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十月四日金曜日の昼休み、詩都香たち郷土史研究部の一同に、部長の吉村奈緒からの召集がかかった。
また合宿とか無茶なことを言うんじゃあるまいな、と思いきや、
「みんな、よくやってくれた」
奈緒の口から出たのは労いの言葉だった。
部室に集まった部員たちが、ついつい互いに顔を見合わせる。
「もしかして吉村さん……」
三年生の部員が代表する形で口を開く。
言葉の続きを先取りするように、奈緒が頷いた。
「うん、部誌の原稿がほぼ完成した。まだ細かい調整は残っているが、月曜までには終わらせられると思う。月曜の放課後、上の大学の印刷所に持ち込んで入稿完了だ」
「おー!」と部室内のそこかしこでどよめきが起こる。ついには拍手の音まで鳴り出した。
隣で嬉しそうに手を叩く松本由佳里につられ、詩都香もそれに和した。
誰もが成し遂げた喜びを噛み締めている。奈緒の要求は厳しく、満たすのは大変だった。しかしそれでも不満の声が上がらなかったのは、訂正や加筆の指示が的確で参考文献まで紹介されていただけでなく、執筆者の顔が立てられ、個性が尊重され、場合によっては逃げ道までも用意されていたからであった。その上、奈緒が部員の中で最も労力を払っていたことを、誰もが認めている。
以前奈緒から「お前は他人に逃げ道を作ってやろうとしない」と説教を受けたことがある詩都香も納得するほかない手腕であった。
なかなか止まぬ拍手を、奈緒が声を張り上げて制した。
「あー、さてさて。最後に部誌関係でもうひと仕事だ。佐緒理、例のものを」
奈緒の意を受けた副部長の初瀬佐緒理が、大喜利の座布団運びよろしく、ファイルに綴じられた分厚い書類の束を部員たちに配って回った。
見ればそれは、これまで散々格闘してきた部誌の原稿である。
表紙には『史鏡——郷土史編』の題字。
「今配布したのは、入稿予定のファイルをプリントアウトしたものだ。何もなければ、これがそのまま印刷されて部誌になることになる。だが、せっかくここまで来たんだ。最後まで気を抜かないでやり遂げようじゃないか。文章、図版、レイアウト、冊子としての体裁、その他何でも気づいたことがあれば、月曜の午前中までに知らせてほしい。私は言うまでもなく、校正を担当してくれた諸君もおそらくは完璧ではない。きっとどこかに抜けているところがある。これが最後の機会だ。表紙・目次から奥付・裏表紙まで目を通して、一人につき一箇所は指摘を上げてくれ」
部員たちに否やはない。一斉に頷く。
「高原さんの、すごく難しそうですね。『京舞原周辺における南北朝期の勢力図の戦国前期への影響』……はふぅ」
隣でファイルの中身をめくっていた由佳里が、変な溜息を吐いた。
詩都香と同じく校正と図版の双方を担当していた由佳里だが、同級生同士ではかえって遠慮が働くかもしれない、という理由で、二人は互いの原稿をチェックしていない。
「別に、何も新しいことは言ってないわよ。先行研究で議論されていることの切り貼り。テーマだってありがちだし」
と、詩都香は同じくファイルをめくって由佳里の書いたものを探しながら応じる。
京から鎌倉への最短ルートを扼す京舞原周辺には、南朝方も北朝方も、勢力のある武家を入部させようとしてきた。それらの武士団は観応の擾乱期に激しく争い、三代将軍義満の治世に南北朝の合一が実現された後も遺恨が残り続け、しばしば水利闘争などの形をとって噴出する。関東への乱世の到来を告げる伊勢新九郎こと後の北条早雲の侵攻に、堀越公方がまともに抵抗することができなかったのも、それが遠因であろう、という話である。
「本物の論文みたいですよ、高原さん」
序文の先行研究紹介を読み進めながら由佳里がはしゃぐ。
「……そうかな、ありがとう」
詩都香自身はあまり出来に満足しておらず、奈緒からも色々ツッコまれたのだが、由佳里の褒め言葉は素直に受け取っておくことにする。
ちなみに、詩都香にとって最も痛かった奈緒のツッコミは、「お前、これは伊豆・相模全体の話だろう。『タイトルに偽りあり』なんじゃないのか?」というものだった。
詩都香自身もそれは痛感していたのだが、今日の京舞原市となった数郡だけに限ると、史料的制約があって事例が少なく、論として到底まとまらなかったのである。
だが奈緒は、元々「京舞原における」となっていたタイトルに「周辺」の二文字を付け加えることで、ゴーサインを出した。
多忙な毎日の気疲れもあってか、今年の郷土史研究部のテーマ「私たちの街の戦国時代」に捕らわれて視野狭窄に陥り、テーマから変更しなければならないのか、と悄然としていた詩都香の頭には、こんな単純なことも浮かばなかったのだ。
一方、由佳里の書いたものは——
「おっ」詩都香は表題を見て思わず声を漏らした。「『北条氏康の統治政策』……」
「高原さん、氏康好きなんですよね? きっと穴が多いので、お手柔らかにお願いします」
「覚えてたんだ。うん、拝読させてもらうね」
一年生同士がそんなフレッシュな会話をしていると、奈緒がこほん、と咳払いを入れて議題を進行させた。
「さて、これで部誌の方はだいたい片付いた。次は展示だ。こちらもかなり押している。そろそろ文実の目も厳しくなってくるはずだ。だろう、高原?」
文実——文化祭実行委員である詩都香は頷いた。
これまでは部員である詩都香がどうにか誤魔化してきたが、他の委員が回ってくるのも秒読み段階である。それで遅れているのが明らかになったら、問題ないと報告し続けてきた詩都香の立場もない。
「部誌作りは大変だが、文実の目には進んでいるのか遅れているのかよくわからない。一方で展示の進行は明々白々だ。このままでは確実に準備不足を指摘される。だが、明日の活動申請は出さない」
「えっ?」
と由佳里が意外そうな声を上げた。
奈緒の言葉に驚いたのは由佳里だけではない。土曜日に活動をする部は申請書を出すことになっている。文化祭前の展示の準備が進んでいない現状では、平日の放課後以上にまとまった時間が取れる土曜日は、貴重な活動日であるはずなのだが。
「ま、諸君にも休みは必要だろう。部誌の仕上げもある。それに、もう一つ理由がある。明日、活動申請が出ている部には文実が抜き打ちで検分にやって来るそうだ」
「えっ?」
今度は詩都香である。明日集まるという話はあったが、抜き打ち云々は聞いていない。
「確かな情報だ。文化祭までひと月を切ったからな。準備が絶望的と見られた企画には申請取り下げが勧告されるそうだ。土曜にわざわざ活動する文化部は準備が遅れているのかもしれない、と思われる。そこに抜き打ちで来るわけだ。意地が悪いもんだよ、畠山クンも」
いったいどこからの情報なんだろう、と詩都香は訝しんだ。委員である詩都香にも聞かされていないのに。
奈緒の人脈は、文化祭実行委員会の上級生にも食い込んでいるようだった。
「もっとも、私たちの準備は絶望的と言うほどには遅れてはいない。もう少し言えば、部誌ができた段階で、展示はどうにでも間に合わせられる。ただ、部誌に注力していたために目に見える形になっていないだけだ。とはいえ文実にお小言を頂戴するのも面白くない。そこで、慌てて準備して明日泥縄状態と見られるよりも、あえて活動せずに時間を稼ぐことにした。来週の月曜か火曜には来るだろうから、日曜を含めても二、三日だが。私は今日の放課後、部室には来られないかもしれない。月曜日も西まで入稿に行かなければならない。みんなにはその間にも準備を進めておいてもらうが、二人か三人ほどには欺瞞工作をやってもらおう」
それから奈緒が語ったのは、欺瞞工作と呼ぶほど上等なものではなく、姑息な弥縫策に過ぎまいと思われたが、ひとまずそれで誤魔化すことになった。
文化祭実行委員である詩都香としては、自分がいる前で語られても困るところだが、ここまで来たら共犯である。
「高原さん、カメラ持ってます?」
教室に戻る道すがら、由佳里が詩都香に尋ねる。なにやら楽しそうだ。
「少し古いコンパクトデジカメならあるけど」
詩都香と由佳里の二人は日曜日に揃って出かけることになっていた。弥縫策の一環として、展示パネルに貼るためのそれらしい風景を撮影してくることになったのである。
「私も家のデジカメ借りられますけど、お父さんのだから使い方よくわからないんですよね」
気負うほど出来を求められているわけではないが、展示にはどうせ写真も使うのだから、誰かがまた撮り直しに行くのも二度手間である。場合によってはA3くらいにまで引き伸ばすので、カメラとレンズの性能は高いに越したことはない。無論、写真展ではないのだから写真の良し悪しにはこだわる必要もないのだが、詩都香としてはあまり手抜きをするのも気の進まないことであった。
「ま、わたしも借りられる当てがないわけじゃないけど。でも、使い方がわからないのはいっしょかも」
もちろん、涼子が所有するデジタル一眼レフを念頭に置いての言葉だ。郷土史研究部の展示の写真に使うには、少々オーバースペックにも思われたが。
あとは涼子が貸してくれるかであるが、既にあまり心配していない詩都香だった。




