◆9.余計なことしてんじゃねェ!!
「……ああ、何と可愛らしい声だろう……! 朱音、彼女を我が腕に抱かせてはくれまいか……!!」
転がるようにして大階段を降り、朱音に抱かれたままの妃沙に手を伸ばすガマ蛙。
そんな情景を目にして、妃沙は半泣きの態で朱音の腕の中でフルフルと首を振っている。
「……朱音様、わたくし、さすがにコレは無理ですわ……!」
朱音にだけ聞こえる声で呟き、迫り来る吐き気を堪えながら訴える妃沙の大きな碧眼からつい、と涙が零れ落ちる。
(──クッソ、泣き顔なんて誰にも見せた事なかったのに……! キモ過ぎるんだよ、この豚蛙……!)
言葉に出してしまえば可愛らしいという評価を与えられてしまうだろう暴言。
きっと「泣いてしまうなんてわたくしったら情けない……! 見るに堪えませんのよ、このカエルちゃん!」という言葉にでも変換されていたことだろう。
罵詈雑言の欠片もない。そんな事を言われたら、こんな相手は滾るだけである。
だから妃沙は、心の中で思い付く限りの罵詈雑言をその悪役に浴びせていたのだが、当然、言葉に出していないので彼女が思っている事など正確に理解しては貰えずにいる。
妃沙はこの時、この身体に転生して初めて、『自動変換』というややこしい能力に対して胸を掻き毟られるような嫌悪感を抱いたのだ。
今この瞬間、元の身体で使っていた言葉を吐いたならば、多少なりともこのブタに衝撃を与える事が出来たかもしれないのに。
だが、妃沙のその嫌悪感は心得たもので、朱音はサッとその醜い塊から隠すように妃沙を抱き締め、冷たい視線をその塊に放った。
「調子に乗らないで下さいな。水無瀬の一人娘を攫って来たらこの念書にサインをして私達とは関わらないという約束だったではありませんか。
この娘は私の切り札です。そう簡単に渡してなるものですか」
ギュッと妃沙を抱き締め、その視界から豪就の姿を隠してくれる。
……正直、人の容姿に対して差別はしない、と誓っていた妃沙にとり、自分がそんな反応を示してしまうことは情けなくもあり……けれど、その姿は生理的に無理だった。
本能が拒否しているのだ、妃沙の意思とは関係ない。そしてその醜悪な様は、容姿というよりはその薄汚い中身がより一層の醜さを加えていた為、悪ぶっているだけで心根の純真な妃沙にはキツいものであった。
「……そんな事を言って良いのかな? お前の店など、簡単に潰してしまえるのだよ?」
「それが出来るならとっくにしていた筈ではありませんか。今回は娘に害が及びそうだったから手を貸しましたけれど……」
そうして朱音は妃沙の視線を隠したまま、男から少し、距離を取る。
「……アタシ達にも我慢の限界ってモンがあンだよ、このハゲェェーー!!」
朱音の口元に近い妃沙の耳は、彼女がそっと覆ってくれていて助かった。その絶叫を直接鼓膜に叩きこまれたらきっと只事では済まない。
だが、化けの皮の剥がれた政治家よろしくそんな絶叫を放つ朱音の言葉を聞き、妃沙の平常心が少しだけ戻って来る。
(──ハハ、やっぱ良いな、この姉さん! そうだな、俺も怯えてる場合じゃねぇ!)
クスッと笑った妃沙が、トントン、と朱音の腕を叩く。もう大丈夫、という意味を込めて。
そして、おべっかを使われることに慣れ切っていた猿渡が直接的な暴言を受けて呆然と立ち尽くしているのをニヤリと微笑んで見やる。
「あらあら。本当の事を言って下さるお仲間すらいらっしゃらなかったのね、オジサマ。それはとても不幸なことと言わざるを得ませんわねぇ……。わたくしが貴方の真実を教えて差し上げますわ!」
良く見りゃ潰れた蛙なんて可愛いモンだ、前世で関わって来た胸糞な奴らを思い出せ、龍之介! ……と、妃沙は自分を鼓舞する。
罪を犯しておいてただその場にいただけの自分に罪を被せようとして来たり。
カツアゲされている風を装い、龍之介に手助けをさせて罪に問い、裏事情を知っている彼を社会的に葬ろうとしたり。
果ては自分の母親や夕季に害を及ぼそうとその後を尾行してみたり。
そういう奴らを、前世では返り討ちにして来た。勿論、証拠など残さなければ、相手が自分を訴え出ようとするようなヘマもしない。あくまで密やかに、そして徹底的に。それが復讐における龍之介のモットーだ。
だが、そんな自分の本当の姿を知れば、夕季も離れて行ってしまうかもしれないと思っていたから、その過剰な報復については決して彼女に知られない様にしていた。
自分を守れるのは自分だけ。そして、男たるもの、誰かを守ると決めたからには綺麗な部分だけ見ていて貰いたい。
もっとも、龍之介の場合、『綺麗な身体』とは言い切れない程にはその手を喧嘩や陰謀の報復に染めていたけれど、それすら夕季には知られたくなかったのだ。
だから、裏で悪意を徹底的に排除していたという事実は、龍之介という肉体から離れ、転生を果たした今も──妃沙の身体を以てしても、絶対に墓場まで持っていかなければならない。
夕季はあれで、曲がったことをとても嫌う純粋な所があったから。
──だが今、この場に知玲の身体の中にいる夕季はいない。そして、信じると決めた朱音の言葉を借りるならば、コイツはただの「ハゲ」である。
「……オ・ハ・ナ・シ、しましょ、オジサマ。平和的に、ね」
ギラリと眼光を光らせて言い放つ様は、まるっきり悪役令嬢のそれである。
何処の世界に誘拐されて尚、その真犯人を脅す五歳児がいるというのか。
朱音はおろか、主犯の猿渡でさえ、妃沙のその突然の変化に度肝を抜かれて言葉を発する事が出来ない。
だが、今や悪役令嬢を演じている自分に気分が高揚している妃沙はノリノリだ。
「せっかく誘拐されてやったのですから、ゆっくりオハナシしましょうよ、ねぇ?
貴方様の言い分もたっぷり聞いて差し上げましてよ……勿論、その上で全て論破して差し上げますけれど。
ねぇ、オジサマ、わたくしとお話なさりたかったのでしょう? ご希望を叶えて差し上げますから、是非平和的にお願いしますわね」
相変わらず朱音に抱かれながら、ギラリとした挑発めいた視線を送る妃沙に、その豚は言った。
「……ボクっ娘妹キャラ……」
「は!?」
「だから、せっかくオハナシ出来るならボクっ娘妹キャラでお願いしたいと言っている!!」
「……はぁ!?」
(──アホか、コイツ。そんなん、俺に対応出来るワケねぇだろうがっ!)
心の中で盛大なツッコミを入れる妃沙。
ところがそこに、今となっては懐かしいあの声──白い葉の大樹の声が響いて来た。
『合点承知之助!』
(──てンめェ、協力はしないんじゃなかったのかよ!? 頼んでねぇんだからこんな時ばっかり余計な事すんな、どうせならこの自動変換を何とかしろよっ!)
心の中で盛大なツッコミを入れる妃沙だが、その声はもはや届かぬ様子である。
この世界を統べると語っていたあの大樹。彼の存在はどうやら、それを発する人間の意思とは裏腹に、『口調』というものに異常な拘りを持つようだ。
だがそれは、妃沙にとってはとても迷惑な話であり……自分や知玲以外にもその犠牲になっている人間がもしかしたらいるのかもしれないな、なんて、魂が抜けかけながら考えてしまう妃沙である。
そもそも、ボクっ娘妹キャラなる口調が、妃沙には全く想像出来なかったのだけれど、やたらと性能の良いスキルだ、きっと猿渡の要望通りの口調を発せられてしまう事は明白であった。
──こうして水無瀬 妃沙五歳。
彼女はこれより、放つ言葉が全てボクっ娘妹キャラに変換されるという脅威に晒される事になったのだった。
そしてそれはこの『交渉』が終わるまでの話なので、普段の彼女を知る人間に見つかる前にその効果が切れる事を、妃沙の為に祈るばかりである。
───◇──◆──◆──◇───
「それでぇ? オニーチャンはボクに何をして欲しくて招待してくれたの? こんな面倒臭い手段を使ってまで呼び寄せたのが、まさかオハナシしたいだけだなんて言わないよねぇ?」
……もはや何処がどのように『変換』されたのかは察してあげて頂きたい。妃沙ですら解っていないのだ。
だが、妃沙のたっての希望でその場に同席する事を許された朱音は今、俯いて肩を震わせており──爆笑しているのが丸解り。
そして、豪華な応接セットの対面で興奮したように鼻息を荒くしている猿渡 豪就は今や、テーブルを乗り越えて妃沙に飛びかかろうとせんばかりの勢いである。
さすがにそれは色々ヤバい、と理解している護衛の強面達によって全力で阻止されている状態だ。護衛頑張れ、マジ頑張れと、妃沙は心の中で彼らに精一杯のエールを送っている。
「……良い、良いよ、妃沙ちゃん……! やはりキミは地上に舞い降りた天使! このまま私の屋敷に逗留してくれたら、この世の贅をつくしたもてなしをしてあげるっ!」
「イヤだなぁ、オニーチャン。そういうのは自分の力で得て初めて満足出来るものでしょ? ボクが望んでここにいる訳じゃない事くらい知ってるでしょうに。馬鹿なオニーチャン!」
そんな言葉を放たざるを得ない妃沙の中の人はもう魂が抜けかけているのだけれど……発する言葉は相変わらずワケの解らない言葉に変換され続ける。
「朱音さん達の店なんてついでだよね。そして言ってみればボクもオマケ。今はさぁ、オマケのボクに全力で萌えてるのかもしれないけど……。
本当は、ボクの家のお隣さんに揺さぶりをかけて何事かを都合良く進めようとしてるんだよね?」
人形めいた顔に嘲笑を載せるその様は、幼児とは言え迫力満点だ。
だが今、そんな全力の嘲りを受けている猿渡にはまるで効果がないどころか、どうやら新たな扉を開きつつあるようだ。
そんな豚面を、妃沙も朱音もドン引きの態で身体を引き、顔を顰めて眺めているが、興奮状態の彼にはそんな妃沙の表情も『ご褒美』であるらしい。
もし彼が犬であったなら──それはきっと、化け物と言わざるを得ないような不細工犬の誕生であっただろうけれど──尻尾を振って妃沙の次の言葉を待っている。
『ボクっ娘妹キャラ』とやらは相当に猿渡のツボのようだ……まことに残念な性癖と言わずして、何を残念と言おうか。言語学者の会議が必要な議題になりそうだ。
「けどさ、こんな事して、ただで済むとは思ってないよね? 知ってると思うけど、水無瀬はともかく、東條の中枢は『警察組織』だよ?
だから政財界に顔が利くんだなんてこと、流石に脳みそがミジンコ以下のオニーチャンだって知らない筈がないよねー!」
アハハ、と、聞く人が聞けばイラッとするような笑い声をあげる妃沙。相変わらずそれは猿渡を悶えさせる効力しかなかった。
だが、妃沙の言う『東條』の家についてはまさしく真実である。
知玲の生家である『東條』は代々警察組織の重役を輩出して来た家柄なのだ。
そして、未だ子どもながら武道と知識を学び、真っ直ぐに成長しつつある知玲もまた、将来はそのトップに君臨する事を期待された身である。
別に、東條が清廉潔白な一族であるからではないことは、知玲も妃沙も知っている。特に犯罪に関わる事の多い家だからこそ、グレーな取引も多いのは事実だ。
ただ、この世界の警察組織は、以前、彼らが生活をしていた『日本』より血筋を重んじられる、貴族社会にも似た組織であった。
政財界と警察は浅からぬ因縁で繋がっているものであり……二人っきりでの勉強中に「僕がトップに立ったらそんな因縁を断ち切れると良いな……」と知玲も呟いていたものだ。
そんな妃沙の言葉を受けた猿渡が、ふと表情を引き締め、悪役に相応しい下衆な笑いを見せる。
前世で好んだ時代劇の悪役そのままの様相に、妃沙は思わず目を見開いてしまったくらいだ。
「妃沙ちゃん、懐柔してしまえば警察など怖いものではないんだよ。今、私の手の中には次期トップの弱みがある。婚約者の両親にすら溺愛されている君を手中に収めればどんな交渉でも上手く行くんだよ。
大人の世界ではね、君のような逸材は取引の材料の一つとして、重要な意味を持つんだ。その為にここにご招待したんだからね。
その上ここの美貌、そして私の要望に即座に応えてくれる演技力……! 手放す? 冗談じゃないよね!」
ハァハァと、鼻息とその独特の匂いのする口臭を撒き散らしながら妃沙に迫る猿渡。
さすがに臭覚への刺激は慣れ辛く、「お花のニオーイ!」と妃沙が叫んだ瞬間、周囲は艶やかなフローラルの香りに包まれた──勿論、妃沙の魔法である。
「私がただ愛でる為だけに君をご招待したとでも? 君はね、ここにいるだけで切り札となり得る存在なんだ。
……グフフ、そうだよ、それこそ、どんな状態であってもね」
(──ついに音に出してグフフって笑ったぞ、コイツ!?)
だからツッコミ所はそこなのかと、今まさに彼女にツッコまざるを得ないのは全世界共通の思いだ。
だが、妃沙のそれは既に魂に刷り込まれたレベルの光速ツッコミなので勘弁して頂きたい。
そして、そんなアホなツッコミを入れている隙に豚足ならぬ豚手鬼が妃沙に向かって伸ばされ……
「触ったら燃やすぅぅぅぅーーーー!!!!」
絶叫した妃沙の指先から大きな炎が飛び出し、トンカツを調理すべく、猿渡に向かって放たれた!
◆今日の龍之介さん◆
『それで? オジサマはわたくしに何をして欲しくてご招待下さいましたの?』
「……ってそっちに『変換』してんじゃねーよッ!!!!」




