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よあけ  作者: 紙仲てとら


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第23話

 タビトが食事を始めたのを確認して、彼女はいつもの作業に戻った。

 バスルームを洗っているらしい音を遠く聞きながらタビトは、サラダの山にフォークを差し込む。いつも食べているものと同じなのに今日は特別おいしく感じる。

(あの男にもこうやって食事を用意してあげたりするんだろうな)

 咀嚼しながら彼は先日目撃したシーンをありありと思い出す。

 蕎麦屋の前で見たチカルはいつもの凛とした顔ではなく、やわらかな表情をしていた。

 神秘的なまなざしで男を見上げ――相手からの親密なスキンシップにリラックスした様子で言葉を交わすその姿。思い起こすたび、ほろ苦い思いが心の内側を焦がす。

 男との関係がどうしても気になった。夫なのか恋人なのか友人なのか……友人であってほしいと思ったが、仮にそうだとしてもあの距離の近さはいただけない。まったく、不愉快だ。

 なぜ不愉快になるのか自分でもわからないまま、険しくなった顔でもりもりとサラダを口に詰め込んでいると、洗いたての洗濯物が入ったランドリーバスケットを抱えたチカルが戻ってくる。タビトの方を見ることなく、忙しない足取りでドライルームに入った。その背中を見送りながら口の中のものをごくりと飲み込む。

 思い切って、あの日のことを話題にしてみようか――そんな考えが頭をよぎった。「探りを入れたい」という気持ちと「やめておけ」という気持ちが真正面からぶつかり合う。

 すこしして、チカルがドライルームから出てきた。視線を当てられていることにも気づかずにクローゼットからハンガーを取り出している。タビトは唇を開きかけたが、結局「やめておけ」の方に軍配が上がり、呼び止めようとした声を呑んだ。

 ハンガーを手に戻っていくチカルを見つめ、すこし冷静さを取り戻した頭で思う……関係性を訊ねたとして、答えは聞く前からわかっているも同然だと。彼女がフリーだとは思えないし、恋人か夫であることはほぼ間違いないだろう。

(どんなところに惹かれたんだろ……。性格?顔?ガタイの良さ?)

 ガタイの良さっていうなら俺だって……と、なぜか対抗心を燃やし、スウェットシャツの袖をまくって力こぶをつくる。服の上から腹筋に触れてくっきりと割れた感触を確かめ、胸筋の盛り上がりを確認し、そして――……がっくりと肩を落とした。かなり筋肉質な方だとは思うが、たぶんあの男には負けている。

 190センチ近くあろうかと思われる巨体。ジャケットの上からでも筋肉の付き具合がわかるくらいだ、脱いだらもっとすごいに違いない。

 彼は渋い顔でテーブルに頬杖をついた。指のあいだでフォークを揺らしながら悶々と考え込んでいたが、やがて鬱屈した気分を吹っ切ろうとするかのように冷たいミルクを勢いよく飲み干し、席を立つ。

 キッチンで皿を洗い始めるとまもなく、食器がぶつかるかすかな音を聞いたチカルがドライルームから飛び出してきた。

「私にお任せください」

 足早にキッチンにやってくる。先ほどもそうだったが、こちらが食べる以外のことをしたらペナルティでもあるのだろうかと思うほどだ。

「業務外のことをしてもらって申し訳ないし、このくらいやらせてください」

「お手を煩わせるわけにはまいりません。食事を用意すると言い出したのは私ですので」

「だとしたって、自分で使った皿くらい自分で洗いますよ」

 タビトは手を止めようとしない。慣れた様子でさっさと汚れを落とすと、水で泡を流していく。

 その場に立ち竦み戸惑いの眼差しを注いでくるチカルを横目に見た彼は、ふいに顔をほころばせる。

「意外ですか?もしかして、なにもできない甘ったれだと思ってた?」

「まさか!」彼女はかぶりを振って否定し、「水仕事は女がするものと教えられてきたものですから……申し訳なくて」

 その答えに、タビトは口角に浮かべていた笑みを消す。

 容姿が若々しいため忘れていたが、チカルはもうすぐ39歳――若くして結婚した自分の両親とさほど変わらない年齢だ。

 この世代を育てた親が“男は仕事、女は家事育児”という考え方をしていたということは、タビトも祖父母を通して知っている。未だに祖父は、自分で茶の一杯も淹れようとしない。

 しかし、こんな調子の祖父に育てられていても父は家事を積極的にこなす男だ。

 父や周囲の人間をみるにつけ、現代社会において性別役割分業意識はすこしずつ薄れてきているように感じていたが――どうやら彼女は今も「女としての役割」に強いこだわりを持っているらしい。

 濡れた手を拭いながら、先ほどのチカルの必死さを思い起こす。

「あまり気負わないでください」

 顔を曇らせている彼女を正面から見つめ、彼は穏やかな声音で続けた。

「女性にしかできないことはあるだろうけど、女性だからやらなきゃならないことっていうのはひとつもないと思うよ」

 小さな桃色の唇をきゅっと引き結んだ彼女は、情けなく眉を下げる。その申し訳なさそうな顔を見た彼は、そっと目元に笑みを滲ませた。 

「食事を用意してくれてありがとう。おいしかったです。ごちそうさまでした」

 チカルは言葉を失くしたまま顔を伏せ、静かに一礼する。

 時計を見れば、そろそろ迎えの時間だ。彼が忙しく身支度を終えたとき、タイミングを計ったかのようにインターホンが鳴った。

 玄関で靴を履いていると、チカルがわざわざ玄関まで見送りに来てくれる。

「お気をつけていってらっしゃいませ」

「いってきます」

 あの男の影をチカルの姿に重ねつつ、ひらりと手を振る。当然振り返してはくれなかったが、扉が閉まる直前、わずかに黙礼してくれたのを彼は見逃さなかった。

 後ろ髪を引かれる思いのままエレベーターに乗り込み、深く息をつく。ふと横目で鏡を見れば、なんとも酷い顔だ。彼は鞄の中からマフラーを引っ張り出し、顔の下半分を隠すようにぐるぐる巻いた。

 その数時間後。

 チカルは難しい顔のままタビトの住むマンションを出て、とぼとぼと家路を歩いている。

(あったかいミルクの方がよかったよね……)

 この寒さを知っているのに、本当に気が利かない。キンキンに冷えたミルクの方が好きなのかもしれないが、それでも食卓に出す前にあたためるかどうか訊ねるべきだった。それが配慮というものだ。

(ドレッシングは用意するのを忘れるし、皿洗いまでさせてしまうし……あれじゃ、外で食事をした方がずっと楽……。用意するだなんて言わなければよかった……)

 取り留めもなく思いながら、彼女は強い北風に首を竦め人知れず溜息をこぼす。そうして白い息を何度も宙に漂わせながら力なく肩を落とした。

 女性“だから”やらなきゃならないことはひとつもない――ほとんど無意識に、チカルはその言葉を胸の奥で繰り返す。

 彼女にとってはタビトの言動すべてが新鮮だった。

 生まれ育った村では家父長制や男尊女卑の思想が根強く残っている。タビトの言うような考えは一切通用せず、女を労うような声掛けをしてくれる男もほとんどいない。だからこそ彼の「なにかあれば自分で用意する」という発言や自発的に皿洗いをする姿に少なからず驚き……そして戸惑ってしまった。

 シュンヤを含め、地元の村の男たちは何かにつけて女を使う。特に食事の際は顕著で、やれ取り皿がないだの醤油がないだの酒を持ってこいだの、女たちは尻で座布団を温める暇もない。そんな状況であっても女たちは誰も文句を言わなかった。

 冷めていく料理を横目に取り皿を配り、空いた皿を下げ、やっとひとくちふたくち頬張ったところで今度は追加の酒を取りに席を立つ。普段の食事のみならず、祭事や法事、慶事の席でそのような場面を多く見てきたチカルは、自分も男に対し自然とそのような振る舞いをするようになった。女への気遣いなど期待したこともなく――ましてや男に皿洗いをさせるなんて考えたこともない。

 しかし彼女が不遜な男たちの要求をすべて受け入れ、黙って額ずいてきたかといえばそれは違う。食卓を囲んだ際の慣習には素直に従い、周りの女たちの思想に準じた対応をしてきたが、男たちがこちらの意見を無視して物事を強要してきたときには真っ向から抗った。生意気だなんだと言われ口汚く罵られようと、生き様を否定されたり、心を土足で踏み荒らされることはどうしても許せなかったのである。

 駅に入った彼女は立ち止まり、改札を遠目に見た。近くの柱に寄り添うようにして立ち、スマホを取り出す。

 シュンヤからメッセージが入っていたが、彼女は読もうとはせずスマホをトートバッグに押し込み、踵を返して駅を出た。こんな気持ちのまま家に帰りたくなかった。

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