15話 討伐札の白い狼
白い狼の足跡には、血が混じっていた。
東の宿場を出て北へ半刻。
羊が襲われた牧草地の柵には、白い毛が何本も引っかかっている。
でも、地面に残る血は柵の内側ではなく、森へ戻る足跡に沿って落ちていた。
「獲物を喰って傷ついたなら、行きと帰りの両方に血があるはずだよね」
僕が言うと、エリクがしゃがんだ。
「それに、この針金」
柵の下へ、細い金属線が輪になって埋められている。
獣の脚が入れば締まる罠だ。
切れた端に白い毛と乾いた血が付いていた。
「牧場の罠ですか」
ミレアが牧場主へ尋ねる。
「違う。狼が出た後、猟師に頼んで置いた」
「羊が襲われた後なんですね」
「そうだ。だから狼が犯人なのは変わらない」
討伐札には、羊三頭が喰われたと書かれている。
被害は同じ夜ではなかった。
最初の一頭が消えたのは六日前で、南側の柵板が下から外されていた。
二頭目は四日前。今度は水路の格子が破られていた。
三頭目は昨日で、このときだけ上の柵板に白い毛が残り、牧場主の息子が羊を咥えた白狼を見ている。
エリクが柵沿いを歩き、三度の被害で壊れた場所へ順番に木札を置いた。
侵入口が毎回違ううえ、白狼の痕跡があるのは三度目だけだった。
「全部、同じ入り方じゃない」
牧場主は困った顔で帽子を握る。
「最初の二度は見ていない。朝になったら羊が消えていた。昨日だけ、息子が白い狼を見たんだ」
呼ばれた少年は八歳だった。
大人に囲まれ、何度も父親の顔を見る。
「間違っても怒らないよ。見た順番だけ教えて」
僕が言うと、少年は少し考えた。
「羊が鳴いた。窓を開けた。白いのが、羊を咥えてた」
「走っていた?」
「歩いてた。右の足を変にしてた」
「羊は鳴いていた?」
「鳴いてない」
「白狼が羊を噛むところは見た?」
少年は首を横へ振った。
「お父さんを呼びに行って、戻ったらいなかった」
嘘ではない。
でも、見ていない間に起きたことまで白狼の仕業だと決まったわけでもない。
ミレアが少年の言葉をそのまま紙へ書く。
〈白狼が羊を咥えて歩くところを目撃。襲う瞬間は未確認。白狼は右後脚を負傷〉
「討伐札と、少し違うね」
「札には短くしか書けないからな」
ガレスが言う。
「短くするときに、見たことと考えたことが一緒になったんだ」
僕たちは三か所の壊れ方も記録した。
白狼一頭だけを追うなら要らない情報かもしれない。
でも別の獣がいるなら、最初の入口がそこに残っている。
水路の格子には、黒い泥と細い爪跡が付いていた。
ポロが水筒の中で嫌がり、底へ沈む。
腐った肉の汁が、水路へ流れた跡だった。
目撃されたのは、人より大きな白狼一頭。
依頼等級はD。正式受注者はガレス班で、ベルンさんも調査役として依頼票へ入った。
昨日、左腕を痛めたセドは東の宿場で休んでいる。今日はガレスとロイの二人に、宿場の依頼取次所から斥候が一人加わった。
僕たち三人は昨日と同じ補助参加だ。
右膝のせいで、僕は荷車に座ってここまで来た。
走れないことは、全員へ伝えてある。
「足跡は一頭分だ」
ガレスが剣の柄へ手を置く。
「負傷しているなら追いつける。今度は護衛じゃない。討伐する仕事だ」
「何を喰ったか、先に見てもいいですか」
「羊だろう」
牧場の隅には、三頭分の骨と毛が集められていた。
ミレアが鼻と口を布で覆い、近づく。
ポロは水筒から出ない。腐ったものが混じる場所は苦手らしい。
ベルンさんが骨を一本ずつ動かした。
「噛み跡の大きさが違う」
太い骨には、大きな牙の穴が二つ。
細い骨には、もっと小さく細かな傷が並んでいる。
「白狼と子ども?」
僕が聞く。
「まだ決めるな。小型の別種かもしれない」
アインが骨へ鼻を近づけ、すぐ顔を背けた。
『白き狼の匂いは薄い。別の獣の臭いが強い』
「アインは、白狼がここで食べた匂いは薄いって。別の獣の匂いが強いみたい」
「どんな獣だ」
『油と腐れ肉。土の下を好む臭いだ』
ベルンさんは牧草地の端を見た。
雨水を流す溝に、黒い毛が一房落ちている。
牧場主は首を振った。
「白い狼を見たんだ。羊を咥えて森へ逃げた」
嘘を言っているようには見えない。
「咥えていた羊は、生きていましたか」
ミレアが尋ねた。
「遠かった。動いてはいなかったと思う」
襲ったのか。
すでに死んでいた羊を運んだのか。
見ただけでは分からない。
ガレスは森へ続く血の跡を指した。
「見つければ分かる」
僕たちは追跡を始めた。
森の中では、ガレスたち三人が前を歩く。
僕はベルンさんが引く小さな二輪車へ座った。荷物用だが、右足を伸ばしたまま移動できる。
恥ずかしい気持ちはあった。
でも無理に歩けば、見つけた後で逃げられない。
「血は新しい。半日以内だ」
宿場の斥候が言う。
白狼の歩幅は、森へ入ってから短くなっていた。
右後脚だけ、土を深く擦っている。
「罠の傷が痛いんだ」
ミレアが薬草袋を握る。
「治すつもりか?」
ガレスが振り返った。
「近づけるなら。でも先に、襲ったか確かめます」
「討伐対象だぞ」
「でも、依頼票が間違っていることもあります」
エリクが言った。
「この前も、一匹と書かれていた石角兎が、実際には七匹いました」
ガレスは嫌そうな顔をしたが、足を速めなかった。
やがて血の跡が二つに分かれた。
大きな足跡は北へ。
小さな丸い跡が、西の茂みへ続いている。
『三頭おる』
アインが耳を動かす。
「白狼は三頭。大きいのが一頭と、小さいのが二頭みたい」
討伐札には一頭としかない。
「子がいるなら、巣へ近づくほど襲ってくる」
ベルンさんが全員を止めた。
「ここからは退路を残す。木へ白布を結べ。帰りに外せる結び方で」
エリクと斥候が交互に印を付ける。
僕はアインの鼻を借り、風上と風下を伝えた。
白狼の匂いに混じって、油と腐れ肉の臭いが強くなる。
牧草地の溝にあった黒い毛の臭いだ。
「近くに別の魔獣もいる」
「数は?」
『多い。土の下を動いておる』
地面が僅かに盛り上がった。
テトが前脚で土へ触れ、低く鳴く。
次の瞬間、斥候の足元が崩れた。
黒い獣が三頭、穴から飛び出す。
鼠に似ているが、前脚が鋤のように太い。口の周りには腐った肉が付いていた。
「墓掘り鼠!」
ガレスが剣を抜く。
一頭を横から叩き、斥候を穴から引き離した。
残る二頭は僕たちではなく、北の茂みへ走る。
その先で、白い影が立ち上がった。
人の胸ほどもある白狼。
右後脚に罠の針金が食い込み、毛が赤く濡れている。
背後には、まだ目の青い子狼が二頭いた。
白狼は墓掘り鼠へ牙を剥いた。
「あいつらから子を守ってる」
ミレアが言う。
墓掘り鼠の一頭が子狼へ飛びかかる。
白狼は傷ついた脚で地面を蹴り、鼠を横から噛み飛ばした。
もう一頭をロイが槍で止める。
短い戦いだった。
黒い鼠は一頭が死に、二頭が穴へ逃げた。
白狼は逃げない。
僕たちと子狼の間へ立ち、喉を鳴らしている。
「今なら動けない」
ガレスが剣を構えた。
アインが二輪車から飛び降りる。
『待て。あれは言葉を聞いておる』
「アイン?」
白狼の耳が、アインの鳴き声へ向いた。
ただ警戒しただけではない。
言葉の切れ目を待つように、唸り声が止まった。
『白き者よ。我らは子を奪わぬ』
アインが一歩進む。
白狼は牙を見せたまま、短く鳴いた。
僕の頭へ意味のある言葉は届かない。
それでも、アインには何かが分かったらしい。
『これは我の言葉を聞く。返す言葉を、まだ持たぬだけだ』
「アインの話を理解してるみたい」
「精霊なのか?」
ガレスが聞く。
『違う。獣だ。だが、ただの獣でもない』
「魔獣だけど、考えてるって」
ガレスの剣先は下がらない。
「考える魔獣でも、羊を襲う」
「この狼の口を見て」
ミレアが離れた場所から指した。
白狼の牙には新しい血がある。けれど白い毛や羊の脂は付いていない。
足元の墓掘り鼠には、羊の毛が絡んでいた。
エリクが鼠の前脚を見る。
「牧草地の溝にあった黒い毛と同じです。骨の細かい噛み跡も、この歯なら合う」
僕は、ここまで見つけたものを頭の中で順番に並べた。
最初の二度は、地面に近い柵板と水路の格子が破られていた。水路には墓掘り鼠の黒い毛が残り、羊の骨には鼠と同じ細かな歯形がある。
白狼の白い毛と大きな足跡があったのは、昨日の三度目だけだ。その白狼自身は鼠の棘で脚を傷つけ、今も子狼を鼠から守っている。
墓掘り鼠が羊を襲い、地下へ運んだ。白狼は鼠を追い、すでに死んだ羊を巣から遠ざけた。
まだ推測ではある。けれど牧場主の息子が見たのは、白狼が羊を襲う瞬間ではなく、死んだ羊を運んでいた途中だった可能性が高くなった。
「可能性だけでは、討伐札は取り消せない」
ベルンさんが言った。
「だから証拠を持ち帰る。鼠の歯型、黒い毛、巣穴の位置。白狼は今ここで殺さない」
「逃げたら?」
「追跡札を付ける。治療と引き換えに近づけるか、先に試す」
ミレアが眠気草を取り出した。
無理に近づけば、子を守る白狼は襲ってくる。
ポロが清水へ草の汁を薄く混ぜ、木皿へ入れた。
アインが白狼へ話しかける。
『脚の痛みを取る。飲めば眠るが、子には触れぬ』
白狼は動かなかった。
僕たちは全員、五歩下がった。
ガレスも剣を鞘へ戻す。
木皿だけを、テトが土の小さな波で白狼の前へ送った。
白狼は匂いを嗅ぎ、アインを見る。
それから水を飲んだ。
すぐには眠らない。
子狼を腹の下へ入れ、最後まで僕たちを見ていた。
やがて前脚が折れ、ゆっくり地面へ伏せる。
ベルンさんが近づき、呼吸を確認した。
「深くは眠っていない。急げ」
罠の針金は肉へ食い込んでいた。
エリクがやっとこで輪を広げ、ガレスが白狼の体を押さえる。ミレアは清水で傷を洗い、薬草を当てた。
僕は二輪車から周囲を見た。
子狼が一頭、僕の杖へ鼻を近づける。
触ろうとはしなかった。
右足へ力をかけられない今の僕には、素早く逃げることもできない。
アインが間へ立つ。
『案ずるな。これは噛まぬ』
子狼は杖の匂いを嗅ぎ終えると、母親の腹へ戻った。
傷口には、針金だけでなく黒い棘が一本残っていた。
墓掘り鼠の前脚に生えた棘と同じ形だ。
ミレアが指で抜こうとすると、ベルンさんが止める。
「折れれば中へ残る。根元を見ろ」
毛を水で分け、棘が入った向きを確かめる。
エリクが細いやっとこを火で炙り、清潔な布の上で冷ました。
「熱いまま使ったら、もっとけがをさせるから」
僕は前にニコを助けたときのことを思い出した。
同じ道具でも、急げばいいわけではない。
ガレスが白狼の肩を押さえ、ベルンさんが脚を動かさないよう固定する。
ミレアは棘の根元をやっとこで挟み、入った向きと同じ角度でゆっくり抜いた。
白狼の体が一度だけ震えた。
子狼たちが鳴く。
アインが間へ座り、『母は生きておる』と何度も伝えた。
抜けた棘には返しが二つある。
羊の骨に残っていた細い傷とも合いそうだった。
「これも証拠になる?」
ミレアが尋ねる。
「なる。ただし、この狼が鼠と戦った証拠だ」
ベルンさんは棘を小瓶へ入れた。
「羊を襲っていない証明とは、まだ違う」
一つ分かると、全部分かった気持ちになる。
僕は木札へ、棘を抜いた場所と時刻を書いた。
傷の処置が終わる頃、白狼が目を開けた。
立ち上がろうとしてよろめく。
ミレアが下がり、誰も押さえつけなかった。
エリクが、ギルドの追跡札と細い布を掲げた。アインはその横へ立ち、白狼へ話しかける。
『七日だけ付けよ。おぬしが何をしておるか、人の群れに確かめさせよ』
白狼は布を嫌がった。
けれどアインがもう一度言うと、頭を低くした。
エリクが長い棒を使い、細い布を前脚の後ろへ回した。首輪ではなく、胸と肩を緩く囲う肩帯にして札を結ぶ。木へ引っかかれば外れる弱い結びにした。
白狼は子ども二頭を連れ、森の奥へ消えた。
ガレスは持参した依頼票を裏返した。
「持ち帰って、保留にする」
「怒られませんか」
「討伐証明はない。でも、別の被害原因は見つけた」
死んだ墓掘り鼠、黒い毛、罠の針金、噛み跡の写しを回収する。
倒さなかった理由も、逃がした条件も全部報告する。
宿場へ戻る道で、ガレスが僕へ尋ねた。
「あの狼は、本当にアインの言葉を理解したのか」
「たぶん」
「たぶんか」
「僕には白狼の声が言葉に聞こえなかったから。でも、アインが待てと言ったとき、待ちました」
分からないことを、分かったふりはできない。
ただ、討伐札に描かれた恐ろしい獣と、子どもを腹へ隠した白狼が同じだったことは見た。
東の宿場へ戻ると、ガレスは掲示板から討伐札を外し、集めた証拠と報告書を依頼取次人へ渡した。
取次人は内容を確認し、赤い文字で〈調査中〉と書かれた札へ掛け替えた。証拠と正式な報告書は、翌朝の便でハルデン支部へ送られる。
墓掘り鼠の巣穴を確かめ、羊の被害と一致すれば、白狼の指定は取り消せる。
「白狼に名前はあるの?」
ミレアがアインへ尋ねる。
僕が訳す前に、アインは森の方角を見た。
『あれは、名を持つ意味を知っておる』
「どういうこと?」
『次に会えば、我へ告げるであろう』
白狼はまだ仲間ではない。
でも僕たちは、倒すための札を一度外した。
次に会うとき、あの狼がどんな声で自分を語るのか、僕は知りたいと思った。




