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「大変お待たせいたしました」
そこに、男性店員がコーヒーを二つ運んできた。この店にしては珍しく、ずいぶん時間がかかったものである。「あれ?」というような顔をした涼子は、注文したこと自体忘れていたのかもしれない。
目の前にソーサーとカップが置かれるのを見届けてから、詩都香と涼子は店員にぺこりとお辞儀した。
しかし、用は済んだというのに、その男性店員はその場を離れようとしなかった。不思議に思った詩都香たちが顔を向けると、彼は照れ臭そうに髪に手をやりつつ口を開く。
「あ、あの……勘違いだったらまことに失礼ですが、河合涼子さん、ですよね?」
「あっ、ええ」
涼子は如才なく微笑を浮かべる。先ほどまでの笑顔ともどこか違う、不自然に自然な見事な営業スマイルだ。
「すみません。ご面倒でなければ、こちらにサインをいただけませんか?」
そう言って店員が差し出してきたのは、店のオリジナルの紙製コースターだった。
詩都香がカウンターの方に目を遣ると、何枚ものコースターが壁に貼りつけられているのがわかった。字を判読することはできないが、おそらくその全てに、来店した有名人のサインが記されているのだろう。色紙ほど内装の統一を乱すわけではないが、硬派なカフェかと思っていたら、案外ミーハーなところもあるらしい。
「あ、もちろん本日のお代の方はお連れ様のも含めて無料に……」
成り行きを見守っていた魅咲が、「お」という顔を作る。
が、涼子は小さくかぶりを振ってそれを辞退した。
「とんでもない。そんなことをしてもらっては私が後で怒られちゃいます」
そう言いつつコースターを受け取った涼子が、詩都香の方を振り向いた。
「詩都香、何か書くもの持ってない?」
問われた詩都香は鞄に手を伸ばす。
「あっ、これは失礼しました。こんなものでよろしければ」
緊張のあまり失念していたのか、店員も慌てた様子で胸元のポケットからボールペンを引き抜くが、涼子はやんわりとそれを押しとどめた。
「いいえ、私ったら字が下手で恥ずかしいもので、ボールペンは苦手なんです」
うっ、と油性ボールペンを取り出そうとしていた詩都香は手を止め、鞄の中の別のスペースに収納してあったケースから、一本の万年筆を取り出した。
「はい、涼子」
キャップを外して手渡してやると、受け取った涼子は紙ナプキンの上に試し書きをしてから、コースターにサインを始めた。
サラサラ、と十八金のペン先が紙にインクを乗せていく音がした。
日付を記してから、涼子はいたずら心を出したのか、「三人の仲間たちと」と書き加えた。
「あ、お連れ様の方も」
コースターを受け取った店員が詩都香たちの顔を順繰りに見回す。
「ええ、まだデビュー前ですけど」
詩都香はとんでもない、と両手を振りながら顔を俯かせた。ピースサインを向ける魅咲や伽那は、詩都香から見れば別の星系の生き物だ。
男性店員は、涼子に再度お礼を言ってから、ミーハー店長のもとにサイン入りコースターを持っていく。
気づけば、他の客たちも詩都香たちを注視していた。おかげで、詩都香はますます顔を上げづらくなってしまう。
だが、悪戯をしてくれた涼子の方は、全く別のことに感嘆の声を上げていた。
「すっごーい! 何これ! めちゃくちゃ書きやすかった!」
その視線の先にあるのは、詩都香が貸した万年筆である。
「涼子、こいつってば服にもアクセにも興味ないくせに、こういうマニア向けの品にお小遣いを費やしてるのよ」
魅咲が無用の注釈を入れる。
「詩都香だったら変なペンとか持ってるかと思って訊いてみたんだけどさ、ねえ、これって何ていうの?」
そんな思惑でわたしに振ったのか、と憤慨しつつ万年筆を受け取ってから、詩都香は答えた。
「……ペリカン、スーベレーンM805ブラックストライプ、通称“シュトレーゼマン”」
「へえ」と、涼子はいつの間にか取り出していたシステム手帳のページにメモを取った。
「万年筆かぁ。そういえばあたしも高校入学のお祝いにって、じいちゃんが送ってくれたのがあったなあ」
魅咲が「じいちゃん」と呼ぶのは彼女の母方の祖父のことだ。父方の祖父も存命だが、因縁のあるその相手を、彼女は「じじい」と呼ぶ。
「……ん、あった。——ねえ、詩都香、これ何ていうか知ってる?」
しばらくごそごそと鞄の中をあさっていた魅咲がペンケースから取り出した大振りの品に、詩都香はのけぞってしまった。
受け取った万年筆は、詩都香の手には少し余るくらいの大きさである。
「ええと……?」天冠のホワイトスターを見つめ、それからキャップを開けて特大のペン先に施された彫刻を確認し、尻軸にキャップを差し込んで、少し緊張しながら紙ナプキンにペン先を押し当ててみる。
「……書けない」
「だよねー。不良品じゃないかってじいちゃんに文句言おうと思ったんだけどさ、まあお祝いの品だしいいかな、って。御守り代わりに持ち歩いてる感じ?」
「インクは?」
「インクって?」
「アホか、あんたは!」
詩都香は鞄の中からインクボトルを取り出した。
ボトルを空け、尻軸をくるくると回してからペン先を中に突っ込み、今度は逆方向に尻軸を回転させてインクを吸入、さきほどの紙ナプキンに試し書きしてから魅咲に万年筆を返却する。
受け取った魅咲は、鞄から取り出したルーズリーフに縦横無尽に描線してから、おおっ、と声を上げた。
「はー、これっていちいちインクをつけて使うもんだったんだ。漫画家のペンみたいだね」
「ちっがーう!」
詩都香は思わず全力でツッコミを入れてしまう。
「一度吸入したら、原稿用紙十枚かそこらは大丈夫。いい? ペンの先っちょのここまでインクに浸してから後ろを回してインクを吸い上げるの! これはモンブランのマイスターシュテュック149!」
「イチヨンキュー?」
魅咲は落書きを続けながら伽那の、次いで涼子の顔を窺った。
二人ともふるふると首を横に振った。
大富豪の娘である伽那にしろ、売れっ子アイドルの涼子にしろ、こういうのにはさすがに疎いようだ。
「魅咲……、少し下世話なことを言うと、そのペンの定価は約十万。落としたりしないようにね」
「じゅっ……?」
ルーズリーフにアンパンマンともドラえもんともつば九郎ともつかぬキャラを描いていた魅咲の手が、ぴたりと止まった。
「……どうしよう、詩都香。あたし、これで何書いたらいいんだろう?」
「文学作品でも書いたら?」
「ん、そうする。——吾輩は猫だにゃ。にゃまえはまだにゃいにゃ……」
「ね、ね、詩都香。これはこれは? ユキさんがこれも入学祝いに、って贈ってくれたんだ」
来たか、と詩都香は伽那の手から一本のペンを受け取る。お嬢様の伽那のことだ、どんな高級品かと身構えていた。
だが——
「あれ?」嵌合式のキャップを開け、本体を確かめてから、詩都香は首をひねる。「カレンだ」
「可憐?」
と、しばらく無言で詩都香たちの遣り取りを眺めていた涼子が口を開いた。
「ん、カレン。『舟』って意味。ちょっと意外かな。伽那のことだから、それこそモンブランのパトロンシリーズとか、デルタの少数民族シリーズとか、ファーバーカステルのペン・オブ・ザ・イヤーとかが出てくるかと思っていたんだけど」
「安物?」
伽那はなぜか嬉しそうに問う。
「ん、まあ安くはない。全然安くない。定価で四万か五万くらいかな。高校生が持つもんじゃないと思う。これの特徴はね、ペン先がかなり硬くて——って、そういうことか。さすがユキさん。ねえ伽那、このペンの書き心地どう?」
「いいよ。使いやすいし、お気に入り」
「万年筆好きの中では好き嫌いの分かれるペンみたいだけどね。金ペンなのに書き味が硬めで、筆圧がかかる。逆にボールペンやシャープペンシルに慣れている現代人にとってはあまり違和感なく使える。ユキさんはそれで選んだんだろうね」
「へー。珍しく詩都香の話がタメになった」
「詩都香って、こういうのにも詳しいの?」
と、涼子。
「別に。わたしくらいで詳しいだなんてとても言えない。自分のを選ぶときにできるだけ調べたってだけ」
「それで買ったのがこれかぁ。いいね、シックな感じ。ところで、魅咲がさっきからずっと変な風になってるんだけど」
「ニャーニャーにゃいていた事だけは……」
149の値段を聞いて受けたショックがまだ抜けないらしい。
「魅咲、『猫』もいいけど、お祖父さんにお礼の手紙でも書いたらいいんじゃない? そのペンでさ」
魅咲はハッと顔を上げた。
「……そうだよね。そうする。ありがとう、詩都香」
「じゃあ続きはわたしが書くよ」
伽那が魅咲から取り上げたルーズリーフにカレンのペン先を押し当てた。
「——恥の多い生涯を送ってきたにゃ」
別の作品になった。
「でもさ、やっぱりミズジョってお嬢様学校って感じなんだね。高校生が三人集まって三人とも万年筆使ってるなんてさ。今どきの女子高生じゃないみたい」
涼子は変な感心の仕方をする。
「あんたこそお金持ちじゃない。業者に部屋の掃除してもらうなんて」
「いかにも成金って感じでしょう? というか、この間言ったじゃない、あれは事務所がやってくれてることだって。そういうんじゃなくて、なんかこう、育ちというのか趣味というのか」
そんなもんかな、と詩都香はいまひとつ賛同できなかった。詩都香の趣味には、到底お嬢様とは言えないものの方が多い。
「ね、詩都香、このあと暇? まだ時間あるしさ、文房具屋さん行かない? 私もそういうの欲しくなっちゃった。詩都香、選んでよ」
「そりゃ涼子に比べれば暇だけどね。でもわたしじゃ大したアドバイスはできないし、店員さんに尋ねるのがいいよ。ま、つき合うけど。——魅咲と伽那はどうする?」
「あたしも行きたい。じいちゃんに手紙書くための便箋買いたいし。あとそのインクも」
「あー、ごめん。ちょっと早まったかな。このインクは生産終了してるから、もう店頭から消えてるんだよね。——いい? 今入ってるインクが切れたら、新しいのを入れる前にしっかり中を洗うこと。違うインクが混ざらないようにね。やり方は教えてあげるから」
「混ざっちゃまずいの?」
「まずいの。インクだって化学物質だし、別々の混ぜたら不具合が起こるかもしれないから。それこそ夏目漱石がやらかしてるみたいにね。漱石は最初ペリカンってのを使ってたんだけど——」
「伽那は? 行く?」魅咲が詩都香の講釈を遮った。
「もちろん。——ある朝吾輩が気がかりにゃ夢から覚めると、一匹の巨大な虫ににゃっていることに気がついたにゃ……」
「猫じゃなかったんか。まあ、あんた文房具屋さん好きだしね。——んじゃ、行こうか」
涼子がコーヒーを飲み終えるのを待ってから、詩都香は席を立った。




