50話 選ばれなかった者は誰が救う
エリクの分だけ、札がなかった。
大神殿に隣り合う建物の窓口で、係の人が四枚の木札を並べた。
ベルンさん。僕。ミレア。ノエル。
僕は自分の札を取らずに、隣を見た。
「もう一人、います」
「エリク・ヴァレンさんですね。そちらは、こちらです」
差し出されたのは、木札ではなく、薄い紙だった。
昨日の審問でも、エリクは僕たちと同じ机についた。同じ門から帰って、同じ宿で眠った。
なのに、たった一晩で、受け取るものが違っていた。
*
朝食のとき、エリクは網の結び目を直していた。
食卓ではなく、食堂の隅の長椅子でだ。パンくずのついた手で縄を触るなとミレアに言われ、手を洗ってから、また同じ場所へ戻っていた。
僕は隣に座り、編み目を一つ押さえた。
「ここ、緩んでた?」
「切れてはない。けど、引いたとき、こっちばかり縮む」
エリクが片側を引く。網の端が斜めになった。
彼は結び目をほどき、少し位置をずらして結び直した。もう一度引くと、両端が同じくらい動いた。
「ほら。こっちなら、脚が一か所だけ締まらない」
捕まえた石角兎のことを、僕は思い出した。
助けるつもりで、痛くしてしまったら嫌だ。
エリクは、まだ網を見ていた。
「今日は話を聞くだけだろ。帰ったら、残りも直す」
そう言って、自分の袋へ畳んだ網をしまった。
白い鼻が、僕の膝の横から近づく。
『我は網に入らぬぞ』
「入れないよ」
アインは僕とエリクへ声を届けていた。エリクも、口の端を上げる。
「入っても、すぐ出そうだしな」
『出してくれと申す』
僕たちは笑った。
その網を、昼までに預けることになるとは思わなかった。
*
説明会の部屋には、長机が三列あった。
正面の壁に王都の地図。右の扉が手当てを受ける部屋へ、左の扉が道具の検査場へ続いている。入口から奥まで、中央の通路は空けてあった。
僕たちのほかにも、何組かの冒険者が座っていた。
肩へ鳥の精霊を乗せた女性。足元に緑の小さな精霊を連れた老人。杖を両手で握っている、僕より少し大きな男の子。
その子のそばに、精霊の姿は見えなかった。姿を隠しているのか、契約していないのかは、見ただけでは分からない。
アデラさんは入口で僕たちの到着を確認すると、壁際へ立った。
王女殿下とアウレシア様は、来ていない。
今日は、神殿と支部の担当者が、昨日決まった調査の手順を説明する日だった。
木札のない紙を手にしたエリクも、僕の隣に座った。
席まで離されるのではないかと、僕は少しだけ心配していた。
「最初に、皆さんの宿泊についてです」
支部の職員が、正面に立った。
召喚や聴取のために滞在を求められている人には、引き続き宿と食事が用意される。子どもの外出は、成人の責任者と一緒にする。
エリクの分も、なくなったわけではなかった。
僕が息を吐くと、彼が紙を指でたたいた。
「そこは、俺にも書いてある」
その先が、違っていた。
*
今回の共同調査では、力を奪われた精霊と契約者のために、専用の手当て場所を設けるという。
そこで働く救援班の訓練も始める。
負傷した人を運ぶ方法。精霊が力を使えなくなったときに、道をふさがず退く方法。契約者が倒れたとき、相棒を無理に引き離さず大人を呼ぶ方法。
聞いていると、僕たちにも覚えたいことがいくつもあった。
木札は、その訓練と、必要な装備の点検を受けるためのものだった。
「契約していない人は、別の日ですか」
エリクが手を上げた。
支部の職員は、手元の名簿へ目を落とした。
「現在の募集対象は、登録済みの契約者です」
「縄を使うのも?」
「訓練をまとめて一つの枠として扱っています。今回は、契約精霊の保護と回復のために設けられたものですので」
エリクは、紙を裏返した。
裏には何もなかった。
「じゃあ、俺は何をすればいいですか」
「同行者として、調査の聞き取りに協力していただきます」
今まで、何をしてきたかではなかった。
今、誰と契約しているかで、受ける説明が分かれていた。
ベルンさんが、静かに手を上げた。
「この子は登録冒険者だ。救助の実績も提出している。人を運ぶ訓練まで外す理由を、確認したい」
職員は、別の担当者を呼んだ。
二人が紙を見比べる間、誰も次へ進まなかった。
僕は、エリクの袋の口を見た。
朝、直した網が、少しだけのぞいていた。
*
回答を待つ間、正面の担当者が説明を続けた。
手当て場所では、力を失った精霊の状態を先に確かめ、契約者の休息と一緒に記録する。
杖を持った男の子が、入口の近くで付き添いの女性へ何かを聞いた。
声は小さかったが、部屋が静かだったので聞こえた。
「俺も、あそこで脚を見てもらえる?」
女性は窓口の人を呼び、紙を差し出した。
男の子は、契約精霊がいないと答えた。転んで脚を傷めてから、歩くと痛むのだという。
「そちらの継続手当ては、通常の診療所でお願いします。こちらは契約に関わる異常を扱いますので」
窓口の人が、部屋を出た先の道を説明した。
急に具合が悪くなった人は誰でも診る、とも付け加えた。
だから、今すぐ追い出されるわけではない。
けれど、女性が診療所の順番と費用を尋ねると、この窓口では分からないと言われた。
男の子は杖を持ち直し、椅子へ座った。
「また歩くのか」
それだけ言った。
ミレアが、僕の横で水筒を握る。
「あの人たちにも、行く場所まで教えてあげられないのかな」
彼女は勝手に薬を渡さず、ベルンさんへ小声で聞いた。
ベルンさんは職員へ、診療所につなぐ担当がいるか確認した。歩くのがつらいことも、改めて伝える。
アデラさんが窓口へ来て、宿へ戻る護送の車に空きがあるか、別の騎士へ確かめに行った。
道順を聞けただけよりは、よかった。
でも、困っていると誰かが言うまで、誰もそこをつなぐ役ではなかった。
僕は木札を裏返した。
アインに選ばれなかったら、僕の手にも、これがなかったのだろうか。
*
救援訓練の件は、今日中には決められない、と返事が来た。
予算も、名簿も、契約者の訓練として作られている。窓口で一人だけ加える許可は出せない。
ベルンさんは、答えた担当者の名と、申し立てる先を紙に書いてもらった。
「宿泊と聞き取りは継続する。そこは変わらないな」
「はい」
「なら、この子を部屋へ残して、ほかの子だけ先へ進めることもしない。班の説明は、まとまって受ける」
職員はうなずいた。
今日は訓練そのものの日ではない。全員で、次の道具の点検へ進めることになった。
僕が椅子を立つと、アインが膝から床へ下りた。
『エリクは、我の声を聞く』
相棒は僕とエリクへ声を届け、白い鼻先を木札へ向けた。
『契約はしておらぬが、我らと一緒に動ける。それでは足らぬのか』
僕は、その言葉を職員へ伝えた。
相手は困った顔をしてから、首を横に振った。
「念話を聞けることと、正式な契約の記録は、同じには扱えません」
昨日、僕たちが一生懸命、分けて説明したことだった。
アインがエリクの膝を選んでも、新しい契約ではない。
その区別は、なくしてほしくない。
でも今は、違うから駄目だと言われるために使われていた。
僕は、何と返したらいいのか分からなかった。
エリクが僕の袖を引く。
「行こう。後ろ、待ってる」
通路に、次の組が立っていた。
*
検査場の机には、端に浅い溝があった。
転がりやすい工具を、その内側に並べるためだという。
全員が、使う道具を机へ出す。
ベルンさんの刃物。僕の小さな工具。ミレアの薬を切り分ける道具。ノエルの留め具。
刃や破損を確かめてもらい、それぞれの袋へ戻す。
エリクも、網と、捕獲に使う金具、それから普通の修理用の工具を並べた。
係の人が、網の端についた金具を持ち上げた。
「組み合わせを変えて使うものですか」
「はい。広さと、捕まえるものに合わせます」
「術式は」
「ありません。手で引きます」
係の人は、別の一覧を開いた。
網と金具を使うときの形を、エリクに説明させる。彼は机の上で端を少し広げたが、通路へは出さなかった。
「街中では張りません。人が通る場所も、先に止めます」
「依頼先の責任者による使用記録はありますか」
「支部に出しています」
ベルンさんが控えを出した。
水都での捕獲。ガルドでの作業。誰が点検し、誰が現場を見ていたか。
係の人は、その紙を読んだ。
読み終えても、網を戻さなかった。
*
「王都で、この共同調査に使う捕獲具については、追加の確認が必要になります」
係の人は、机の上へ規則の写しを置いた。
契約精霊の術と併用する道具は、冒険者本人の登録と、精霊の能力記録に付けて審査する。
精霊術を使わずに組み立てて働かせる捕獲具は、別に、製作者か使用者の技能を確認する。
ベルンさんが読んでから、僕たちへ短く言い直した。
「精霊と使う道具には、今の登録を使える。道具だけで同じ仕事をする場合の確認は、まだ済んでいないと言っている」
エリクが、机の網を見た。
「俺がどう使ったかは、さっきの紙にあります」
「実績は確認しました。ただ、こちらの認可とは別です」
「どこが危なかったですか」
係の人は、すぐには答えなかった。
「破損が見つかったという意味ではありません。認可が未了ですので、対象の道具を一時接収し、保管します」
僕は網へ手を伸ばしかけた。
朝、エリクが直した結び目が見えた。
危ないところを、ちゃんと探して、直したのに。
「僕の道具にしたら、返してもらえますか」
言ってから、エリクを見た。
彼は、笑わなかった。
「ルカは、これを張るときの結び方、全部できる?」
僕は、首を振った。
「俺が横で教えるなら、できる。でも、今ここで名前だけ変えるのは、違うだろ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
昨日、アインは僕の持ち物ではないと言った。
今日は、エリクの仕事まで、自分の名前で包もうとしていた。
「……ごめん。勝手に言った」
「返してほしいのは、俺も同じだよ」
エリクは机へ向き直った。
「俺が使えるって、俺の名前で確かめてほしいです」
*
ベルンさんは、すぐに袋を渡させなかった。
接収するものの名前。理由。置く場所。返すかどうかを決める担当と、回答する日。
一つずつ聞き、書面へ残させた。
「工具すべて、という扱いにはしないな」
「はい。対象は捕獲網と、それに取り付ける金具一組です。修理用の工具と縄は、お戻しします」
係の人が指で分け、エリク自身が数を確かめた。
王都へ来てから、何度もやった受け渡しだった。
けれど、今日は違う。
帰りに受取札を出せば、そのまま全部戻るわけではない。
「捨てたり、ほどいたりしませんか」
エリクが聞いた。
「検査のために状態を変える場合は、先に責任者へ連絡します。本日は、このまま保管します」
ベルンさんは、封をする前の網を見せてもらった。ノエルが、結び目の形を紙へ描き写す。
係の人とエリクが見ている前で、網と金具が箱へ入った。
蓋に番号を付け、控えにも同じ数字を書く。
僕は、数字が合っているかを見た。
それくらいしか、今は手を出せなかった。
アインが床から、エリクの指先へ鼻を寄せた。
『壊さぬよう、直しておったな』
エリクは、うなずいた。
「うん」
『我は見ておった』
その声が、係の人には聞こえていないことを、僕は知っていた。
だから今度は、訳した。
朝、網を直していたこと。足を締めつけないように、引き方を確かめていたこと。
係の人は、使用者からの説明として、それも控えに書いた。
書いてもらっても、箱の蓋は開かなかった。
*
建物を出たところで、アデラさんが待っていた。
杖の男の子と付き添いの女性も、壁際の長椅子にいる。
宿へ向かう車が途中まで一緒に乗せてくれることになり、その先は診療所に連絡してから案内するという。
男の子が、立ち上がろうとした。
膝の上の袋が滑り、杖をつく手からも力が抜ける。
エリクが先にしゃがんだ。
落ちた袋を拾い、椅子へ戻す。
「車が来るまで、座ってていいって」
彼はアデラさんを見て確かめた。騎士がうなずくと、男の子はもう一度腰を下ろした。
袋の持ち手が細く、指へ食い込んだ跡があった。
「布、余ってる?」
エリクが聞くと、女性が袋から古い手拭いを出した。
彼は使ってよいかを確かめ、細く畳んで持ち手へ巻いた。結び目を握る場所の外へずらし、最後は女性に引いてもらう。
「これなら、少し痛くないかも。重いのは大人に持ってもらって」
男の子が、巻かれた布を触った。
「……ありがとう」
エリクは照れたようにうなずき、僕たちの方へ戻ってきた。
道具の袋が、朝より薄かった。
僕はその袋を見ないようにして、すぐに、そんなことをしてもなくなったものは戻らないと思った。
「持とうか」
「軽いよ。今は」
エリクは、そう答えた。
*
宿へ戻ってから、ベルンさんは支部へ出す紙を書いた。
昇格の異議についても、王都の担当へ確かめる。
ガルドで保留されたままの査定と、今日の道具の認可。別の紙だから、別々に聞かなくてはならないという。
明朝、僕たちも一緒に支部へ行くことになった。
ミレアは、今日受け取った木札を机へ置いた。
「これ、私も受けないって返したら、エリクも入れてくれる?」
「お前の分がなくなるだけかもしれない」
ベルンさんが答えた。
「一緒に受けたい、という希望は出す。ただ、覚えられる手当てまで手放すことは、勧めない」
ミレアは黙ってから、札を自分の袋へしまった。
ノエルは、網の絵をエリクへ見せた。結び目の向きを一つ直し、二人で控えの番号を見直す。
アインは、彼らの間に寝そべっていた。
僕は昼のパンを二つに割り、エリクの前へ半分を置いた。
「これ、食べる?」
「お前の分は」
「ある。半分」
エリクは少し迷ってから、受け取った。
僕には、精霊がいる。
アインが炎の精霊ではないから、家から追い出された。それなのに今は、アインとの契約があるから、もらえる札がある。
アインを選んだことは、間違いじゃない。
エリクに精霊がいないことも、間違いじゃないはずだった。
「明日、ちゃんと見てもらおう」
僕が言うと、エリクはパンを飲み込んだ。
「うん。俺、できることまで、ないことにされたくない」
袋から、小さな工具を一本出す。
取り上げられずに戻った、彼の道具だった。
エリクはその柄を拭き、机の上へ置いた。
「駄目って言われたら、何が足りないのか聞く」
僕はうなずいた。
その日、網を直す約束だけが、できないまま残った。




