表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/8

第一話

 午後二時五十八分。


 整理券の機械が、一度も鳴らなかった。


 三時。


 自動ドアは開かなかった。


 窓口の前に、杖の先も、茶色い帽子もなかった。


 私は三番窓口の印鑑をケースに戻した。郵便料金表の端をそろえ、釣銭トレーを指で少し押した。


 隣の窓口では、速達を出す女性が封筒の重さを気にしていた。奥の仕分け棚では、輪ゴムで束ねられた葉書がひとつ崩れた。局内の時計は、秒針だけを動かしている。


 三時二分。


 老人は来なかった。


 老人の名前は、まだ知らなかった。


 毎週火曜と金曜。午後三時ちょうど。番号札は取らない。窓口の前に立ち、茶色い革の鞄を左腕にかける。


「普通で」


 それだけ言う。


 封筒を一通、カウンターに置く。私は重さを量る。料金を伝える。老人は財布から小銭を出す。


 そこまで進んで、老人はいつも封筒を戻した。


「またにします」


 小銭を財布へ戻す。封筒を鞄へ戻す。茶色い帽子を少しだけ上げる。


 それで帰る。


 誰も止めなかった。


 郵便局には、出されない郵便物が毎日ある。住所を書き間違えた封筒。切手の足りない葉書。出そうとして、窓口でやめる荷物。


 三時五分。


 局長が奥から出てきた。


「今日はまだ?」


 私は整理券の画面を見た。


「来ていません」


 局長はガラス戸の外を見た。駅前通りには、薬局の幟が揺れていた。向かいのパン屋の前で、高校生が自転車を押している。


「雨じゃないのにな」


 それだけ言って、局長は奥へ戻った。


 老人は雨の日も来た。雪の日も来た。去年の夏、商店街のアーケード工事で歩道が半分ふさがった日も来た。


 封筒は、いつも白かった。


 少し厚い紙。


 角に折れ目。


 宛名は見えなかった。老人は、差し出す時も封筒の表を手で隠していた。指の節が大きく、爪は短かった。


 三時十二分。


 貯金窓口の佐野さんが、小声で言った。


「入院とか」


 局内に、スタンプを押す音が二回続いた。


「さあ」


 私は受付済みのレターパックを青い箱へ入れた。


 三時半を過ぎても、老人は来なかった。


 四時、窓口が少し混んだ。


 転居届を出す家族。ゆうパックの箱を三つ持ってきた男性。現金書留の書き方を聞く人。番号札の音が続いた。


 老人の立つ場所だけ、何度も空いた。


 その場所には、床のシールがある。


 お待ちください。


 青い文字。


 老人はいつも、その「お」の上に右足を置いていた。


 閉局後、私はカウンターを拭いた。


 濡らした布巾を端から端へ動かす。料金表をしまう。ボールペンを三本、ペン立てに戻す。投函口の下に落ちた切手の台紙を拾う。


 三番窓口の下に、白い封筒があった。


 カウンターの内側。


 客側ではない。


 職員側の足元。


 私は布巾を置いた。


 封筒は、床と棚の隙間に半分だけ入っていた。踏まれてはいない。汚れてもいない。角に、見慣れた折れ目があった。


 私はしゃがんで拾った。


 厚い紙。


 少し重い。


 表には、何も書かれていなかった。


 宛名も、差出人も、郵便番号もない。


 切手もない。


 封は、閉じられていた。


「何か落ちてた?」


 佐野さんがロッカーの前から言った。


「封筒です」


「今日の?」


 私は封筒を裏返した。


 糊の合わせ目がきれいに押さえられている。開けた跡はない。裏にも何も書かれていない。


「宛名なしです」


 佐野さんが近づいてきた。手には、退勤用のカードケースを持っている。


「忘れ物?」


「たぶん」


「中、確認する?」


 私は封筒をカウンターの上に置いた。


 局長が奥から戻ってきた。蛍光灯が一本、短く鳴った。


「どうした」


「三番の下に落ちていました」


 局長は封筒を見た。


「宛名は」


「ありません」


「差出人」


「ありません」


 局長は壁の時計を見た。五時二十一分。


「遺失物で記録しておいて」


 私はうなずいた。


 記録簿を開く。


 日付。


 拾得場所。


 拾得時刻。


 品名。


 そこまで書いて、手が止まった。


 品名。


 封筒。


 白い封筒。


 宛名のない封筒。


 私は黒いボールペンの先を紙から離した。


 局長はもう奥へ戻っていた。佐野さんはロッカーを閉めている。シャッターの向こうで、駅前通りの音が薄くなっていた。


 記録簿の品名欄には、まだ何も書かれていない。


 封筒は、三番窓口のカウンターに置かれていた。


 老人がいつも立っていた場所の、内側に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ