第16話 炎城の王子
「匂いなんて、どうでもいい。あなたがそこにいることだけが、私の真実なの」
調香師を志す者として、それは口にしてはならない言葉だったのかもしれません。
けれど、白い断崖の頂、燃え盛る炎の中で立ち尽くす彼の姿を見たとき、私の世界からすべての「色」も「香り」も消え去りました。
残ったのは、ただ一つ。
凍りついた彼の鼓動を、もう一度動かしたいという願いだけでした。
ヘリの爆風が砂を巻き上げ、古城の残骸に燃え盛る火が赤黒い影を投げかけます。
向日葵は地面に飛び降りると、正面の炎の傍らに立ち尽くす人影に向かって、一心不乱に駆け出しました。
そこには、向日葵が愛した、あの凛としたナギの姿はありませんでした。
彼の周囲には、フェリーで嗅いだものよりも数十倍濃い、**「焦げたゴムと死んだ花の腐敗臭」**が物理的な壁のように立ち込め、空気を歪ませています。
ナギの瞳は虚空を見つめ、焦点が定まっていません。自らが作り出した、あるいは浴びせられた「禁忌の香り」によって脳を麻痺させられ、自身のアイデンティティさえも失いかけている、変わり果てた姿でした。
迷わずその胸へ
「先生……! 九条さん!!」
向日葵は、鼻を突く猛烈な悪臭も、彼が放つ拒絶の気配も、すべてを無視してその胸に飛び込みました。
ナギの体は氷のように冷たく、抱きついた瞬間に彼を覆う「死の香り」が向日葵の衣服や髪にまで侵食してきます。一瞬、吐き気が向日葵を襲いますが、彼女は腕を緩めるどころか、さらに強く彼を抱きしめます。
「お願い、戻ってきて……。匂いなんてどうでもいい。あなたがそこにいる、その鼓動だけが私の真実なの!」
二人の香りが混ざり合う
向日葵の体温と、彼女が握りしめていた**「マキア(野生のハーブ)」の枝**が、ナギの纏う「死の香り」と激しく衝突します。
九条の胸の中で、向日葵は子供のように泣きじゃくりながら、必死に彼の胸を叩きました。
「私は、九条ナギの助手です! 一人で消えようなんて許さない……。私も一緒に悩みます。だから、死なないで!」
その言葉が、凍りついたナギの心臓を動かしました。
彼の瞳に光が戻り、冷たかった肌に、向日葵の体温が伝染していく。
「……すまない、向日葵。君の香りが……俺を、連れ戻してくれた……」
遠くで見守るファルコの瞳が、ヘリのライトに反射して静かに細まりました。彼はあえて近づくことはせず、ローターの音の中に独り言を紛れ込ませます。
「計算式にはない人を支える不純物が、呪いを解いたか。……さらばだ、九条。お前の助手は、師匠の誰よりも優れた調香師になるぞ」
漆黒の翼が夜空へと旋回し、去っていく。
燃え盛る古城の炎を背負い、向日葵を強く抱きしめ返すナギの姿は、まさに絶望の淵から生還した「炎城の王子」そのものでした。
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ついに、向日葵の魂の叫びがナギに届きました。
完璧な理論で塗り固められた「死の香り」を打ち破ったのは、皮肉にも計算不可能な「愛」という不純物。ファルコが去り際に残した言葉には、彼なりの敗北宣言と、師匠の秘蔵っ子である向日葵への敬意が込められています。
炎を背負い、助手の腕の中でようやく「生気」を取り戻したナギ。
彼はなぜ、自らを焼き尽くそうとしたのか。九条家の血に流れる「禁忌」とは何だったのか。
物語の大きな山場を越え、舞台は静かな「夜明け」へと向かいます。




