2-8
その日の放課後の委員会では、「明日はいったんここに集まった後、各企画を回ってもらいます」という連絡があった。
「抜き打ち」という言葉こそ使われなかったが、奈緒の得ていた情報はおそらく正確と見えた。
詩都香はその連絡を聞きながら、ついきょろきょろと周囲に目を遣ってしまった。いったい誰が奈緒に情報を漏らしたのやら。
委員会の仕事を終え部室に立ち寄ってから下校しようとすると、もう陽が傾いていた。日没は冬に向けて加速するばかりである。
ただ、このところぐずついていた天気が一転して晴れたのは嬉しい。動き回った詩都香には、秋の微風も心地よかった。
(夜になる前に洗濯物取り込んでおくように琉斗にメールしないと)
などと所帯じみたことを考えながら校門を抜けたところで、左手に妙な光景を目にした。
人だかり——より正確には、人の流れの停滞というべきか。
同じく下校中の生徒たちが皆一様に歩速を緩め、首を左に向けて視線を送り、そして連れ合い同士で何事か囁き交わしている。
完全に立ち止まっている者もちらほらいる。そのほとんどは男子生徒だ。
(何だろ)
注目の対象となっているものは、ごった返す生徒たちの体に遮られて詩都香の視界には入らない。
猫の轢死体でも放置されているのかな、などと縁起でもないことを考えてしまった詩都香は、やはり疲れているのかもしれない。
と、人の波のわずかな切れ間から、対象の形姿が覗いた。
人だ。
それもよく知っている——
「あ、詩都香!」
向こうも詩都香に気づいたようで、ぶんぶんと片手を振った。
呆気にとられて足を止めてしまった詩都香に、周囲からの視線が集まる。
校門脇の塀を背にして立っていたのは、先日知り合ったばかりの詩都香の新しい友人、河合涼子だった。
涼子は左右に頭を下げて非礼を詫びながら、根が生えたかのように動かなくなった人だかりをかき分け、詩都香のところへと駆け寄ってきた。
「涼子……なんでここに?」
もっと他に尋ねたいことはあったのだが、まず詩都香はそんな疑問を口にする。
「なんでって、詩都香の出待ち」
涼子は涼しい顔だ。
「出待ちって、アイドルじゃないんだから」
「委員会はもう終わったの? この後暇?」
呆れる詩都香に、涼子はあくまでもマイペースに話を進めようとする。
「暇……ではないかな。ピアノの練習に行かなきゃいけないし」
「詩都香ピアノ弾くんだ? どんなの弾くの? 練習に行くってどこまで?」
「質問はひとつずつにしてくれる?」
涼子に促されるような形で、詩都香は並んで歩き出した。
二人の一挙手一投足に、どうしたわけか注目が集まる。
いや、二人の、ではない。
皆の視線を引きつけているのは、明らかに涼子の方だ。詩都香は涼子と一緒にいるというその一点においてのみ注意を払われているにすぎない。
「涼子……」
これはいったい如何なる現象なのか、と不安すら覚えた詩都香が涼子に質そうとしたところで、涼子の足取りがピタリと止まり、その顔が強張った。
つられて詩都香も視線を前方に戻すと、
「はあ……はぁ……。こ、こんなところに……」
スーツ姿の男性が立っていた。
まだ若い。三十には届いていなさそうだ。走ってきたのか肩で息をし、額から吹き出した汗をハンカチで拭っている。
「よくここがわかったね」
涼子が少し楽しそうに言う。
「SNSに情報が上がってたから」
と、青年がスーツのポケットから取り出した携帯電話を示した。
「あちゃ」と涼子は舌を出した。
「さ、行こう。まだ間に合うから」
青年が一歩前に出た。
が、涼子は首を小さく左右に振ったかと思いきや、
「走るよ、詩都香!」
パッと身を翻すと、詩都香の手をとって駆け出した。
「え? えっ!?」
全く事態が飲み込めていない詩都香は、言われるまま引きずられるままに足を動かす。
「ちょっと! なんで!? 悪い人なの!?」
「悪人中の悪人! あのご面相見ればわかるでしょ!」
言われて顔だけ振り返ると、青年も駆け出していた。
顔の作りはむしろ整った部類と言えそうだが、その必死の形相はなるほどたしかに少々恐い。
「ちゃんと走って詩都香! 陸上部でしょ!」
「“元”だってば! もうっ!」
涼子に引っ張られる形だった詩都香も、一気にスピードを上げる。
こうなったらもうなるようになれ、だ。
瞬時に涼子の前に出、先ほどまでとは逆に引っ張る形になる。
「おわわっ! うははっ、速い速い! 詩都香、その調子!」
「涼子こそちゃんと走って! 後で全部説明してもらうからね!」
涼子も本気になったようで、ピンと張り詰めていた腕が緩む。
それでも繋いだ手を離さないまま、二人は夕暮れの街路を駆け抜けた。
「いやあ、さすが詩都香。超速え」
「大した選手じゃなかったけどね。ていうか、褒めても何も出ないわよ」
黄昏時の公園のベンチに並んで、詩都香と涼子は自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲んでいた。
追っ手の青年はなかなかしつこく、なんとか撒こうとめちゃくちゃに走ったせいで、二人ともここがどこなのか正確には把握していなかった。おそらく中京舞原のどこかと思われる、という程度である。
「いやあ、さすが詩都香。いい飲みっぷり」
三分の二ほど残っていたペットボトルの中身を一気に飲み干した詩都香に、涼子が笑いかけた。
「褒めても何も出ないわよ。ていうか褒めてんの、それ? ——んで? 説明してもらえる? わたし、何か変なことに巻き込まれたんじゃないでしょうね?」
巻き込まれ体質なのを自覚している詩都香は、意識的に少し険しい顔を作ってみせる。
「あー、ええと? どこから説明したものやら」
涼子はペットボトルに口をつけて回答を引き延ばそうとする。
「全部よ、全部」
詩都香はそれを許さない。
「おっと、その前にちょっとだけ待って」
と詩都香に断ってから、涼子が携帯電話を取り出した。どうやら電話がかかってきていたらしい。
「涼子です。お疲れ様です。——あ、やっぱりもう社長のとこに伝わっちゃいました?」
(社長?)
思ってもみなかった単語に、詩都香は意表を突かれた。
「——ええ、すみません。実は今、詩都香といっしょで」
(しかもわたしの名前を知ってるの?)
と、ますます困惑する。
「——はい。あ、それで、柿沼さんの方、よろしくお願いします。後で私からも謝っておきますので。それからコーチの方にも」
(土佐?)
そこで埒もなく脱線してしまった詩都香に、通話を終えた涼子が向き直った。
「ごめん、お待たせ。——ああ、それで、どこから始めたものやら」
「……じゃあまず、さっきの男の人は誰?」
今の電話のせいで他にも気になることが出てきたが、まずはこれだろう。
そして、その質問に対する涼子の回答によって、ほとんどの疑問が氷解することになった。
「ん、あれは柿沼さん。二十八歳独身社員寮住まい。……私の専属マネージャー」
「マネージャー……? ということは——」
通話相手の「社長」。高校生の一人暮らしとは思えない部屋。校門脇に立っていただけでミズジョの生徒たちの注目を集めていた涼子——
「涼子、あんた……モデルか何か——ううん、芸能人だったの?」
「実はそう。でも今なんで言い直したの?」
「さっきの電話でコーチって言ってたから。モデルにコーチってつくのかな、って」
「さあ。私もそっちのことはよくわかんないや。……ん、でも正解。私はモデルじゃない。一応、アイドルってことになってる」
「はあ」
驚いているのかいないのか、自分でもよくわからない詩都香だった。考えもしなかったことではあったが、それはそれで納得できるところがある。
それに——
「……よかった」
詩都香は安堵の念を口に出してしまった。
ほんの少しだけ懸念していたのだ。
涼子の暮らしぶりを見て、もっといかがわしい“アルバイト”に手を染めているのではないか、と。
「よかった?」
涼子が聞きとがめた。
「ごめん、何でもない。じゃあさっき逃げたのは……?」
「ダンスのレッスン。サボっちゃった」
「お仕事のサボりじゃなくてホッとしたよ」
「それはさすがにサボらないよ」
と涼子は苦笑する。「私、このお仕事好きだもん」
「——だったらレッスンにもちゃんと出ような」
予想外のところから声がかかり、二人はぎょっとして同時に背後を振り返った。
ベンチの後ろに、先ほどの青年が立っていた。たしか、マネージャーの柿沼。
「涼子、遅刻だけどまだレッスン受ける時間はある。さ、行こう」
「はーい、わかりましたー」
涼子は今度は抵抗しなかった。
また走る羽目になるのか、と危ぶんでいた詩都香は内心密かに胸を撫で下ろす。
「でも、ひとつだけお願い。この子、詩都香も送ってあげてよ」
「ええっ?」
柿沼は腕時計に目を落とした。時間ないぞ、という表情だ。
別に無理に送ってもらわなくても、と詩都香が辞退しようとしたところで、
「こんな時間に女の子をひとりで帰らせる気、柿沼さん?」
涼子に押し切られた柿沼が、しかたない、という顔で了承した。
詩都香は柿沼の車の後部座席に座った。
「あの、さっきはすみませんでした。逃げたりなんかして」
車がスタートしたタイミングでまずそう謝ると、柿沼は前を向いたまま首を小さく振った。
「いや、いいよ。悪いのはうちの涼子だ」
「あー! 詩都香ってば、自分だけいい子になろうとして」
隣の涼子が不当な文句をつける。
「だってしょうがないでしょ。わたしは事情全然知らなかったんだもん」
文句を言うべきはこっちだぞ、と詩都香は涼子を横目で睨んだ。
「高原……しずかさん、だっけ? どんな字?」
と、柿沼が尋ねてきた。
「『しいかかんげんのあそび』の『詩』に『みやこおち』の『都』に『おしんこう』の『香』です」
「しずか、しずか……」と呟いていた柿沼が、やがて頷く。「うん、珍しい名前だね。でも綺麗だ。涼子よりよっぽど芸名っぽい」
「なにその説明」などと笑っていた涼子が、柿沼の言葉に一転して頬を膨らませた。
「ひっどーい。なに? 柿沼さん、詩都香に気があるの?」
「なんでそうなる。——そうそう、高原さんは涼子がアイドルやってるの知らなかったんだって?」
横目で涼子の様子を窺っていた詩都香は、視線を前に戻して頷いた。
「……ええ。初耳でした」
「僕らの売り出し方が足りなかったか。涼子、もっと仕事頑張らないとな」
「そうねえ。詩都香みたいな子にも知ってもらえるくらいに知名度上げないとね」
車が西京舞原の伽那の家の前に停まった。
「ここでよかった?」
「ええ、ありがとうございます」
降りようとする詩都香の横で、門の奥に目を凝らした涼子が感嘆の声を上げた。
「すっごいお屋敷。誰の家?」
「友達の」
「一条って、あの一条家?」
門柱の表札に目を遣った柿沼も、驚いた様子で後ろを振り返る。
「ええ。同級生なんです」
「そりゃすごい」
詩都香自身は、伽那が世界規模の企業グループを経営する一族の令嬢であることをときたま忘れそうになるが、普通に考えればやはりすごいことなのだろう。
「僕もちょっと挨拶していこうかな。涼子を使ってもらってもいることだし」
「失礼よ、柿沼さん」
シートベルトのホックに手を伸ばしかけていた柿沼は、涼子にたしなめられてバツの悪そうな顔を向けてきた。
「ごめん、冗談だよ。高原さんもごめん」
涼子の友人の友人に営業をかけるようなことを言ったことを詫びる柿沼だったが、半分がた本気だったように見えた。きっとそのくらいの図々しさがなければ、アイドルのマネージャーなどやっていけないのだろう。
別れ際に差し出された柿沼の名刺を受け取り、送ってもらったお礼を言って、国道一号方面へと走り去る車を見送ってから、詩都香は門柱に設けられたインターホンのボタンを押した。




