第27話 緊急配備
闇を裂くポルシェの咆哮。
県警の敷いた網は、獲物を逃さぬはずだった。
だが、包囲された黒い影から漂うのは、
愛弟子の愛した「ネロリ」の残り香でも、
監禁場所を満たしていた「ジギタリス」の毒気でもない。
九条ナギの鼻腔を突いたのは、
死を予感させる硝煙と、冷徹な殺意の化学反応。
「……そこにあるのは、爆薬だ」
絶望の火柱が上がる中、狂い始めた運命の歯車。
炎に照らされた九条の瞳に、非通知の着信が不気味に反射する。
拐われた、向日葵が、賢明に追い掛けていた。
「……九条か! 状況を言え、九条!」
ポルシェのスピーカーから、野太く、焦燥に満ちた声が響き渡った。警視庁捜査一課、近藤刑事だ。
「向日葵が攫われた……。黒のワンボックス、品川ナンバー……いや、偽造だろうが、下3桁は『5-21』だ」
「何だとッ!?」
受話器の向こうで、近藤が机を叩くような激しい音が聞こえる。
「あのバカども、ついに実力行使に出やがったか……! 九条、お前は深追いするな。今すぐ本部に連絡して、管轄全域に緊急配備(緊配)をかける! 横浜港、大黒ふ頭、狩場インター……鼠一匹逃がさん!」
「近藤、あいつらは防毒マスクをしていた。ただの誘拐犯じゃない。重武装の可能性がある」
九条の声は、怒りを通り越して氷のように冷え切っていた。シフトレバーを叩き込み、ポルシェを3速から4速へ。エンジン音が高らかに夜を切り裂く。
「……分かってる。SIT(特殊捜査班)にも待機要請を出す。いいか、九条! 現場は俺たちが押さえる。お前は……」
「……断る。教え子を奪われて、黙って茶を啜るほど、私は枯れていない」
九条は通信を一方的に切断した。
その頃、県警本部では近藤が怒号を飛ばしていた。
「各局、各局! 横浜市中区、商店街付近で発生した拉致監禁容疑、黒のワンボックスを追跡せよ! 周辺の検問を最優先、逃走ルートを封鎖しろ! ……おい、無線を回せ! 奴らの先回りをするぞ!」
横浜の夜が、赤と青の閃光に支配された。
近藤の発した緊急配備により、主要道路は県警のパトカーによってことごとく封鎖されていた。検問の列、けたたましいサイレン。空にはヘリの爆音が轟く。
「各局、ターゲットをベイブリッジ手前、本牧ジャンクション付近で捕捉! 追い詰めたぞ、全車包囲せよ!」
無線から近藤の勝利を確信した声が流れる。
九条はポルシェを路肩に止め、その光景を睨みつけていた。前方、パトカーの群れに完全に囲まれ、身動きが取れなくなった例の黒いワンボックスが見える。
「……終わったな」
九条はインカムのスイッチを入れた。近藤への感謝を伝えるためではない。……何か、言い知れぬ違和感が彼の鼻腔を突いたからだ。
それは、風に乗って運ばれてきた、微かな臭気。
パトカーから飛び出した防弾チョッキ姿のSIT隊員たちが、ワンボックスを取り囲む。
「運転手、エンジンを切れ! 両手を上げて外に出ろ!」
緊迫した膠着状態。だが、車内からは何の反応もない。近藤が覆面パトカーから降り立ち、メガホンを手に取ったその時だった。
「……待て。近藤、近づくな!」
九条がインカムに叫ぶ。
「あいつらは……向日葵は、そこにはいない!」
「何だと? 何を言ってやがる、九条! 車は完全に押さえたんだぞ!」
「匂いだ……」
九条はポルシェから降り、夜の空気を大きく吸い込んだ。催涙スプレーの刺激臭の奥にある、あの忌まわしい匂い。
「ジギタリスの甘い匂い……地下室にあった、あの
薬物の匂いが、あの車からは全くしない、ネロリの香りもな!」
「匂いだと……? 馬鹿なことを!」
「そこにあるのは……ニトロセルロースと、微量の硫黄。……爆薬の匂いだ! 全員離れろッ!!」
九条の叫びと同時に、完全に包囲されていたワンボックスが、凄まじい爆音と共に紅蓮の炎に包まれた。
ドドッッッッンン!!
爆風に吹き飛ばされる警察官たち。近藤も覆面パトカーの影に身を隠し、爆発の衝撃に歯を食いしばる。炎上するワンボックス。
それは向日葵を乗せた車ではなく、警察を引きつけるための、精巧な「動く爆弾」に過ぎなかった。
九条は、燃え盛る炎を見つめながら、その場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえた。
「蠍」は、警察の動きすら完全に読んでいたのだ。
ジギタリスの匂いは、ここにはない。
ならば、本当の向日葵は今、どこに――?
その時、九条の携帯電話に、非通知の着信が入った。
第27話の修正版、いかがでしたでしょうか。
今回は「香り」の対比にこだわりました。
九条が守りたかった「ネロリ」の清廉な香りが、火薬の硫黄臭に上書きされてしまう。この対比が、今の九条の「怒り」の深さを物語っています。
爆発という物理的な破壊で警察の足を止め、その隙に直接九条を誘い出す「蠍」の用意周到さ。
もはやこれは単なる事件ではなく、九条ナギという男の魂を削るための「実験」のようでもあります。




