第1話 片目で買った安全装備
弟の死体は、思ったより軽かった。
レクは泥に膝をつき、ロトの身体を背負い直した。血は繋がっていない。だが、外縁区で同じ穴蔵に寝て、同じ腐った粥をすすって育った。レクにとっては、弟だった。
背中に触れる鎧は立派だった。ギルド推奨品。外縁区の冒険者が一生かけても買えないような、安全任務用の防護装備。
そのはずだった。
胸当ての表面には、まだ商会の刻印が残っている。耐衝撃。耐爪撃。耐酸。銀色の札にはそう彫られていた。
だが、内側は腐っていた。
毒霧が入り込んだ部分から革と金具が黒く崩れ、ロトの胸元に貼りついている。鎧の合わせ目から、焼けた肉と湿った鉄の匂いがした。
レクの左目の奥が疼いた。
そこにはもう目がない。空の眼窩を布で覆っているだけだ。
ロトを囮班から外すために売った。
片目一つで、外縁区の子供一人ぶんの命が買えるなら安いと思った。ロトはまだ十五だった。足も速かった。笑うと犬みたいに歯を見せた。
「レク兄、これなら俺、前線じゃなくて素材回収で済むんだよな」
装備を受け取った日のロトは、胸当てを何度も叩いていた。
「素材回収で金を貯めたらさ、穴のない屋根の部屋を借りようぜ。雨の日に寝袋が濡れないやつ」
そんなことも言っていた。
レクは答えた。
「ああ。ギルド推奨品だ。安全任務用だって言ってた」
言ってしまった。
信じさせてしまった。
そして今、レクはその安全装備をまとったロトの死体を、自分の手で運んでいる。
城塞都市ヴェルムの外壁は、背後に黒くそびえていた。壁の上では衛兵がこちらを見下ろしている。城門の下には死体回収班の荷車が並び、まだ温かい遺体と、もう人の形をしていない遺体が積まれていた。
回収屋に支払われるのは、生きて戻った数ではない。
識別札の数と、素材袋の重さだ。
レクはロトの首から識別札を外した。泥と血で読みにくいそれを、親指でこする。
ロト。
それだけで、空の眼窩が熱くなった。
「おい、片目」
門の近くにいた回収係が鼻を押さえた。
「その死体、感染疑いだ。内側が腐ってる。焼却列に置け」
「冒険者だ」
「死んだら同じだ」
レクは返事をしなかった。ロトの身体を荷車へ下ろす。乱暴に投げることだけはしなかった。
死体回収屋は、死体の扱いだけは慣れている。
首の角度を戻す。折れた腕を胸の上に置く。識別札を布に包んで懐にしまう。
それから、ロトの鎧を見た。
胸当ての外側は、まだ銀色に光っていた。
レクが留め具を外すと、その裏だけが黒く崩れていた。表の商会刻印は綺麗なまま、内側の革と防霧膜だけが腐り、ロトの服に貼りついている。
毒霧だ。
魔境の低地でよく出る。吸えば肺が爛れる。だから安全装備には防霧膜が入っているはずだった。
入っているはずだった。
レクは奥歯を噛んだ。
「片目を売っても、救えなかった」
誰に聞かせるでもなく、そう吐いた。
回収係は聞こえなかったふりをした。
死体の積み込みが終わると、レクはもう一度外壁下へ戻った。ロトの班は全滅ではなかった。だが、まだ回収されていない装備と死体が魔境側に残っている。
外縁区の回収屋に休みはない。
死体は放っておけば魔物を呼ぶ。魔物が食えば増える。増えた魔物はまた外縁区の冒険者を食う。
だから、誰かが拾いに行く。
その誰かが、いつもレクだった。
外壁から少し離れると、地面の色が変わる。草は灰をかぶったように白く、窪地には緑の霧が溜まっていた。そこに、腹を裂かれた魔物が倒れている。
小型の腐肉喰いだ。人間の死体を飲み込んで、腹が膨れている。
レクは腰のひび割れたナイフを抜いた。切れ味は悪い。戦うための刃ではなく、死体と革紐を分けるための道具だ。
魔物の腹を開く。
中から半分溶けた手袋、折れた骨、錆びた留め具がこぼれた。
その中に、白く濁った球があった。
義眼だ。
ひびが入っている。金属の縁は噛み砕かれ、刻印も読めない。本来なら鑑定士が見向きもしない廃棄品だ。
レクはそれを拾い上げた。
義眼の表面に、かすかに文字が揺れた気がした。
左目の奥が疼く。
失った穴が、そこに嵌めろと言っているようだった。
「……どうせ、空だ」
レクは左目の布を外した。
冷たい風が眼窩を舐める。痛みというより、記憶に近い震えが走った。片目を売った台の匂い。焼いた鉄。商人の指。硬貨の音。
レクは義眼を押し込んだ。
世界が割れた。
右目で見える景色と、左目に流れ込む濁った光がずれる。地面が波打ち、死体の輪郭が二重にぶれた。吐き気が込み上げる。
普通なら、これで終わりだった。
壊れた義眼など、視界を悪くするだけだ。
だが、濁った左目の奥にだけ文字が浮いた。
《対象:壊れた鑑定義眼》
《隠し効果:正規鑑定から弾かれる情報を表示》
レクは息を止めた。
頭の奥で、知らない記憶が崩れ落ちてくる。
ハクスラ。
ビルド。
欠点を重ねて、別の形に変える考え方。
壊れたもの、弱いもの、失敗したものの中から、噛み合う一個を探す感覚。
意味は分かる。だが、自分の記憶ではないようで、ひどく遠い。
それでも、レクの手は動いた。
ロトの鎧へ向かっていた。
荷車の上へ戻り、布を剥がす。回収係が嫌そうな顔をした。
「おい、勝手に触るな。焼却前の死体だぞ」
レクは無視した。
壊れた義眼で、ロトの胸当てを見る。
《対象:ギルド推奨防護胸当て》
《表評価:表示不能》
《隠し欠陥:毒霧環境下で内部防霧膜が腐食》
《条件:湿度上昇/装着者体温/連続曝露》
レクは動けなくなった。
外側は守る。
内側だけ腐る。
だからロトは逃げられなかった。装備が壊れたと分からないまま、守られていると思ったまま、中から焼かれた。
レクが片目で買ったものは、防具ではなかった。
見栄えのいい棺桶だった。
「……遅い」
レクの喉から、掠れた声が漏れた。
この情報が昨日見えていれば。
この義眼が昨日あれば。
ロトに別の装備を渡せていれば。
空の左目が、熱を持った。壊れた義眼の奥で、赤い文字だけがいつまでも揺れている。
回収係が近づき、苛立った声を出した。
「おい、片目。いつまで死体を見てる。焼却列に――」
レクは返事をせず、腰のひび割れたナイフを見た。
安物だ。刃こぼれだらけで、戦闘用としては最低評価。回収屋が死体から紐を切るために使う道具でしかない。
義眼に文字が浮く。
《対象:ひび割れたナイフ》
《表評価:低威力》
《隠し効果:腐食部位の継ぎ目を剥離しやすい》
《条件:解体時》
レクはナイフをロトの胸当ての腐った留め具へ入れた。
今までなら、黒く固まった革と金具を力任せに削るしかなかった。だが、刃先を当てるべき継ぎ目だけが、濁った視界の中で細く浮いた。
刃を入れる。
腐食した留め具が、音もなく外れた。
ただの安物ナイフが、戦うためではなく、剥がすための道具として機能した。
小さすぎる変化だった。
ロトは戻らない。
片目も戻らない。
それでも、レクは理解した。
ハズレは、本当に弱い。
けれど、弱さの向きが見えれば、使い道がある。
レクはロトの識別札を握ったまま、立ち上がった。
「値札も等級も、もう信じない」
回収係が眉をひそめる。
「何だって?」
レクは答えなかった。
右目には、城壁と荷車と死体が見えている。
左目には、捨てられた装備の中に残った、正規の鑑定が弾いた文字だけが見えている。
レクはロトの腐った胸当てから、黒く変色した留め具を一つ外した。素材にはしない。使うためでもない。ただ、忘れないために懐へ入れる。
そして、低級装備ガチャのある外縁区の商会小屋へ向かった。
もう、正規の価値では選ばない。
ハズレを見に行くために。




