第10話 不合格です、閣下。設計が雑すぎます
博覧会から一週間。
工房の前には、注文書の束を持った商人たちが毎朝行列を作っている。
忙しい。
幸せに忙しい。
◇
「先生、在庫が足りません!」
「分かってる! 午後に魔石を追加で仕入れるから、午前中は既存の注文を片付けて!」
「はい!」
トビアスが走り回っている。工房が狭い。作業台が足りない。人手も足りない。
嬉しい悲鳴だ。半年前、金貨五枚を切って途方に暮れていた頃が嘘のよう。
博覧会での受賞と盗作事件の顛末は、王都中に広まっていた。
博覧会運営委員会の報告を受けた王立審議会が、正式な裁定を下したのは三日前のこと。エーデルシュタイン伯爵家に損害賠償命令。ローゼには社交界からの二年間の一時追放。カーライルとの婚約も揺らいでいるらしいが、それはもう私の知ったことではない。
ヴァルデン侯爵が議会で追及していた「宰相と工房主の癒着」の件は、フィーネ工房が推薦なしで博覧会の審査を通過したことで根拠を失った。いつの間にか議題から消えていたらしい。ハインリヒが「閣下は何も仰いませんが、侯爵は相当ばつが悪そうでしたよ」と教えてくれた。
工房の拡張を考え始めていた。隣の空き店舗を借りて壁を抜けば、作業場を倍にできる。弟子をもう二人くらい取ってもいい。
「先生、お客さんです」
トビアスの声に顔を上げる。工房の入口に、見覚えのある金髪が立っていた。
◇
カーライル・フォン・リヒテンベルクは、以前とは別人のような顔をしていた。
穏やかだった目元が疲れている。頬がこけて、整っていた顔の印象が変わっている。あの完璧な笑顔はどこにもなかった。
「フィーネ。いや──フィーネ嬢」
呼び方を改めたのか。私はもう婚約者ではないのだから、それが正しい。
「博覧会の件で、正式に謝罪に参りました」
カーライルが頭を下げた。深く。
侯爵家の嫡男が、元伯爵令嬢の工房で頭を下げている。半年前なら想像もできなかった光景だ。
「ローゼのしたことは、弁護のしようがありません。そして、あなたとの婚約を破棄した時の私の判断も──」
「カーライル様」
遮った。優しく。
「もうお気になさらず」
カーライルが顔を上げる。
「私はもう、あの頃の私ではありませんから」
怒りはなかった。恨みもなかった。本当に、何もなかった。
カーライルは「あの頃のフィーネ」を傷つけた人だ。でも「今の私」にとっては、もうただの他人だった。過去の登場人物。名前を忘れかけた、あの日と同じ。
カーライルの目に、何かが光った。涙かもしれないし、光の加減かもしれない。
「……君は、本当に強くなったな」
それは褒め言葉のつもりだったのだろう。でも違う。私は強くなったんじゃない。最初から、こうだった。あの家ではそれを出す場所がなかっただけだ。
確認する前に、彼は踵を返して工房を出ていった。
扉が閉まる時、背中が少しだけ丸まっていた。
(……さよなら、カーライル)
今度は名前を覚えていた。忘れはしない。でも、もう思い出すこともないだろう。
トビアスが戻ってきて、入口をちらりと見た。
「先生、あの人泣いてましたよ」
「そう」
「先生は泣かないんですね」
「泣いてる暇があったら、注文を片付けなさい」
「はーい」
◇
午後。
注文の処理がひと段落した頃、また扉が開いた。
ジークハルトだった。
博覧会以来だ。あの日、「話がある」と言って私の手を握ったまま、結局何も話さなかった。会場が騒がしすぎたのだ。
相変わらず表情が薄くて、目の下に隈がある。でも、博覧会の時より少しだけ──ほんの少しだけ、顔色がましに見えた。
「フィーネ殿。少し時間をもらえるか」
トビアスが空気を読んで、「僕、市場の様子を見てきます!」と飛び出していった。気が利く子だ。
工房に二人きりになる。
ジークハルトは作業台の前に立ち、あの椅子を──ずっと空のままだった椅子を、ちらりと見た。
そして、作業台の上に何かを置いた。
小さな箱。開けると、中に魔道具の試作品が入っている。
手のひらに収まるサイズの、空調制御装置。魔石が二つ、精密に組み込まれている。
見覚えのある設計だった。
以前、ジークハルトと二人で設計図の前で話し合った時──「暖房だけでなく冷房も制御できたら面白いですね」「理論上は可能だ」──あの時のアイデアを、形にしたもの。
「これを、一緒に完成させてほしい」
ジークハルトの声が、いつもよりわずかに低い。
「仕事としてではなく」
心臓がうるさい。
「以前借りた設計図は、全て保管してある。一枚も捨てていない。参考資料ではなかった。──あなたが作ったものだから、手元に置いておきたかった」
毎週工房に通っていた頃、「参考資料として借りたい」と言って持ち帰った設計図。
全部、自室に保管していた。
この人は。
本当に、嘘が下手だ。
「……不合格です、閣下」
ジークハルトの目が見開かれた。
「プロポーズの設計が雑すぎます。起承転結がない。感情の導線が不明瞭。ユーザーの心理を考慮していない。技術者としては失格です」
技術の言葉でしか返せないのは、私も大概だと思う。でも、こういう時にどんな顔をすればいいか分からない。前世でも今世でも、こんな場面は初めてだ。
ジークハルトは──笑った。
初めて見た。この人の笑顔。口の端が上がって、灰色の瞳が細くなって、目元の皺が深くなった。不器用な笑い方だった。
「では改良する。何度でも」
ずるい。
そんな顔で、そんなことを言うのは、ずるい。
工房の窓から夏の陽が差し込んでいる。作業台の上の試作品に光が当たって、魔石がかすかに輝いている。二人で話し合ったアイデアが、こんなに小さな形になって、ここにある。
指輪じゃない。花束でもない。宝石でもない。
魔道具だ。二人の間に最初にあったものが、技術だった。だから、これでいい。これがいい。
「一つだけ条件があります」
ジークハルトの手を取った。自分から。
魔石の粉で荒れた、お世辞にも綺麗とは言えない手で、インクの染みがある白い指を握った。
「私の工房は、私のままです。ヴァイスベルク家の付属品にはなりません」
「当然だ」
即答。迷いがない。
「それと」
「はい」
「……そろそろ、閣下はやめてくれないか」
ああ。
そうだった。この人にはまだ、名前で呼ばれていなかった。
「では──ジークハルト様」
言った瞬間、ジークハルトの手が、私の手を強く握り返した。
震えていない。あの日、火傷した指を包んだ時とは違う。迷いのない、温かい手だった。
◇
夕方。
工房の外に出て、看板を見上げた。
「フィーネ工房」。
半年前、埃だらけの店舗に掲げた、手書きの看板。
この看板の横に、いつか小さな銘板が並ぶ日が来るのだろう。
「ヴァイスベルク公爵夫人」なんていう、大仰な肩書きの銘板が。
でもそれは、まだ先の話。
今はまだ、作りたいものがある。暖房炉の量産体制。空調制御装置の完成。トビアスに教えること。新しい弟子を迎えること。
やることは山積みだ。
工房に戻る。
作業台の横に、あの椅子がある。
もう空ではない。
「ジークハルト様、そこに座るなら手伝ってください。注文が溜まってるんです」
「……分かった」
宰相兼公爵が、袖をまくった。
──この工房から始まった物語は、この工房で一つの形になった。
でも、終わりではない。
だって、まだ設計図の途中なのだから。




