覚悟
「……珍しいお客だね」
そう一言発した女は、犬一匹を従えた男が、血まみれの人間を抱き、衣服から雨を滴らせながら、開いた扉の前に無言で立っているのを見た。
男の横顔と服の襟には、血がべっとりついていた。
女は男に近寄り、大丈夫か、と問うと、男は無表情で両腕に抱えている血まみれの人間を女の方に差し出して見せた。
女はそれを見るやいなや、こっちだ、と短く言って男を処置部屋の方に案内した。
ここは街の中にあるが、迷路のような路地を進んだその先にある、ひっそりと佇んだ小さな医院であった。
二十歳後半と思われる女は茶褐色の長髪を後ろで一つに結い、ぱりっとした麻の衣を纏っている。
太い眉とまっすぐな鼻筋が目立った。
午後の診察を終え、手前の椅子に腰掛けてゆっくり茶を飲んでいた女は、思いがけない訪問者に内心驚いていた。
「どうしたってんだい、ハグム、この子は」
女が尋ねると、
「……どうやら複数人に殴られ、切られたようだ。治せるか」
ハグムは無気力にそう答えた。
ハグムをちらりと見遣った後、目の前の血まみれの人間を見て、女はため息をついた。
「診てみよう」
一度処置部屋から出されたハグムは、椅子に腰かけ、女が渡してきた布を頭に被ったまま動かずにいた。
(ハクタカ……すまない。私のせいだ)
膝に両肘をのせ、ひたすら祈っていた。
ハクタカの無事を。
しばらくして、女は処置部屋の扉を開けた。
ハグムは、自身の頭上に影が落ちたのに気づいた。
前に立った女は、お入り、とハグムを部屋の中に案内した。
「鼻と下顎、肋五本骨折、全身打撲に刀傷。腹も何度も蹴られているね。腹のなかも出血しているだろう。とどのつまり、瀕死さ」
ハクタカの顔は血が拭き取られていたが、青白く、生気がなかった。
「……」
ハグムは無言だった。
「だが、内臓を刺されずにすんでよかった。大丈夫、時間はかかるけど命に別状はないよ」
カナは続けてそう言った。
「……そうか。よかった。恩に着るよ、カナ」
魂が抜かれたように頭を垂れ、立ちつくすハグムを見て、カナは両手を腰に当て、囁いた。
「あんた、ずいぶん痩せたね」
「……そうかな」
ハグムは力無く微笑んだ。
燭台の火が揺れる中、外の雨は一向に止むことはなかった。
今日は泊まっておいき、とカナはハグムに伝えた。
椅子に座り、寝台に横たわる蝋燭で照らされたハクタカの横顔を見ながら、ハグムは今朝の左大臣の言葉を思い出していた。
『…早く仕事を済ませ、帰った方が良いだろう。その綺麗な服が汚れないうちに…』
(はじめから、仕組んでいた。私が傷つけられたこの子を見ることになるのも見越して……。あいつは、人質以上に、ひどい仕打ちを)
唇を噛み、ハグムは組んでいた両手にぐっと力を入れると、指の爪が手に食い込み皮膚が白く滲んだ。
「まだ起きてたのかい」
部屋に入ってきたカナが、ハクタカの傷の包帯の交換にやってきた。
「この子の隣の寝台で寝ていい、って言ったろう」
カナが手際よくハクタカの胸の衣服をばっと広げると、ハグムは慌てたように体を横にして、ハクタカを背にした。
それを横目で見ながら、カナはつぶやいた。
「わけありのようだね」
カナはハクタカの血のついた古い包帯をとり、皮膚の消毒を施し、新しい包帯を巻き直した。
「……ああ。カナ、頼みがある」
ハグムは、背を向けたまま、カナに言った。
「なんだい」
「この子が目覚めて私のことを聞いてきたら、私はここに来てすぐ役所へ立ち去ってしまったと伝えて欲しい。そして、私が、この子が女人であると知っていることは、この子に言わないでくれ」
「へえ?」
カナは一瞬手を止めたが、すぐに処置を続けた。
処置を終えたカナは、ハクタカの服を整え、優しい手つきで布団をかけた。
「……金はいくらでも出す。この子を頼む」
「ははは!同じ軍事部にいたよしみから、金をふんだくる医者にみえるか?私は」
ハグムは、ふ、と笑い、すまない、と言葉を漏らした。
カナが立ち去ると、静まり返った部屋で、ハグムは椅子に座ったまま窓の外を眺めていた。
外の雨音はより一層強くなっていった。
蝋燭の蝋は短くなり、灯る火が頼りなく揺れている。
ハグムは視線を窓からはずした。
ハクタカを見つめるその瞳は、揺らいでいた。
ハクタカの左手をぎゅっと握った後、ハグムは微かに笑い、その左手の甲に、そっと自身の唇を当てた。
「……好きだった。君のことが」
ひどく、小さく囁かれたその言葉は、雨音が簡単に消していった。
ハグムはハクタカの左手を布団の中に静かに滑り込ませた。
しばらくすると、蝋燭の火はジジ、と音をたて、やがて消えた。
煙が上り、部屋の中は一気に暗闇に包まれていく。
ハグムは音も立てずに部屋を後にした。
「カナ、私は帰るよ」
暖炉の前でチボに餌を与えていたカナに、ハグムは声をかけた。
「……なに言ってるんだい。外は真っ暗で大雨だよ」
「いいんだ。やることが山積みでね。チボはここに置いて行ってもいいかな」
「構わないが……」
いつもの冷静な声なのに、どこか感情が抜け落ちてしまったようなハグムの顔に、カナは眉を顰めた。
ハグムが玄関の扉に手をかけると、カナは問いかけた。
「あんた、口数は少ないが、私はあんたのやる事為す事にすべて意味がある事は知ってる。……ハグム。あんた、もしかして何かやばいことに首を突っ込もうとしてないかい?」
「……なんのことかな」
声色は笑ったように聞こえたのに、そう言葉を漏らしたハグムの顔は笑っていなかった。
暗闇の嵐の中、立ち去ったハグムの背中を見送り、カナは一抹の不安を覚えた。
全身雨でずぶ濡れになりながら、役所の自室に戻ったハグムは、机の上の巻物を手に取った。
「軍師は怯者であれ……」
ハグムは師の言葉を思い返していた。
「一人の大切な人間すら救えないんじゃ、軍師失格。そうだろう?師匠」
力の限り握りしめられた巻物は濡れ、『王命』という文字が微かに滲んでいた。
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