【①-3/6】【03】海に行こう
梅雨に入って、雨が多くなった。
雪乃は雨を嫌っている。
外出して濡れると乾くのに時間がかかるし、湿度が高いと毛がゴワゴワして気持ち悪いからだそうだ。
確かに、脱げない服を着て水に飛び込んだら、乾くまでの間さぞかし鬱陶しいことだろう。
そういった事情から、雨の日は家で過ごすことが多くなった。
「海に? そうか。行ったこと無いのか」
その日も雨。
外出はせずにリビングで雪乃と戯れていると、雪乃が海に行ってみたいと言い出した。
「梅雨が明けたら行ってみるか。でも、潮風はベタつくからな。帰ったらシャワーだぞ」
「にゃん!」
魁がすぐに乾かしてくれるので、シャワーはそんなに嫌いでもないらしい。
「水に入って泳ぐワケでもないしな。海開きの前なら人も居ないだろう」
「にゃんにゃん。にゃ~」
海に行けるのが嬉しいのか、魁に体を擦り付けて鳴き声を上げる。
「海に行ったら、次は花火大会にでも行くか?」
擦り付く雪乃を頭から体にかけて撫で、そのまま尻尾をふんわり掴んで撫でたとき、尻尾の先の方が膨らんでいることに気付いた。
「雪乃、尻尾の先の方がなんだか太くなってるぞ。違和感はないのか?」
雪乃自身も初めて気付いたらしく、体を折り曲げて尻尾を見たり触ったりしていたが、
「にゃあにゃあ」
特に何ともないようだ。
雪乃の了承を得て、魁もその部分を軽く押したりしてみたが、文字通り痛くも痒くもないらしい。
「念のため、次の休みに病院に行こう。
何でもないのかもしれないが、もし病気なら、尻尾切断、なんてことになる前に治療できるかもしれないしな」
「にゃ~あ……」
病院はあまり好きではないが、魁が真剣に考えてくれるのは嬉しい。
渋々ながら承諾した。
――数日後、雪乃を近くの"湯川動物病院"に連れて行った。
雪乃と暮らすようになってから、健康診断やワクチン接種で何度かお世話になっている病院だ。
院長は高齢で、そこそこ昔から開業しているため建物や設備は古びているが、近所の評判は悪くない。
「雪乃ちゃんはいつ見ても美猫じゃの~!
眩しいくらいじゃぞい。
うおっまぶし!
さてさて、今日はどうしたんじゃ~?」
こんな具合で、院長は年齢に不相応なハイテンションで診察を行うため、病院内は笑いが絶えず和やかな雰囲気だ。
診察に来るたび雪乃をベタ褒めしてくれるのも、魁的にもポイントが高い。
「見たところ尾腺炎かと思うたが、どうやら違うようじゃな~?
痛みは無さそうじゃし、皮膚に炎症も起きてもおらん。
毛並みも新雪のように美しいままじゃし」
コブのように膨らんでいる尻尾を見て一瞬鋭い目つきをしたが、すぐにいつもの陽気な雰囲気に戻った。
他の部位も被毛をかき分けて異常が無いかと色々チェックしたが、特に何かを見つけた様子もなさそうだった。
「こりゃあ病気っちゅうか良性の腫瘍じゃな~。
そんで、一言で言うと、イボじゃ!」
「ということは……害は無いのですか?」
「うむ。今のところは問題ないぞい。
こういうのはの、大体が、ほっといたらいつの間にか引っ込むんじゃよ~
じゃが、腫れが大きくなったり、痛そうにしたり、しきりに舐めたり、と、そういうことをするようになったら、また来たらええぞい」
魁へ注意点を告げながら、カルテに診察結果を記入する。
診察ついでに健康チェックも行ったようで、
「赤神さん、相変わらず雪乃ちゃんへの愛が溢れとるの!
尻尾の他は、健康状態も衛生状態も全く問題ないぞい!」
と、その他に疾患が無いことを告げる。
こういった場合、飼い主はペットを撫でながら「よかったでちゅね~」のような感じで答えたりすることが多いが、魁は一味違う。
「はい。雪乃を愛していますので」
真顔で頷く。
魁のこうした態度は毎度のことなのか、老獣医は驚くような気配もない。
「薬も特に必要なさそうじゃし、これで診察は終わりじゃな~」
「はい、ありがとうございました」
頭を下げて退室し、二人は病院を後にした。
「病気じゃなくて、よかったな」
「にゃあ」
「さっき言われた通り、何か違和感があったら言うんだぞ?」
「にゃぁ~」
魁は、襟巻のようになって肩に乗る雪乃と話しながら、徒歩で帰宅した。
◆◆◆
それから少し日が経って、六月も終わろうという頃。
久々に晴れ間が見えた。
事務所が暇だったら臨時休業の札を下げて雪乃と出かけるところだが、生憎そういう日に限って事務所は忙しかった。
「にゃー にゃんにゃ にゃにゃ」
魁が二階の事務所で報告用の資料をまとめていると、外から雪乃の声がした。
天気がいいので、散歩に出るらしい。
「ああ、気を付けてな」
事務所内には魁だけ。
魁は窓に歩み寄り、手を振って見送った。
「にゃんにゃにゃー」
もう一度魁へ言葉をかけ、雪乃は軽やかに出かけて行った。
――そして、雪乃は帰ってこなかった。
普通の猫なら何日か帰らないこともあるだろうが、雪乃は魁と話せる。
今までも、何日か帰らないなら、そう言ってから出かけていたのだ。
――雪乃が姿を消してから数日が過ぎた。
魁は雪乃が消えた日から事務所を休業し、雪乃から聞いていた散歩コースや、よく行く場所などを中心に雪乃の目撃情報が無いか聞き込みを続けていた。
すると、数日前の夕方にバイクと白猫の接触事故があった、という話を聞くことができた。
城跡公園に向かう途中の住宅街と表通りの境界辺りだというが、雪乃がよく行くという場所からは離れていた。
バイク運転者と警察のやり取りを聞いていた目撃者の話を聞くところによると、塀から白猫が飛び降りて走り出したところで、バイクと接触したという。
バイク側は驚いてハンドルを切り損ね、壁に衝突してブロック塀が一部崩れたため、ちょっとした騒ぎになったそうだ。
なぜか、白猫がその後どうなったかは、誰も知らなかった。
事故になったのは首輪をしていない白猫で、何か月か前から、時折見かけるようになったという。
散歩コースから外れているためか、頻繁に目撃されてはいなかったらしい。
雪乃が自由に外を散歩できるように猫用のドアを付けたのは三月頃なので、約三か月前だ。
その事故があったという日から、雪乃は帰っていない。
そして雪乃がよく行っていた場所でも、事故があった日以降、雪乃らしき姿を見た、という証言は無かった。
(考えたくないが、全て一致する……)
だが、
(死亡した姿を目撃されていないなら生きていると信じたいが……
生きていれば、必ず俺のところへ戻ってくるはずだ)
そして、
(猫は死期を悟ると、どこかへ姿を消すという話もある。
一旦その場を離れてから力尽きたという可能性も否定できないが、雪乃なら、死ぬ時は俺と居たいはずだ。 ……俺が、そうだからな)
しかし、
(そもそも、雪乃は普通の猫ではなく、おいそれと交通事故に遭うとも思えない。
事故に遭ったのは別の猫なのではないか?)
――と考えると、"ではなぜ帰ってこないのか"という問題に戻ってしまう。
雪乃がよく行っていた場所は一通り探してみたが、事故以降、雪乃は消息不明のままだ。
魁には、無事を祈りつつ、雪乃を探し続けることしかできない。
――また、何日か過ぎた。
相変わらず雪乃は帰っていないが、いつ帰ってもいいように皿の水は毎日替えている。
この皿は雪乃と暮らし始めてからすぐ購入したものだ。
雪乃と同じく、白くて、きれいな皿。
雪乃は、この皿をとても気に入っていた。
水の入った白い皿を見ていると、ふと、雪乃と暮らし始めたばかりの頃の事を思い出した。
雪乃は共に暮らし始めてからしばらくの間、魁が近くに居る場合は必ず、魁の方を振り返り、振り返り、食事をしたり、水を飲んだりしていた。
一度魁を見るとすぐ食事に戻るのだが、少しするとまた魁を振り返るのだ。
雪乃からその頃の話を聞いたところ「突然いなくならないか心配だった」らしい。
だが、お気に入りの皿を置いて"いなくなった"のは、雪乃の方だ。
魁は無言で、いつまでも、いつまでも、雪乃の皿を見つめ続けていた。
◆◆◆
魁の日々は、事務所の業務と雪乃の捜索で足早に過ぎていく。
早めに事務所を閉めて雪乃の捜索をしたのだが、その日も雪乃に関する情報は無かった。
重い足取りで家に帰りつき、シャワーを浴び、部屋着に着替えた。
リビングのソファーでぼんやりしていると、電話が鳴った。
「もしもし~」
魁の母親からだった。
時折電話をかけて来て、魁の近況を聞いたり、賑々《にぎにぎ》しく他愛ない話をしたりする。
賑やかな母親の声を聞いて、魁は実家で過ごした年末年始を思い出していた。
父と母、叔母、兄と義姉、甥に姪、魁、そして雪乃。皆で年を越し、皆で家の神社で初詣をした。
積もった雪に、はしゃいでいた雪乃。
甥や姪も雪乃と一緒に戯れ、それを皆で眺めて微笑む、そんな幸せなひと時。
実家の神社には、ずっと雪乃と居られるよう願った。
だが、魁の横に雪乃の姿はない。
程なくして電話は終わった。
通話時間は、いつもよりもかなり短かったように思う。
魁の様子に何かを感じたのかもしれない。
張りつめていた気が緩んだのか、不意に、魁の目に涙が滲んだ。
「……ゆきの……」
◆◆◆
――雪乃が消えてから約一か月。
七月も中旬になると、季節はもう夏だ。
もうすぐ梅雨も明けてしまうだろう。
雪乃がよく行っていた場所では今以上の情報が得られないと判断し、今度は猫が集まる場所を探すことにした。
そこに雪乃が居るとは思えないが、付近の住人から目撃情報が得られるかもしれない。
猫が集まる場所を見つける度、白猫を見ていないか聞き込みを行う。
そこにいる猫達の声にも聴き耳を立ててみるが、当然、言葉は聞こえない。
そうして市内各所を回るうち、川辺の桜並木に差し掛かった。
桜の木を見ていると、今年の春に雪乃と花見に来たことを思い出す。
桜吹雪で花びらが舞い落ち、桜の花に彩られた雪乃がとても美しかった。
魁は人ごみが苦手なため独りで花見に行くことは無いが、雪乃となら花見をするのも楽しかった。
花見だけではない。
雪乃となら、何をしていても楽しかった。
雪乃とは、色々なところへ行きたかった。
もっと、もっと。
ほんの一か月前までの幸せな日々が、遠い昔のように感じる。
今もまだ雪乃の探索を続けているが、未だ有力な手掛かりはない。
――今日から、【特殊調査】で数日家を空けることになった。
雪乃を一緒に連れて行くため揃えた道具も、今回は必要ない。
外出している間に突然雪乃が帰ってきてもいいよう、お気に入りの白い皿に飲み水を入れ、隣に魚のジャーキーも出しておいた。
缶詰でなくても、許してくれるだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
エアコンは、付けたままにしておく。
「海に行きたいって、言ってたじゃないか……
もう梅雨は明けたぞ、雪乃……」
扉の閉まる音が、無人の部屋に響いた。




