第1話 お好きになさって?
「お好きになさって? 私は私の仕事がありますので」
──それが、三年間の婚約に対する、私の最後の言葉だった。
◇
始まりは、その前日の夕食だ。
エーデルシュタイン伯爵家の食堂。春の夕暮れが窓から差し込む中、向かいの席で妹のローゼがフォークを置いた。
「お父様、お姉様。──お話があるの」
ローゼの碧い瞳がうるんでいる。亡くなった母に似た、と父がいつも目を細める顔だ。
私には似ていない。私は母の黒髪だけを受け継いで、目元は父に似た。それだけのことが、この家での立ち位置を決めた。
「カーライル様のことなの」
ローゼの声が、少しだけ震える。
ああ、来たか。
フォークを持つ手は動かさないまま、私は内心で息を吐いた。
「お姉様の婚約者のカーライル様を──私に、くださいませんか?」
食堂が静まり返る。
父は一瞬だけ目を伏せ、それから、ローゼの方を向いた。
「……ローゼ。それは、お前の本心か」
ローゼが涙を一粒だけ落として頷く。完璧な間。完璧な一粒。
私はその涙の落とし方を、もう何十回と見てきた。
父はフィーネを──私を、見なかった。
「分かった」
二文字。
三年間の婚約が、二文字で終わった。
◇
翌朝、庭園。
カーライル・フォン・リヒテンベルクは、穏やかな顔で私の前に立っていた。
「フィーネ。話は聞いていると思うが──」
「ええ」
「ローゼを傷つけたくないんだ。婚約は、解消してほしい」
風が桜の花びらを運んでいく。カーライルの金髪が揺れる。三年前、この髪を綺麗だと思ったことを、ぼんやり思い出す。
「それから、違約金のことだが」
彼は少し目を逸らした。
「君のお父上が辞退された。円満な解消だ、と。だから──」
あ、そう。
違約金まで。
(やっぱり、か)
驚きはなかった。
怒りも、たぶんなかった。
胸の奥で何かが、ぷつん、と切れた──のではない。
もっと静かだった。ずっと前から緩んでいた糸が、最後の一本、するりとほどけた。それだけだ。
その瞬間。
頭の奥が、ぱちん、と弾けた。
──鉄の匂い。機械油。設計図に引いた線の手応え。試作品が動いた時の、腹の底から突き上げるような高揚。
前世。ものづくりベンチャーの技術者だった、私の記憶。
幼い頃からぼんやりとあった。夢のように。既視感のように。
でも今、糸がほどけたこの瞬間に──全部が、鮮明に戻ってきた。
ああ。
私は。
ずっと、これがしたかったんだ。
「──お好きになさって?」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど軽かった。
「私は私の仕事がありますので」
カーライルが目を見開く。
泣くと思ったのだろう。怒ると思ったのだろう。あるいは、すがりつくと。
「……フィーネ?」
「ローゼをお幸せに。では」
踵を返す。
背中に視線を感じたけれど、振り返らなかった。
◇
自室に戻って、荷造りを始める。
手が勝手に動く。前世の記憶が、こういう時の段取りを知っている。退職手続き。引っ越し。最低限の荷物。
ドレスは二着だけ。実用的な靴。下着。
──それから、アイデア帳。
革表紙の、分厚いノート。
令嬢らしからぬ趣味だと、父には呆れられた。ローゼには「お姉様、また変なもの書いてるの?」と笑われた。
でもこれだけは、誰にも見せなかった。
中身は、前世のぼんやりした記憶を書き留めたもの。日付つきで。設計のメモ。材料の組み合わせ。「もし作れたら」の空想。
鞄の一番底に入れる。これだけは、絶対に置いていかない。
母の形見の宝石を手に取る。
翡翠の耳飾り。母が唯一、私に遺してくれたもの。
……ごめんなさい、お母様。
宝石商に売れば、金貨五十枚にはなるだろう。それが私の全財産。
笑えるほど少ない。
でも、始めるには十分だ。
伯爵邸の門を出る時、誰も見送りには来なかった。
使用人が一人、困ったような顔で頭を下げただけ。
大丈夫。
もう、慣れている。
◇
王都の外れ。
石畳が途切れるあたりに、その店舗はあった。
「ここ、前は魔道具工房だったんだよ」
大家の老婆が、杖をつきながら鍵を開ける。
「主人が亡くなってね。道具も作業台もそのまんま。片付ける人もいなくてさ」
埃だらけの店内。天井から蜘蛛の巣。
でも──作業台がある。基本工具が棚に並んでいる。魔石を削る用の万力まで残っている。
指先が、震えた。
嬉しくて。
「家賃は月に金貨三枚。二階が住居。台所は狭いけど、一人なら十分だろう」
「借ります」
即答だった。老婆が面食らった顔をする。
「あんた、見たとこ良いとこのお嬢さんだろう。こんなボロ屋で──」
「ここが、私の城です」
言いながら、自分で笑ってしまった。
金貨五十枚のうち、家賃の前払いで九枚が消える。残り四十一枚。材料費を考えると、猶予は三ヶ月もない。
でも、いい。
作業台に触れる。指先に、前世の記憶が甦る。木の感触。金属の冷たさ。設計図を引く時の、あの集中。
(──ようやく、始められる)
その夜は、作業台に突っ伏して眠った。
◇
翌朝。
ドンドンドン。
工房の扉を叩く音で目が覚める。
慌てて開けると、エプロン姿の中年女性が立っていた。
「ここ、前の工房の跡地でしょう!? うちの調理器が壊れちゃって、直せる人をずっと探してたの!」
……なるほど。
前の工房の常連さんか。
「見せてください」
受け取った調理器は、魔石式の旧型。構造は単純だ。前世の知識と、昨夜ざっと確認した工具があれば──直せる。
「少しお待ちいただけますか」
これが、フィーネ工房の最初の仕事になった。
修理を終えて代金をいただいた後、郵便受けを覗く。
中に数枚の封筒。王都内の工房向けに一斉配布されたらしい、魔道具開発の公募通知だ。旧工房宛のまま届いたのだろう。
ぱらぱらとめくる。ほとんどは印刷された定型文。
──一通だけ、違った。
端正で几帳面な筆跡の、手書きの補足メモが添えてある。
『暖房効率に関する技術提案も歓迎する』
たった一行。でも、丁寧に書かれた文字だった。
公募通知にわざわざ手書きのメモを添える人がいるのか。変わった人もいるものだ。
メモを通知の間に挟み直して、作業台の端に置く。
さて。
修理はできた。でも、私がやりたいのは修理じゃない。
アイデア帳を開く。
日付入りの、前世の記憶の断片たち。
──火を使わない調理器。魔石の出力制御で温度を一定に保つ仕組み。前世の電磁調理器の原理を、この世界の魔石技術に置き換えたら。
「さて」
埃だらけの工房で、私は腕まくりをした。
婚約者は取られた。違約金も取られた。家族の愛情は、最初からなかったのかもしれない。
でも。
この手と、この頭と、この作業台がある。
それで十分だ。




