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時が移ろい、年度が替わった。
毎水曜日に会う二人の関係は変わらず、そのままずっと続くように思われた。しかし何事にも始まりがあれば終わりというものが訪れる。
ゴールデンウィーク直後の水曜日のその夕、師匠は少年の座っている休憩スペースの席にやってくると、いつもと違いそのまま向かいの席に座った(普段は少年と落ち合うと二人の飲み物を買うため、席を立つよう少年に促がすのだ)。そうして手に持っていた白いビニール袋をテーブルの上に出し、少年の手元に押しやった。
「これ何?」
少年が聞き、中を確かめようとした。袋には何か温かいものが入っていて、ほかほかしている。
「ああ、ちょっと! 開けないで。お母さんにだから」
師匠が慌てて注意した。少年は大人しく言うことを聞き、袋から手を離した。
「何? 焼き鳥?」
その温度とビニール袋の中身の感触で、少年には大体予想がついたようだった。
「ねぎま。塩とタレと二本ずつな。お母さんと二人で食べて。お母さんは帰りが遅いそうだから、夜食にでも」
「なんで? なんでよりによってねぎま? 僕ねぎ嫌いなんやけど?」
少年が不思議そうに尋ねたが、師匠はそれを半ば無視して、ゆっくりしゃべり始めた。
「ねぎまは焼き鳥の中でももっとも焼き方にコツがいるんだ。当然肉はぷりぷりに仕上げなきゃならない。一方で、ねぎは真っ黒焦げなんかにしてはいけない。でもほどよい焦げは欠かせない。そのバランスを保ちつつ、ねぎの甘みを十分引き出して焼き上げていく」
少年はいつになく饒舌な師匠にぽかんとした。
「だから僕ねぎ嫌いやねん。前に言ったやんか」
「まあ、食べてみな。俺の渾身の、焼きたてのねぎまだ。きっと気に入る。君はうちの店でねぎまだけ、食べたことが無かったよな?」
「うん――」
「食べさせられるうちに、食べてもらおうと思って。ねぎまは焼き鳥の基本で、そして一番奥が深く、作るのが難しい。ただ作るんじゃなく、美味しく作ろうとするとな。最後に本物の、美味いねぎまを食べて欲しかった」
「最後? どういう意味?」
少年は嫌な予感を覚えたようで、だんだん興奮してきた。師匠はじっと黙って、答えた。
「正社員になる話が決まって、今度転勤することになった」
「どこの店?」
「N・K市にある店」
「N――栃木の北の方やん。めっちゃ遠いとこやんか。転勤っていつ?」
「来月からそっちに移る」
「引っ越すん?」
「ああ」
「僕の」
少年は瞳に店の照明を反射させてきらきら輝かせた。
「僕の弟子入りの話はどうなるん!」
それは叫び声に近かった。二人のそばを通った親子連れの買い物客がぱっと振り向き、迷惑そうに去っていった。師匠は心の底から悲しそうな顔をした。
「うん、それは」
「中学出たら、ここの店で働けって言ってくれたやんか! それで、焼き鳥の作り方教えてくれるって。約束したやん!」
師匠は鈍い表情をして、黙り込んだ。
「どうしても行ってまうん? ここの店で正社員にはなれへんの?」
「ああ――、もちろんそれが一番だったんだけど、無理なんだ。会社っていうのは色々事情があるんだよ。ここでの社員を目指したら、運が良くてもなれるまでにはまた何年かかかるだろう」
師匠は苦しそうに言った。
「じゃあ僕はどうすればいいん? そうしたら僕、またお母さんと二人きりや。お願い、ここでの社員になるのを目指してや。何年か待ってでも、ここで社員になって、僕と一緒に働こうや。それでええやん。なんでそれがだめなん?」
「分かって欲しいんだけど、これはチャンスなんだ。俺ももう三十八だ。すぐ四十になる。それまでには正社員になっておきたいんだ」
「三十八も四十も今さら大して変わらんやん」
「大してって……」
「だいたい社員とパートの何がそんなに違うん? そんなんこだわるの師匠らしくないよ。ええやんか、師匠は誰にも負けないくらい美味しい焼き鳥作れるんやから、別にパートだって。ここで社員になれるのを待ってよ」
「……」
師匠は完全に黙り込んでしまった。相手が答えてくれないことが分かると、少年は目の前にあった焼き鳥入りの袋に、なんとなしに再び手を伸ばした。
「あっ、それはお母さんにで――」
師匠が慌てふためいたので、少年はいじわるな気持ちからだろう、言うことを聞かずビニール袋を開けて中を覗きこんだ。中には焼き鳥の紙袋が二つ入っていた。
「なん、これ?」
紙袋と紙袋の間に、クリーム色をしたメモ用紙が一枚入っていた。少年はそれをつまみ出した。
「ちょっと、それはダメだ!」
師匠が慌ててテーブルに身を乗り出し、少年からメモ用紙を取り返そうと右手を伸ばした。少年はそれをさっと避けてメモを手元に引き、更に椅子を後ろに引いて師匠からメモを遠ざけた。
メモには師匠の携帯番号と、LINEIDが書いてあった。師匠は少年にそれがばっちり見られてしまったのを確認し、全てを諦め、尻を席に戻した。
少年は初めて会った時のようにニヤニヤ笑いを顔に浮かべた。
「ふうん。お母さんにやな?」
師匠は苦々しい顔をした。
「ああ。ちゃんと渡してくれよ」
「もちろんや」
少年は少し機嫌を直したらしく、破顔した。




