第20話 警視庁捜索一課〜事件香り
イタリアでの死闘を終え、銀座に戻った九条を待っていたのは、かつての知己・近藤刑事からの不穏な依頼でした。
密室に残された「甘くて懐かしい匂い」。それは、かつて九条が対峙した宿敵「黒い蠍」の再来を告げる旋律。
香りを慈しむ者と、香りを凶器に変える者。
守るべき助手・向日葵を背に、九条ナギの新たな戦いが幕を開けます。
平和な、調香室は、今日も穏やかでした。
イタリアの乾いた風を忘れさせるような、日本の湿った夜の空気。そして、あの時と同じ、事務的で重厚な革靴の音。コツコツコツ…。
九条は、手に持っていたピペットを置くこともせず、冷ややかな視線を近藤に向けました。
「……近藤刑事。警察の科学捜査は、以前の『高い授業料』で少しは進歩したのかと思っていたが。また鼻が詰まったのか?」
「皮肉はいい。……今回の仏は、密室の会議室で絶命していた。外傷も毒物の痕跡も、防犯カメラに不審な人物の影さえない。だが、現場に足を踏み入れた鑑識の数名が、奇妙な『違和感』を訴えているんだ」
近藤がカウンターに置いたのは、証拠品封入用の特殊な樹脂袋。その中には、被害者が身につけていたネクタイが入っていました。
「……『ありえないほど、甘くて懐かしい匂いがした』とな。だが、現場に花も芳香剤も、食べ物すら置いてはいなかった。……あの時の、あのハンカチの男(第8話の犯人)とは、また違う異質さを感じる」
銀座の静寂を破る、馴染みのある重厚な声。九条はピペットを置き、冷ややかな視線を近藤に向けました。
「……近藤刑事。以前、あの図書館で加藤を捕らえた際、君たちの鼻は十分に鍛えられたはずだが?」
「嫌味を言うな。……あの時、君の『感覚反転剤』で加藤を仕留めたが、奴はただの末端だった。今回、密室の会議室で死んでいた男のネクタイからも、あの時と同じ**『古いヘリオトロープ』**の残香が検出されたんだ」
近藤が置いた証拠品。九条がその空気を吸い込むと、脳裏にあの日の記憶が蘇ります。
――「これを使えば、君を裏切る者は皆、安らかに眠る」。加藤に毒を授け、九条の店のロゴを嘲笑うかのような「黒い蠍」のマークを刻んだ正体不明の調香師。
「……『蠍』か。私の鼻を侮辱し、香りを凶器に貶める、不純な影」
九条の瞳に、かつてないほど鋭い「憤怒」の火が灯りました。しかし、以前の彼と違うのは、その隣にいる向日葵の存在です。
「先生、またあの怖い人たちの仲間なんですか……?」
不安そうに袖を引く向日葵に、九条は一瞬だけ柔らかな視線を向け、すぐに近藤へと向き直りました。
「いいだろう、近藤刑事。……ただし、今回の報酬は金も必要だが、その背後にいる『蠍』に繋がる、すべての情報を頂きたい」
九条は、棚の奥からかつて綾香(第6話)に贈られた**「ネロリ」**の精油を取り出しました。
清らかで、すべてを浄化するようなオレンジの花の香り。
「犯人が『懐かしい香り』で死を招くなら、私は『今を生きる香り』でその欺瞞を暴いてみせよう。……向日葵、準備しろ。これは、パフューマーとしての、宣戦布告だ!」
九条の瞳に、論理と計算、そしてイタリアで手に入れた「生への執着」が宿ります。
「いいだろう。この香りの奥に隠された、不純な正体を解体してやる。……ただし、今の私の鑑定料は、以前よりもさらに高くつくぞ」
第20話より、新章「黒い蠍・追跡編」が始まります。
第8話で捕らえた加藤は、単なる駒に過ぎませんでした。九条のロゴを模した「蠍」のマークを操る黒幕は、九条にとって鏡合わせのような存在かもしれません。
今回、九条が手に取ったのは浄化の香り「ネロリ」。
汚された香りの尊厳を取り戻すため、九条の鼻が銀座の闇を切り裂きます。




