キツネさん、服従させる
会社をたたむと聞いた週末が明けた翌月曜日。専務に会社経営がもう不可能な領域になってきたと聞いて倒産かと思っていたが、単純に廃業手続きをするだけだったようだ。どちらにせよ俺からしたら職場がなくなることに変わりない。
と思っていたのだが、捨てる神あれば拾う神ありとでも言うべきか、廃業する意思を取引銀行に伝えると同業社への事業譲渡を提案され、採るべき手段の一つとして検討するようだ。そのため、俺も譲渡先の企業との話し合いなんてものに駆り出されたりするのも含め、思った以上に社内がバタバタし始める。これもどちらにせよ俺からしたら、今の業務のケリをつけて再就職するか、余計なもんを背負って譲渡先企業の新しい職場に慣れるかという、負担が違うだけなのではと思う。どっちの方がしんどいのだろうか。
ああ、いろんなことを考えなきゃいけないのが面倒くさい。たたむのかくっつけるのかなんでもいいが、動き出すならさっさと方向性を決めてほしい。
かったるくて機嫌がよろしくないとはいえ、キツネさんには関係のないことだ。いつも以上に時間が進むのが早くてもう週末だ。話し合いで時間を食って日が落ちてそこそこ時間も経ってから退社をし、人目の少ない路地裏でじっくり時間をかけて深呼吸を二度行い、お迎えを願う連絡を入れる。すると、間もなく背後から柔らかな感触に包まれた。
「お疲れ様じゃ、タダシ殿」
「あ、はい。お迎えありがとうございます」
抱き着かれているので表情を確認できないが、どうも声色が不機嫌なご様子である。俺よりも不機度合は高そうだ。
「強い酒を飲みたい気分じゃ。今日の夕飯はバーでとるとしよう。どうじゃ?」
「構いませんよ」
是非もなく家の近所のバーへ空間を飛んで行く。酒の種類が豊富なのはバーとして当然として、食事もそこそこ力を入れていて美味い。就職してしばらくの間、背伸びして近所の飲み屋を開拓していた時に見つけてしばらく通っていた店だ。
夕食に行くには開店時間が遅めなので微妙な店なのだが、俺が帰るのが遅めになって、かつ、翌日俺が酔いつぶれても大丈夫な金曜日の夜という条件の日に、キツネさんを待たせて申し訳なく思って酒メインの店へ行くのもいいだろうと連れて行って以来、キツネさんのそこそこお気に入りになった店である。分身さんがよく深夜に飲みに行っているらしい。
逆に言えば、俺がキツネさんに紹介した店であるものの、下戸な俺と行くことは珍しい店でもある。
入店早々いつもどおりなキツネさんのとりあえずビールの流れに俺も従う。そして無言で食事メニューに目を通していたキツネさんは、ビールの配膳に合わせて適当に食べ物を注文し、まずはお疲れ様と軽くグラスを掲げた。ほぼ同じ高さでグラスでグラスに軽く触れる。
一口飲んで二人同時に溜め息をついたところでキツネさんに尋ねた。
「で、何があったんです?」
「ん。忙しいところに申し訳ないんじゃがの。仕事で嫌なことがあってのう、少々愚痴りたい」
「まあ、聞くくらいならできますよ」
というか、キツネさんがこの世界のことで愚痴りたいというのが大変珍しい。俺に慮ってか滅多にしないようでもあるが、この地球上での大抵の事態なら強行突破でなんとかしてしまえる御仁であるからして。
「端的に言うとのう。身売りさせかけられた」
「穏やかじゃないですね。平和な日本といえども拉致なんかの犯罪はあるわけですけど」
「そうさな。腕を掴まれて強引に連れて行こうとした奴らを半殺しにして金を巻き上げた程度ならこちらでも無くはなかったんじゃが」
身売りと聞いて無理矢理連れ去られかけたのかと思ったが、平然と犯罪に巻き込まれかけて、逆に犯罪し返したことを告白するキツネさん。
「大丈夫なんですか」
「分身が地方で遭ったことなんじゃがの。ああいう奴らはどこもいつでも面子が全てじゃ。女に殴り倒されたと訴えなんぞせんだろうよ。問題はない。そのときは上役にも話を通したし、むしろ感心されたし。分身の無事については言わずともよかろう」
上役て。上役がいるような愚連隊を相手にしたということか。ヤのつく人か。
え? ヤのつく人とステゴロしてナシつけられるような人の手綱を握れと言われていたのか。なんかコントロールできなさ具合が生々しくて、人間核兵器の手綱を握るよりも実感が酷いぞ。今更なんだけども。
「まあそれは些末なことである。話に出たついでではないのじゃが本題はの、分身がそういった上役に近しい者と音楽関係の仕事で面通しをせねばならなくなってな」
話しながらキツネさんは俺の前に灰皿を差し出し、間を置いた。何も言わず、そのまま視線を虚空に向ける。
これまた珍しい。普段俺がキツネさんも前では吸わないようにしているのを知っているのにそうするということは、遠慮なく一服つきながら聞いてほしいということだろうか。
ならばと一本口に咥えて火をつけ、一息、真上に吐き出した。それを合図とするかのように、キツネさんが口を開く。
「会って一言目に、脱げ、と言われてのう。ジロジロといやらしく上から下まで舐め回すように見られて、ああ、これは会社からの体を売れという指示なんじゃろうな、と思うての。相手は商売する上で無視できない身分で、身売りをせんと仕事に不都合があるということなんじゃろうなと」
いわゆる噂に聞く枕営業というものか。これが普通の女性が言われたのならば、恋人への貞操を守る重いと芸能界デビューの天秤をかけての思いに悩んで結果どうなった、と深刻な様相となるところだろうが、そんなことにはならなさそうな事例をすでに挙げているキツネさんである。
「殴り倒して踏みつけて、売るのは歌だけじゃ、とそのまま歌ってみせたんじゃがの」
ちょっとだけ予想の上を超えてるが、まあ想定内である。
しかしキツネさんの表情は晴れないままだ。
「踏みつけたまま歌ったんですか」
「うむ……で、相手がそのまま達しおっての」
「は? 達しおって? え?」
「口さがなく言えば、踏まれたまま射精しおった」
沈黙が俺とキツネさんの間に降りる。予想の斜め上である。思いもよらぬSMプレイ。
俺はどう反応していいものか困り、キツネさんは何かを悩み。いつの間にか長くなった灰を灰皿に落とし、混乱したままキツネさんに声をかける。
「それは、その……大変でしたね?」
「大変……うむ、大変じゃったんじゃが、タダシ殿。体を求められて性的に満足させたとあらば、分身であってもこれは浮気になるのかのう?」
「ならないと思いますよ。俺は踏まれて喜ぶ性的嗜好はないので、なんかもう色々よくわからないです」
「儂も踏んで喜ぶ趣味はない。その男も、こんな経験は初めてだ、などと言っておったし、そういう趣味があったわけではなさそうなんじゃがの。もっと歌を聞かせてくださいと、履物の股間を濡らしながら言うもので、気持ち悪くて、ついまた蹴っ飛ばしたら、ありがとうございますと嬉しそうに言いながらまた達しおってのう……」
キツネさんが少々憔悴している。頭を抱えて溜め息をつき、本気で困っているように見える。こんな姿を見るのは初めてだ。不機嫌さの方向性としては、関係者への苛立ちと、俺に事態をどう説明したらいいかという戸惑いからか。
注文した料理が来たのと同時にキツネさんのビールのお代わりを頼むと、店員さんは空気を察してかそそくさと戻って行った。
「お前みたいな奴に体を売らねばならんのならこんな仕事願い下げじゃと言ったら、踏まなくてもいいので歌を辞めないで下さいと言われ、もう一回蹴ってしまい、再びありがとうございますと言われ。二度と顔を儂の前にさらすなと言ったら覆面ならライブに行っていいですか、ときた」
「とりあえず歌が認められたってことでいいんじゃないですかね」
「歌で稼ぐのがこんなに面倒だとは思わんかったのう……まあ、不義理ではないのであればよいかの」
小さく薄い生地のピザを小動物のようにちまちまサクサク食べながら、キツネさんは呟いた。
そんな面倒はキツネさんだけ……だろう、多分。




