は自信を持っていない。こうして見て回っている間に、涼子の心の琴線に触れるものが見つかったらそれでいいと思っていた。
だからオススメとあらためて言われると、自分のセンスが問われているようで、引っ込み思案になってしまうのだった。
が、事ここにいたっては仕方がない。
「こっち。イタリアのペン」
涼子を先導して壁際のショーケースに向かう。伽那もなぜかついてきた。
「あ、綺麗」
展示されたひときわ目立つペンに、涼子が目を見開いた。
「それはアウロラのオプティマ。アウロロイドっていう独自の樹脂を使ってるんだって。定番と限定色があるけど」
「何色がオススメ?」
どうやら涼子は徹頭徹尾詩都香にチョイスを任せるつもりのようだ。
「ん、オプティマもいいけど、ていうかわたしが欲しいくらいだけど、わたしが涼子に見立てる本命はこっち」
一歩左に移って、別のペンを指差す。
「デルタのドルチェビータ」
ドルチェビータ・ミディアム。鮮烈なオレンジマーブルのレジン製。軽快なオプティマとは対照的にがっちりした太軸。涼子本人の存在感に負けない、極めつけに派手な万年筆である。
「どうかな……?」
無言になった涼子。しくじったかな、と思った詩都香は、横目で彼女の反応を窺った。
涼子はなおもしばらく無言だったが、やがて大きく頷いた。
「これにする」
その答えに、詩都香はほっとするとともに少し不安にもなる。だから余計に饒舌になってしまう。
「いいの? その値段でペン先は十四金で両用式だけど」
「両用式?」
「ほら、見たことないかな。プラスチックのチューブみたいなのにインクが詰まってるヤツ。カートリッジっていうんだけど、あれを挿し込んで使うのがカートリッジ式。魅咲やわたしのみたいに、万年筆本体に吸入機構が組み込まれていてインクボトルから補充するのが吸入式。で、両用式ってのは、カートリッジを入れても、コンバーターっていう吸入器を入れて吸入式と同じように使っても、どっちでも大丈夫ってこと。伽那の持ってるのがこのタイプ」
説明の途中で、涼子の眉がぴくりと動いた。喋るのに夢中だった詩都香は、どこに反応したのか判断できなかった。
中腰の姿勢のまま、涼子が詩都香の顔を仰いだ。
「便利じゃない。ダメなの?」
詩都香は急いで首を振った。
「ううん、ダメじゃない。全然ダメじゃない。というか、インク吸入の方式でペンの良し悪しは決まらない。でも、吸入機構は各メーカーの技術の見せどころでもあるから、吸入式は一般的に両用式よりも高くなるかな。ドルチェビータにも、“ピストンフィリング”っていう吸入式のがあるんだけど。ほら、これ。もうちょっとだけ値が張る」
詩都香は隣のペンを指差す。ドルチェビータ・ピストンフィリングの価格は、涼子の提示した予算ぎりぎりである。
「おお」と涼子がそちらに目を移した。「少し大きく見えるけど」
「そうね。吸入機構のせいか、こっちのミディアムよりも少し大きい。あと、外観上の一番の違いはここ。ほら見て。インクの残量がわかるように、軸の先の方に半透明のインクビューがついてる。これはデザインとしては賛否両論あるみたい。なんといっても、ドルチェビータの最大の売りはこの鮮やかな見た目なわけだし」
「ふーむ」
涼子は頤に手をやる。
詩都香はさらに補足した。
「ピストンフィリングもミディアムも、涼子の手には少し大き過ぎるかもね。キャップを尻軸に差すと、魅咲の持ってる149よりも長くなる。スリムとかミニとか、小ぶりなのもあるけど」
それほどの大きさなのにミディアムという名前になっているのは、“オーバーサイズ”というさらに大きな製品もあるからだ。もっとも、オーバーサイズは日本では一般に流通しておらず、大きさで言えばミディアムとピストンフィリングが事実上の双璧を成す。
涼子はちらり、とスリムやミニの方へと目を遣り、それからまたミディアムとピストンフィリングに戻った。大きめのペンに心を惹かれるらしい。
詩都香は指先に涼子の視線を従えて他のペンも示してやる。
「デルタには他にも綺麗なペンがあるよ。ほら、ドルチェビータにも他の柄もあるし。どれも結構なお値段するけど。……でも——」
「詩都香は、私にはこれがいいと思っているわけね」
そう言い当てられ、詩都香は微かに頷いた。
「ん。鮮やかなオレンジを、無骨な黒が挟んで引き立たせている感じが」
涼子は視線を戻して同意した。
「私もそう思う」
詩都香ももう他のモデルへの注意を引こうとはしなかった。
「このFとかMってのは?」
「ニブサイズ。線の太さ。F、M、Bの順番に太くなっていく。Fよりも細いEFや、Bよりも太いBBとかもある。ま、統一基準がないからメーカーによっても違うんだけど。あと、同じ太さ表示でも一般的に舶来ものは国産品よりも太い」
「なんで?」
無言でショーケースの中の万年筆を眺めていた伽那が、顔を上げて問う。伽那のペンも舶来品だ。
「海外の人は画数の多い漢字を書かないから」
「あ、納得」
「どれがオススメ?」
伽那が頷いたと思いきや、今度は涼子だ。
「用途次第。EFはメモ用かな。Fはノートで、Mは手紙とか? もちろん、書きたい字の大きさによるけど。試し書きさせてもらうのが早いよ」
「試し書きさせてもらえるんだ?」
「店員さんに断ればね」
知らない人に話しかけるのが苦手な詩都香は、涼子にその交渉を任せた。
涼子が手を挙げて「すみませーん」と声をかけると、高級筆記具のコーナーに似つかわしからぬ女子高生グループを注視していたらしい男性店員が、すぐにやって来た。
「このドルチェビータのミディアムとピストンフィリングを試し書きしたいんですけど」
そう言う涼子の横顔を、店員はまじまじと見た。
(あ、涼子のこと知ってるのか)
唐突に硬くなった彼の面持ちを窺いながら、詩都香はそう判断した。
「ええと、ペン先はどうしますか?」
「全部試していいですか?」
「あ、はい。かまいません」
店員は駆け足でデルタのブルーインクを持ってくると、各種のペン先を浸してペントレイに置いた。
「どうぞ」
涼子は一本ずつ用意された紙に試筆し、その後でなぜか伽那も試し、ついでとばかりに詩都香も「永」の字を書いた。
「なんでその字なの?」
自分の名前を紙上に量産しながら、伽那が首を傾げる。
「おい文芸部員。『永字八法』って言ってね、『永』の字には漢字の基本的な運筆法が全部含まれてるの」
伽那は苦笑いを浮かべた。
「まったく、詩都香には敵わないや」
散々迷ってから、涼子はドルチェビータ・ミディアムのMニブを選んだ。
「インクはどうする? デルタのが付いてくるけど」
店員が梱包に向かうのを見届けてから、詩都香は涼子に問う。
「さっき言ってたの、何だっけ? イオンインク?」
「イオンインクて、なんか格好いいなそれ。没食子インクもしくは古典インクのことね」
「それってここにある?」
「あるよ。プラチナのブルーブラック、ペリカンのブルーブラック、ローラー・アンド・クライナーのサリックスにスカビオサ……」
三人がインクが陳列されている一角に向かうと、そこではまだ魅咲がうんうん唸っていた。
「まだ悩んでたの? ていうか、最初は送られてきたインク使うって言ってなかった?」
「そうなんだけど、二本目のインク何にしようかな〜、って」
「言っておくけど、ボトルインクはそう簡単に使い切れないからね? 筆不精のあんたじゃなおさら」
「そりゃそうそう手紙は書かんけどさ、日記とか手帳とか色々あるじゃない?」
「手帳に149って……」
想像すると、鶏を割くに何とやら、である。
「魅咲って日記なんてつけてるんだ?」
と、伽那が面白そうに冷やかした。
「そこは乙女の秘密。つけてるかもしれないし、つけてないかもしれない」
魅咲は煙に巻く。
「こりゃつけてるね」
今度は涼子。
「そう言う涼子もつけてそう。ブログちょこちょこ覗いてるよ。あれ見ると、別の日記もつけてそうな気がするんだな」
魅咲にそう逆襲され、涼子は「うえっ!?」と口を開けた。
「——あのブログが私の日記帳」
「嘘だね。『通学路で可愛い猫を見つけました〜』とか、『これが最近お気に入りのお香です〜』とか……そんな日記帳あるかい!」
「ひゃんッ!」
魅咲に人差し指で小わきをつつかれ、涼子は悲鳴とともに飛び上がった。
「やめてよ、そこ弱いんだから〜」
両腕で上体を防御しながら後退する。
「文房具屋で騒ぐな」
詩都香は色見本の冊子で魅咲の、次いで涼子の頭をはたいた。
「私は被害者でしょお」
涼子が頬を膨らませるが、詩都香は無視する。
「んで、どれにするの?」
「もう。……そうだなぁ、そのイオンインクで、色はあまりどぎつくなくて……」
「どぎつい古典ブルーブラックもないけど、まあ、無難にこれかな」
詩都香はペリカンのブルーブラックを選んだ。大きめの文具店になら大抵売られているし、やや青みの強いプラチナのに比べると渋い色である。
「んじゃ、これにする」
涼子は簡単に決めた。
「さっきのわたしの説明聞いてた? 取り扱いに少し注意がいるからね?」
「大丈夫。それに、何百年も残るってやっぱロマンだし」
涼子までロマンと来た。
ドルチェビータの梱包を終えた店員に呼ばれ、インクと便箋を片手にレジに向かう涼子の背を見送りながら詩都香は思う。
——インク消しで簡単に消えることは黙っておこう、と。




