第一話
午後二時五十八分。
整理券の機械が、一度も鳴らなかった。
三時。
自動ドアは開かなかった。
窓口の前に、杖の先も、茶色い帽子もなかった。
私は三番窓口の印鑑をケースに戻した。郵便料金表の端をそろえ、釣銭トレーを指で少し押した。
隣の窓口では、速達を出す女性が封筒の重さを気にしていた。奥の仕分け棚では、輪ゴムで束ねられた葉書がひとつ崩れた。局内の時計は、秒針だけを動かしている。
三時二分。
老人は来なかった。
老人の名前は、まだ知らなかった。
毎週火曜と金曜。午後三時ちょうど。番号札は取らない。窓口の前に立ち、茶色い革の鞄を左腕にかける。
「普通で」
それだけ言う。
封筒を一通、カウンターに置く。私は重さを量る。料金を伝える。老人は財布から小銭を出す。
そこまで進んで、老人はいつも封筒を戻した。
「またにします」
小銭を財布へ戻す。封筒を鞄へ戻す。茶色い帽子を少しだけ上げる。
それで帰る。
誰も止めなかった。
郵便局には、出されない郵便物が毎日ある。住所を書き間違えた封筒。切手の足りない葉書。出そうとして、窓口でやめる荷物。
三時五分。
局長が奥から出てきた。
「今日はまだ?」
私は整理券の画面を見た。
「来ていません」
局長はガラス戸の外を見た。駅前通りには、薬局の幟が揺れていた。向かいのパン屋の前で、高校生が自転車を押している。
「雨じゃないのにな」
それだけ言って、局長は奥へ戻った。
老人は雨の日も来た。雪の日も来た。去年の夏、商店街のアーケード工事で歩道が半分ふさがった日も来た。
封筒は、いつも白かった。
少し厚い紙。
角に折れ目。
宛名は見えなかった。老人は、差し出す時も封筒の表を手で隠していた。指の節が大きく、爪は短かった。
三時十二分。
貯金窓口の佐野さんが、小声で言った。
「入院とか」
局内に、スタンプを押す音が二回続いた。
「さあ」
私は受付済みのレターパックを青い箱へ入れた。
三時半を過ぎても、老人は来なかった。
四時、窓口が少し混んだ。
転居届を出す家族。ゆうパックの箱を三つ持ってきた男性。現金書留の書き方を聞く人。番号札の音が続いた。
老人の立つ場所だけ、何度も空いた。
その場所には、床のシールがある。
お待ちください。
青い文字。
老人はいつも、その「お」の上に右足を置いていた。
閉局後、私はカウンターを拭いた。
濡らした布巾を端から端へ動かす。料金表をしまう。ボールペンを三本、ペン立てに戻す。投函口の下に落ちた切手の台紙を拾う。
三番窓口の下に、白い封筒があった。
カウンターの内側。
客側ではない。
職員側の足元。
私は布巾を置いた。
封筒は、床と棚の隙間に半分だけ入っていた。踏まれてはいない。汚れてもいない。角に、見慣れた折れ目があった。
私はしゃがんで拾った。
厚い紙。
少し重い。
表には、何も書かれていなかった。
宛名も、差出人も、郵便番号もない。
切手もない。
封は、閉じられていた。
「何か落ちてた?」
佐野さんがロッカーの前から言った。
「封筒です」
「今日の?」
私は封筒を裏返した。
糊の合わせ目がきれいに押さえられている。開けた跡はない。裏にも何も書かれていない。
「宛名なしです」
佐野さんが近づいてきた。手には、退勤用のカードケースを持っている。
「忘れ物?」
「たぶん」
「中、確認する?」
私は封筒をカウンターの上に置いた。
局長が奥から戻ってきた。蛍光灯が一本、短く鳴った。
「どうした」
「三番の下に落ちていました」
局長は封筒を見た。
「宛名は」
「ありません」
「差出人」
「ありません」
局長は壁の時計を見た。五時二十一分。
「遺失物で記録しておいて」
私はうなずいた。
記録簿を開く。
日付。
拾得場所。
拾得時刻。
品名。
そこまで書いて、手が止まった。
品名。
封筒。
白い封筒。
宛名のない封筒。
私は黒いボールペンの先を紙から離した。
局長はもう奥へ戻っていた。佐野さんはロッカーを閉めている。シャッターの向こうで、駅前通りの音が薄くなっていた。
記録簿の品名欄には、まだ何も書かれていない。
封筒は、三番窓口のカウンターに置かれていた。
老人がいつも立っていた場所の、内側に。




