成道(じょうどう)――1
六年の歳月が、空しく流れた。
シッダールタはいたずらに肉体を苦しめるよりも、食を取って身体を養い、心の上から解脱を得ようと思った。そのためまず、ネーランジャラー河に入って沐浴をした。衰えた体は力がなく、ゆるやかな流れにも容易に押し流されそうになった。それを樹の根にすがって岸へのぼり、ふらつく足どりで村の中へ入っていった。
このとき、村の地主セーナパテの娘スジャーター[善生]が樹の神に祈事があって良き牛の乳をしぼり、乳粥を作って捧げようと、林の中へやってきた。そして、衰え疲れ果てた姿ながら、どことなく崇高い様子の修行者を見て、敬の心を起した。
「尊い行者さま、どうぞ妾を憐れんで供養をお受けください」
と、彼女は骨と皮ばかりの修行者を伏し拝んだ。
シッダールタはそれを受け、スジャーターの捧げる鉢を手に取った。
喉を通ってゆく乳粥は、気力を奮い起こし、身体に力を与えてくれる。これをきっかけに證を得られるかもしれないと希望がわく。
しかし、この光景を見ていた五人のシャーキャ族の修行者たちは驚いた。
「ゴータマは苦行をやめ、堕落した」
と蔑み、他にも修行者たちの集まる聖地ベナレス[波羅捺]の郊外、イシパタナ・ミガダーヤ[仙人住処・鹿野苑]へと去っていった。
一方、乳粥で体力が回復したシッダールタはさらに林の奥へ分け入っていった。そして、少し開けた場所で足を止めた。
そこは地面が平らかで眺め良く、柔らかな草がそよぐその中央に巨木が生えていた。樹は畢波羅樹[菩提樹]、枝を四方へ伸ばして天蓋のように茂り、美しい花が咲き匂っていた。
たまたまそこにいた草刈の童子から吉祥草の供養を受けてそれを敷き、
「私は證を得られなくば、生きてこの座を立たぬであろう」
とシッダールタは自ら誓った。
足を結跏趺坐に組み、呼吸を整えて禅定に入る。
このとき、はるか彼方の天界に在る悪つ神の宮殿がうち震えた。
「真理の道を、完成させようとしている人間がいる!」
魔王・波旬[パーピマン]は、その修行者の心を乱そうと三人の娘を遣わした。
タンハー[渇愛]、ラーガ[快楽]、アラティ[嫌悪]という名の娘たちは、薄衣の羽衣軽く、瓔珞の花美しく着飾り、艶然と媚を投げかけながら舞い、誘惑しようとした。
「おまえたちは善き果報によって、いま天身を得ているが、やがて無常の老死に襲われよう。形は妖やかであるが心は正しくない。それは美しく彩りした瓶に、臭い毒を盛ったようなものである。欲は身を滅ぼすもと、死して悪道に堕つる因である」
このシッダールタの語によって、たちまち三人の美しさは失われ、浅ましい様子の老婆の姿へと変った。
魔王は怒り、一億八千の鬼神を集めて弩を放ち剣戟を閃かせ、畢波羅樹の下へと押し寄せた。
天地は暗く、雷鳴が耳を聾す。
獅子や熊、牛馬の首をつけたもの、人の頭に蛇の身をつけたものなど、すべての異形異類の姿をした悪鬼夜叉らが牙を噛み、爪を光らし、毒の火を吐き鉾の雨を降らせてシッダールタへ迫った。
空には幾多の星が流れ、黒雲うずまき、大地が震える。河水は逆立ち、振蕩の響き、咆哮する声が凄まじい。
世は闇におおわれ、陽はその光を失って、空には異形の群れが充ち満ちた。
しかし、彼方から魔王の軍勢が殺到しようともシッダールタは少しも動じない。
悪魔の起す狂風も衣の端すら動かせず、豪雨が降ろうとも霧雫ほど濡らすことが出来なかった。石の雨、剣の雨、火の雨を注いでも、それらはみな華鬘と変り、また香粉と変って、四方に散らばるのみであった。
魔王が放つ暗黒もシッダールタに近づけば陽の輝きとなり、投げつけられた武器も華の天蓋となる。
いかなるものも、シッダールタを害うことは出来なかった。
本来の蛇身を現し、魔王が叫ぶ。
「出家よ、樹の下に坐って何を求めるか。速やかに去れ、汝はその金剛座に値するものではない」
けれども、シッダールタは怯みもせず、厳然と答えた。
「天地に覆われたこの世界において、この座に値するものはただ私一人である。遠き古からの宿世の善根に飾られたものでなければ、この座を占むべきではない。
去れ、悪魔よ。妨げるな」
彼が大地を指し示すと、たちまちそこが開く。
轟然たる響きに魔王は怖れ慄き、眷属どもをも顧みず、かき消すように逃げ散っていった。
あたりには静寂が戻った。しかしそれは異様な静けさであった。草木は微動だにせず、鳥の声も虫の羽音すら聞こえない。生き物の気配が、すべて絶えている。
そして、ふと気がつけば、シッダールタの側に黒い男が立っていた。どこといって特徴のない壮年の男だったが、地を這う冷気をまといつかせている。彼が近寄るにつれ、それが背筋をはいのぼってき、戦慄を起させ、周囲を凍りつかせる。
バラモンの姿をしたその男は手にした琵琶を爪弾きながら、歌いかけるように云う。
「汝は痩せて顔色も悪い。死が近づいている。汝が生きられるのは千に一つ。
生きよ。生きてこそ善きことも為せるのだ。
ヴェーダ学生として清らかな行いを為し、聖火に供物を捧げてこそ、多くの功徳を積むことができる。
努め励んだところで、何になろう。
努め励む道は行きがたく、行いがたく、達しがたい」
悪魔ナムチがこのように語ったとき、シッダールタは答えた。
「悪しき者よ、汝は善業を求めてここに来たのであろうが、私にはそれを求める必要がない。信念と精進と智慧をもって道に励む私に、汝は何故、命を保つことを尋ねるのだ。
流れる河も励みより起こる熱風に乾くものを、努め励む私の血が何故、涸れることがあろうか。
血は涸れ、あぶら失せ、肉おちて、心ますます静まる。正念と智慧とで禅定はいよいよ固い。
私はかつて五欲の楽を極め尽くしたが、今やその欲を望はしない。
見よ、この心身の清らかなことを。
汝の第一の軍は欲望、第二の軍は嫌悪、第三は飢渇であり、四の軍は妄執[渇愛]、第五軍は物憂さ睡眠であり、第六軍は恐惰。第七軍は疑惑であり、第八軍は虚栄と剛情、第九は名利であり、第十軍は自讃毀他[自己を褒め称えて他人を軽蔑すること]である。
悪魔よ、これは汝の軍、汝の武器である。勇者でなければ、これに勝ちえず、安らけさに至らない。
この命など、どうでもよい。敗れて生き長らえるよりも、戦って死ぬほうがましだ。一度溺れれば、出家もバラモンも徳者の道を見ず、知らず、行くこともない。
大いなる象に乗り、全軍を率いて来たりし悪魔よ、いざ戦え、私をこの場所から退けるなかれ。
神も人も共に汝の軍勢を破りえないが、私は焼いていない生の土鉢を石で砕くように、汝の軍勢を破る。
心正しく思いを直し、欲を静め、天が下を廻りて私は多くの人々を教えよう。
彼等はまた努め励み、私の教えを守って欲なきに至れば、悲しみはついに尽きるであろう」
悪魔は戦いに利のないのを見て、悄然とした。
「我は七歳、尊師につきまとうていた。しかし、よく気をつけている正覚者にはつけこむ隙がなかった。
柔らかき肉に似た石があり、鳥が集まりて美味を得ようとするが、その味を得ずに去ってゆく。我等も石をついばむその鳥のごとくであった」
悪魔の手より、琵琶がぱたりと落ちた。そして悲しみにうちしおれ、消え失せた。
するとたちまち、周囲に音が戻ってきた。樹の葉、草のそよぎ、陽の暖かさを感じる。
悪魔を退け、心の平安を得たシッダールタは、そこで禅定に入った。
まず欲を離れ悪を去り、初禅の域に達して喜と楽を味わい、第二禅に進んでは心の荒い作用が浄化され、禅定の楽に浸り、第三禅に進んでは、平等のおもいに入って苦楽喜憂の想いを滅ぼし、第四禅に進んでは、静かに清く、汚れなく柔らかく、何物にもわずらわされない心に達した。
そして、その清浄な心をもって過去の生活を憶い、はるか古、スメーダ[善慧]として初代の仏ディーパンカラ(燃燈仏)に誓った己の宿世、布施・持戒・忍辱・精進・決定・智慧・真実・出離・慈・捨の十種の波羅蜜[修行]を修めた百千の生涯、また世の創まりと遠き先の事までも細かに想い起こして、その夜の初めに第一の智慧を体得した。
次に、人々の生死の相、その有様と業に随い流れてゆく様を見た。
(ああ、生死の海はめぐりめぐってきわまりがなく、はてしない流れに沈み、漂うて依るところもない)
悪業を重ね聖者をそしり、邪見を抱いて悪道をめぐる人々と、善業を積み聖者に従い、正しい見解を抱いて善道にゆく人々を見て、その夜の中程に第二の智慧を体得した。
さらに煩悩を滅し尽くす智慧につとめ、『一切は苦』ということを明らかに知り、心は愛欲と無明から脱れてすでに解脱したという確信から、全身にこの上もない歓喜が満ちた。
『生は盡きた、清らかな行は成し遂げた、なすべきことは成し終わった。これが最後の生で、こののち再び迷の生を受けることがない』
と、その夜の終わりに第三の智慧を体得して無明を去り、闇を破った。
頭上にある昧い天空には、明星が大きく輝いている。大気は澄み、青い闇の中で、シッダールタの周囲はすべてが静まっていた。
夜明けが近づく。
東の空が薄紅に染まり、やがて太陽が昇ってあたりを金色の光で照らし出す。
心、愛欲を離れて涅槃寂静に至る。
ゴータマ・シッダールタ、三十五歳のときであった。